補遺 その二

わが日常

引越騒動記

30数着の着物がたった5千円

 33年間住んだ、千葉県市川市のアパートを出て、東京都東大和市に引っ越したのは平成19年4月14日 (土) のことであった。その前後各々1ヶ月というものは思い出すのもおぞましい、混乱と当惑の期間であった。

 旧居は昭和49年に完成した7階建90世帯のひと棟であった。その建物の5階の一番端の部屋がわが家であった。4LDKというのであろう。リビングルームのほかに4部屋があり、われわれ夫婦、子ども二人それに母親を入れて5人家族には丁度過不足のない構造といえた。昭和61年には母が亡くなった。その後相次いで子どもらが自立すると、わが家は夫婦二人の住まいとなる。我が国の住居の標準としては、4LDK、95㎡の部屋は二人住まいには決して狭いとはいえない。しかし、年月が経つにつれてしだいに物が増えていき、あの部屋も、 この部屋も倉庫代わりに使われて、いつまでも狭さをかこつ暮らしは改まらなかった。

 そこに降って沸いた引越し話である。引越しは先ず、家中にあふれかえる物の整理から始めなければならない。典型的な物は妻と娘の和服である。一棹の和箪笥に入りきれない着物は、専用の紙箱に入れて、箪笥の上に、天井まで届くほど積み上げてある。なかには買ってから一度も手をとうしたことのない、仕付け糸のついたものが2着ほどあった。妻も娘も、もう和服は着ないという。妻は、結婚式に出るとか、和服着用の機会には借り着で済ませるという。娘にいたっては、すべて処分してくれという。娘は外人と結婚して海外に定住している。近所の、妻の友人に一部を譲った外は、専門の業者に5千円そこそこの値段で引き取られていった。これらの和服の購入に百万円以上の資金を投下した私としては、憤懣やるかたない仕儀であった。妻は、謡や仕舞いなど習い事のために、何着もの着物を作ったが、何十年前の妻の浪費を責めてみたところで、現在の慰めにはならない。

3千冊の蔵書がたった5万円

 和服の処分以上に、気持ちを傷つけられたのは蔵書の処分であった。年初から、まだ具体的には何も決まっていない引越しに備えて、まず英語のペーパーバックとか文庫本を、次に小説本、辞典、図鑑などを、市役所が回収する 「燃えるゴミ」 で出すのであるが、1週間に1回のペースでは、焼け石に水で、蔵書整理は遅々として進まない。サラリーマンの小額の小遣いの中から、新聞の新刊広告を切り抜いたり、書評を検討したりして、慎重に選んで買った本である。「燃えるゴミ」 に出すのは辛かった。

 古本高価買い入れなどと広告している古本屋に当たっても、近頃はハードカバーの本は売れないとか、何とかいって腰が重い。況してや、ついでに数千冊の本を全部引き取ってくれなどというこちらの注文には全く乗ってこない。ついに近所の古本屋、「ブックオフ」 にお出ましを願った。彼らの古本買取の基準は極めて明瞭である。本が新品同様であること、すなはち日焼け、しみ、カビ、書き込みなどのないこと。定価が明示されていることの二つである。中味は全く問題にしない。彼らは、これら新品同様の本を定価の5%で買い取り、これに買い取り価額の4倍の値段をつけて売るのである。私は子ども時代から本を大事にするようにし付けられていたので、読み終わった本も新品同様である。書き込みや傍線などは勿論皆無だ。しかし、何十年も本棚に並び、或いは倉庫にしまい込まれた本は、新品の状態を維持することはできない。とくに戦前の本や昭和20年代の本は紙質が悪い上に、インクや印刷や製本が悪くて、とても 「ブックオフ」 の基準に合格しない。結局、私の蔵書約2千冊のうち、ブックオフに買い取られていったのは481冊、代価は15、100円であった。

 妻の蔵書は約千冊、買い取られたのは506冊、24,260円であった。妻は30年来、仲間と一緒に、近世地方文書(きんせいじかたもんじょ)の解読の勉強をしてきた。近世地方文書とは江戸時代から明治初期の墨書の手紙や、庄屋が代官宛に出した年貢軽減の陳情書などをいう。新井白石の諸書とか、幕末の蝦夷探検家、松浦武四郎関係の本などは、素人の蔵書としてはかなりのものであった。

 「ブックオフ」 が帰った後、趣味のパソコンサークルの仲間に、一部の本を引き取ってもらった。もともと、蔵書をわが家に展示して、自由に引き取ってもらうつもりであったが、何しろ時間的余裕がない。1 月下旬には、新居の売買契約を締結し、3月下旬には引渡しを受けたのに、4月中旬の引越し予定日に引っ越せる目処が立たないのだ。家の中には捨てるものと、新居に持っていくもの、どちらにするか決めがたいものが無秩序に散乱して、手のつけようもない。皆さんに蔵書カードを回覧して、希望図書を募り、引き取ってもらった。これにも時間的な制約があり、すべての希望をかなえることができなかった。『日本の歴史』24巻、『大世界史』24巻、『絵本通俗三国志』12巻などが処理できたのはせめてもの慰めであった。

手元に残した本

 幸い、引越し作業を依頼した運送会社の努力により、残った数千冊の本を市の中央図書館に引き取ってもらうことになった。これによって、苦労して集めた愛着のある本の多くを、焼却所で焚書(ふんしょ)の刑に処することだけは免れた。それはまた多額の焼却費用負担を免れたことでもあった。焼却料金は重量建てであり、本は重量物だからだ。これは引越し騒動の中の数少ない朗報のひとつであった。

 結局私の手元には、どうしても捨て去ることのできない本、約300冊が残った。折にふれて開いて、拾い読みをしたり、参照したり、死ぬまでに、もう一度読みたい本である。国史大辞典18冊、鴎外、漱石あわせて数十冊、万葉集をはじめとする勅撰和歌集十数冊、近代歌人の歌集十数冊、東洋文庫数十冊などが主なものである。洋書では、ソルジェニーツィンの 『August 1914』、バーバラ・タックマンの 『八月の砲声』 (和訳上下2冊)、以上は第一次世界大戦の独露戦のうち、タンネンベルクの戦いのドキュメンタリーである。第二次大戦物では、サミュエル・エリオット・モリソンの 『Two Ocean War』、これは第二次大戦海戦史である。ジョン・ダワーの 『War Without Mercy』 副題に Race & Power in the Pacific War とある。これは太平洋戦争中の日本軍と連合軍の著名な残虐事例を取り上げて、民族的憎悪について考察したものである。『無慈悲な戦争』 と題して邦訳されたが、原書にある詳細な注が省かれている。ともかくこれは、対戦した両陣営の残虐さに、公平な目配りが為されている。そのため、米国内で非難の対象となったいわくつきの本である。小説ではグレアム・グリーン、ジョン・ル・カレのスパイスリラー数冊を残した。

 言い忘れたが、わが旧住居のアパートは1階部分が30セクションのトランクルーム (物置) になっている。蔵書の置き場所として、入居のときにこのうちの1区画を買った。広さは3.92㎡ (1.18坪)。一方の壁に三段の棚をつけ、数冊づつに小分けしてハトロン紙で包んだ本を、包みの表にナンバーをつけて棚に積み重ねた。手元には蔵書カードがあり、それには個々の本の題名、著者名、出版社名、出版年月、版数、定価が記入してある。カードの右肩に紙包みのナンバーをつけて、 必要に応じて、直ぐに取り出せる工夫をした。もう一方の壁には大型木製の書棚をいれ、その脇には組立式、鉄製の本棚を置いた。当初は本をそのまま書棚に入れたが、後には本が増えて、書棚のほうもみな紙包み方式にした。全蔵書の7割を倉庫に、残り3割が居間というぐらいの割合であったろうか。新居の広さは85㎡で、旧居の95㎡に較べてかなり小さい。その上トランクルームがない。蔵書のほとんどを処分しなければならないのは当然のことであった。

運送会社と契約
 市が経営する廃棄物処理は、分別ぶんべつが厳しいばかりでなく、物によって収集する日が決められている。引越しのように短期間に、多量のものを捨てなければならないケースでは、公的な無料処理にばかり頼ってはおられない。車を持っている人は、自分の車で廃棄物を焼却場まで運ぶのである。焼却場のゲートを入った時の車の重量と、出る時の車の重量の差がすなはち持ち込まれた廃棄物の量である。この重量差に1キロ当たりいくらと処理料が徴収されるわけである。

 車を持たないわが家では、公的処理の量を超えた廃棄物が、うずたかく居間に積み上げられて、当惑する日々が続いた。このような日に、偶然にも、パソコンサークルの仲間の一人、佐藤さんが運送会社の経営者であることを知った。彼女に相談すると、一も二もなく、廃棄物の処理ばかりでなく、引越し作業を包括的に引き受けるという。引越し作業は、この運送会社の主な仕事の一つであった。これによって私は、かねてから気の重かった大手引越し会社との交渉のわずらわしさから逃れることができた。このことは、引越しに伴う精神的な重圧の多くの部分を解消した。肩の荷が下りたというか、安堵感というか、忘れることのできない快事であった。事実この会社は、見事なチームワークで、引き受けた仕事をこなし、私の期待に応えてくれた。

嫁の活躍

 引越し作業について、どうしても言及しておかねばならないのは、倅の嫁、なおみの活躍である。彼女は40代のはじめであるが、娘時代、妹とともに家事整理業のベンチャー企業を経営していた。彼女の作業原則は次の二つにまとめられる。先ず第一、引越しに際してはすべてのものを捨てて、新居で再出発する。捨てるものの中から、当面必要なものを選び出して持っていく。第二に、包装物はすべて捨てる。それによって持っていく物の容量が激減する。私たち夫婦は、膨大な物量の中から、捨てるものを選び出していた。彼女の手法は、捨てるものの中から生かすものを選び出すのである。アプローチの方向が正反対なのだ。彼女の方法が合理的であることを、理屈では納得しても、さて実際に当たっては、難しいのだ。第二の問題も、われわれのように、「勿体ない」 という精神が深く心の中に浸透している世代のものは、実行が難しい。蕎麦とか食料品などの入った立派な木製の箱を、捨てないで、何かに使えるのではないかと考えるのだ。

新居
新居断面図

 新居は約250世帯の入る14階建ての一棟の、9階の一部屋である。洋室3、和室1それに約12畳のリビングルームがつく。専有面積は85㎡。家具をしかるべき場所に置き、夜具、衣類から食器まで、落ち着くべきところに落ち着かせるのに、約1ヵ月半はかかったであろうか。南側の広いバルコニーからは晴れた日に富士山が見える。市川の旧居から見る富士山の5倍の大きさがあろうか。富士山の南には大山、丹沢の山々があり、右手に向かって大菩薩峠から秩父山系まで望見される。北側の開放通路からは、山並みが切れて関東平野の広がりが眼下に見える。冬季には筑波山が見えるはずで楽しみである。「西に富士、東に筑波・・・・」 と浪花節の文句にあるとおりである。

USEN

 新居の団地では、パソコンの光ファイバー接続をプロバイダーのUSENが独占している。そのため私はこれまでのNTTのBフレッツマンションタイプを、USEN に替えなければならない。引越しの前日、借用中のモデムを NTT に返還する。モデムの電源を切った瞬間、インターネット接続は休止となる。あらかじめ NTT から送られてきた精密機器郵送用の袋にモデムを入れる。これもなかなか神経を使う作業であった。この袋を、指定された郵便局の職員が引き取りにくる。引越し騒動で混乱している最中、これらの作業に手をとられるのは、かなりの精神的労力的負担であった。

 引越しの翌日、USEN から送られてきたモデムを、電源に接続する。初期設定用ソフトをパソコンにインストールする。ソフトの指示通り操作してパソコンの引越しは終了した。この間の USEN のマニュアルや指示は簡単・明瞭・的確で危惧していたトラブルは起きなかった。

 USEN に支払った初期費用の7875円は約束どおり、10ヵ月後にキャッシュバックされた。今後、インターネット接続にかかる費用は月額、USEN 払い3480円+BIGLOBE 払い735円,合計4215円となる。私は、ひかり回線変更後も、メールアドレスとホームページのURLを変更しない選択をしたので、BIGLOBE に対し735円/月の支払いが必要ということである。これまで BIGLOBE へは、ひかり回線使用料+モデムレンタル料+プロバイダ利用料合わせて月額約4200円を支払っていた。プロバイダ変更後の経費も以前と変わらないことになった。最近のNTTの宣伝パンフレットによると、Bフレッツマンションタイプの通常月額利用料は3938円とある。私は何かオプショナルサービスでも受けていたのであろうか、引越し前の支払額は約4200円であった。

 USEN との契約後1年間は、月額基本料金は特別サービスとして1980円に減額される。プロバイダ変更によって、18000円ばかりの経費節減になった。当初、新築団地への光ファイバー回線を独占する USEN に反感を持っていたが、これまでの経緯で、この感情もいくらか緩和された。

 その後、当団地の管理組合は、NTT東日本、KDDI と交渉して、これら2社のひかり回線も入ることになった。結局、現在は、下記の3社が競合する状態である。

 USEN     GyaO 光
 NTT東日本 Bフレッツマンションタイプ
 KDDI      ひかり one

 上の3社が競合するようになって、KDDI から次のような説明の勧誘があった。同社の ひかりone に加入すれば、固定電話の月額基本料金が NTT の1700円から、997円に下がる。その上、ひかり one の通話料は3分間一律8.4円となる。これに対しNTT は、県内8.925円、県外31.5円である。  私は、光電話の信頼性の問題と、USEN の GyaO光+NTT の固定電話の組み合わせでスタートしたばかりという条件を考えて、電話料金の多少の増加はあっても、当分はこの状態を維持することにした。(この項はH19.11,30記す)

新居の白壁

 新居の内部は白壁である。これはかなり心理的な圧迫になることがやがてわかった。訳もなくいらいらして、周りのものに当り散らすのである。これは私ばかりでなく妻も同様であった。引越し荷物が片付かない間はやむをえないことであった。しかし、こちらに来てから2ヶ月もたてば、落ち着かなければおかしい。1日中、何となく病院にいるような感じがするのだ。ある人は刑務所にいるようだという。刑務所には入ったことがないのでわからないが、ここ数年、病院とは懇意にしているので、患者として病室に起居する感覚はからだが覚えている。これは何とかしなくてはと思うものの、新築の団地に入ったばかりで、内部を塗り替えるのも非常識である。写真や絵,それに能面のようなものを飾ればいいのだろう。壁の白い部分の面積を減らす必要がある。

カルロス四世の家族

 最も重要なのは、リビングルームである。ここの壁には、10数年前、マドリッドのプラド美術館で買ってきたゴヤの 「カルロス四世の家族」 の複製を貼り付けた。元の画は280センチ×336センチもあり、美術館の一室を占拠して、存在を誇示しているが、これは55センチ×71センチしかない。布のキャンバスに絵の写真を複製したものである。18世紀末、ゴヤはスペイン王室のお抱え絵師であった。カルロス四世はスペイン王でありながら政治には全く興味がない。狩猟と音楽に明け暮れる遊び人であった。政治の実権は王妃のマリア・ルイーサに握られている。夫に顧みられない王妃は、容姿のすぐれた近衛騎兵伍長のゴドイを愛人とする。終にはこの若い愛人を総理大臣に登用するのである。下の写真で王妃の両脇の女児と男児は愛人との間にできた子どもといわれている。画家のゴヤは、愚鈍な王の顔と、無知で好色・倣岸な王妃の顔を仮借なく描いている。周りにいるのは皇子、皇女や王の兄弟たちである。左奥に薄黒く描かれているのはゴヤ本人である。1808年、ナポレオンの軍隊はスペインを占領して、ナポレオンの兄弟の一人がスペイン王となる。カルロス四世の一族は逮捕され、パリ郊外に軟禁される。この間の消息は堀田善衛著 『ゴヤ四部作』 (新潮社)に詳しい。井上靖 (故人) にも 『カルロス四世の家族』 と題する短編がある。
カルロス四世の家族   ゴヤ    プラド美術館蔵

モンマルトルの丘

 
モンマルトル風景

 「カルロス四世の家族」の脇のスペースには、フランスはパリのサクレクール寺院界隈の風景画を置いた。この絵を購入したのは、今から10数年前、ヨーロッパの主要首都めぐりのツアーに、夫婦で参加したときである。自由行動の1日、われわれはモンマルトルの丘にやってきた。この丘には1914年に建造されたサクレクール寺院がある。この寺院は高地にあるためパリ中の何処からでも見える。この寺院の近くに、「画家の広場」はある。広場には100人ぐらいの画家の卵たちが、あるものは観光客の似顔絵を書き、あるものはこの辺りの風景を描いている。画家の周りには、自分の作品が数枚立てかけてある。彼らはこれを観光客に売って、生計を立てているのである。ここに画架を立てて商売をするためには、フランス文部省の認可がいるという。文部省に作品と画歴を提出した上、口頭試問を経て認可されるという。狭き門なのである。

 われわれ夫婦は、この画家の卵たちの中に日本人はいないかと探した。いたいた。二人もいた。その中の一人からこの画を1万円で買った。大きさは3号ぐらいであろうか。日本では画家の描いた生の絵など買ったことはない。展覧会の売り場で複製の写真版を買うぐらいのものである。海外旅行ということで多少、財布の紐が緩んでいたか。まあ、海外で苦闘している、日本人の若者を応援するという気持ちが強かったな。

 日本に帰って早速、デパートに店を開いている画商の元を訪れた。この画にふさわしい額縁を買いたいといったところ、太って恰幅の良い50歳代と見えるこの画商は、画を何処で買ったか、作者の名前は、値段はと詮索するのである。すべてありのままを話した。その結果、画商が選んだのがこの写真の額縁である。値段は23,000円。画の値段の2倍以上である。いささか躊躇するところがあったが、選択を店主に任せた手前、高すぎるとも言えず、支払いを済ませた。店をでかかったときに店主は、この画に飽きたらいつでも持ってきなさい。ここにある画のうち好きなものと取り替えてあげるといったものだ。壁には30号ぐらいと思われる大型のものから、A4判ぐらいの小型まで、大小まちまちの画が10枚ほども、しかるべき額縁に入って飾ってある。店主は私の買った画を、ここにあるどの画よりも高く評価しているということだろう。額縁は高い買い物であったがまあいいかと、満足しながら帰途についたことを思い出す。

女性3態

 もう一方の壁には、今から20数年前、娘が世界一周旅行中、ケニヤの首府、ナイロビで買って送ってくれた絵を飾った。3人の現地人女性が腰を下ろして語り合っている絵である。布製のキャンバスに描かれている。左側の女性の膝にいるのは猿である。茶褐色の暗鬱な画面は、無機質の白壁の圧迫を中和するのに適当なものであった。

女性3態

カサカリ・マスク

カサカリ・マスク
 バルコニー側の壁には、掛時計とカサカリ・マスクを掛けた。カサカリ・マスクとはインド南部の民芸品である。40年前、マドラスに出張したときに、コモリン岬行きの沿道の店で買った。コモリン岬というのは印度半島最南端の岬のことで、ここの灯台の下に立てば、インド洋とアラビア海が一望できる。はるか沖合いを東航する大型タンカーが見える。視界をさえぎるもののない雄大な眺めである。私が行ったときには、静かに岩礁に打ち寄せる波に、足を浸している印度婦人が数組いた。ここは有名な観光地の一つなのだ。それはともかく、ここで買ったカサカリ・マスクは、私の今日までの公私の海外旅行で買い求めた土産品の中で、もっとも安価なものであった。店の主人に値段を聞いて、一桁違うのではないかと思ったものである。しかし、私はこのマスクが気に入って、日本に帰ってから30数年というもの、居間の壁に飾って親しんできた。 素材は石膏か発泡スチロールに似た、もろいもので、縦30センチ、横24センチの小さい面である。本来は子どもたちが顔にかぶるお面であるが、これは壁飾り用である。引越しの都度、壊れるのではないかとひやひやした。 今回この画をこの自分史で取り上げるについて、カサカリ・マスクのいわく因縁についてインターネットで調べたが全くわからない。いずれヒンズー教の土俗信仰であろう。




リビング・ダイニングルームの装飾

リビングルーム左壁

写真説明:

戸棚の上左 らくだの胃袋製電気スタンド(パキスタン)、
中央 象の木像を挟んだ2つの陶器 (インド)、
右 ミシシッピ川の水牛の角(ニュー・オーリーンズ、アメリカ)

リビングルーム右壁


写真説明:

左 モンマルトル風景
中 カルロス四世の家族
右 女性3態
リビングルームのバルコニー側壁


玄関を入るとリビングルームまでの直線の通路がある。その通路の延長線上のカサカリ・マスクは、玄関を開けるとすぐに目に入る。小なりといえども存在を主張している。

リビングルームを重点的に飾ったが、その他の部屋もなにがしかの装飾をした。私が日常的に使用するパソコンルーム (断面図の洋室3) にもいろいろなものを置いた。メキシコのソンブレラ・ハット、インドの水牛革製切り絵、エクアドルの少女木像、エジプトのパピルス画その他写真など。

 こうしてみると室内装飾品のほとんどは外国のものである。日本のものは絵にしろ彫刻にしろ高くて手が出ない。例外がひとつある。 私が昼寝用の部屋にしている洋室2に置いた奥瀬英三の絵である。 奥瀬英三は戦前、太平洋画会出身の気鋭の画家であった。私の中学時代の図画の教科書に、この先生の絵が手本として掲載されていた。私のもっている彼の絵は7号の水蜜桃の油絵である。 この絵はひょんなことから、ただで私の手に入った。もっとも後で、その修復に多額の費用が掛かったが。入手についていわく因縁があるのだが、いつまでも絵の話をしていてはきりがない。先へ進もう。


引越騒動の総括

 歳をとってからの新築はよくないといわれる。面倒な外部との交渉、万事不安の中で家長に要求される諸決断、資金手当て、複雑な官庁手続き、住所変更の手続きなどさまざまな事務が殺到してくる。悠々自適の生活だからそれぐらいのことには耐えられるだろうというわけにはいかない。悠々自適の生活に安住していただけに、一時に押し寄せるこれらの仕事は、人をして耐え難い思いに陥れるのである。それは、老化した、あるいは老化しつつある心身に多大なダメッジを与えるだろう。家族関係にもまた新たな緊張が生ずるはずである。さてこそ先人はこういう戒めを残したのであろう。

  引越しは新築よりは軽度の環境変化といわなければならない。誰でも、人生において数回は経験することである。経験によって学習していることも強みである。しかし、青年、壮年時代の引越しと較べて、老年のそれは当事者へのマイナス要因が大きい。残された時間が概ね決まりつつあるときに、数ヶ月にわたって安居楽住の機会を奪われるのである。上に述べた新築の場合と同じ苦労も出てくる。数年前、友人で引越し騒動の最中に脳梗塞を起したものもいる。

 引越しのマイナス面ばかり強調したが、プラス面がないわけではない。旧居のアパートに較べて、かなり広いバルコニーがある。ここに立って西南の方角を見た眺めはすでに書いた。開放通路からの景観も書いた。四周の関東平野と富士山はもとより、南西に連なる穏やかな山並みを一望できるのだ。日常坐臥の間、雄大な風景に接すると、心はおのづから寛闊になる。こせこせと些事に拘る悪い癖も、一掃されるだろう。
バルコニーから見える富士山 左は丹沢山

 現役時代は、富士山が見えようが、桜が咲こうが、風景に見とれる心の余裕はなかった。しかし、悠々自適の境遇になってみれば、家から眺められる景観の美は、金銭や不動産に換えがたい貴重な財産である。

 家財道具や本を捨てて来たため、身の回りにはずいぶん余裕が出てきた。時には捨てすぎたかと後悔することもないではない。家財道具の激減とともに、心に常にわだかまっていた重荷も軽くなった。これらは新しい生活に船出する上の助けになるだろう。いざ新生活の海に乗り出そうではないかと、みづからに言い聞かせる日々である。



わが日課

起床

 起床は7時半である。 トイレと洗顔の後は、体重計に乗る。身長165センチの私の標準体重は60キロである。標準体重は次の計算式で出す。
 1.65m×1.65m×22=59.895kg
 係数の22を増やせば標準体重はどんどん増えていく。しかし、この数字はボディ・マス・インデックスといって、勝手に変えてはならない。 最近は背骨が曲がり、椎間板が縮んで、身体検査などで油断していると163センチなどと書かれる。せいぜい背伸びをして測らねばならない。毎朝の体重計測で62キロになると警戒警報発令で、晩酌は禁止となる。63キロに近づくと空襲警報発令である。晩酌であろうが、外での宴会であろうが一切のアルコールは禁止である。アルコール断ちの効果は覿面で、体重は2、3ヶ月で標準体重に近くなる。

 朝食前、250グラムのヨーグルトを食べるのが数年来の習慣となった。これは、固疾の便秘対策である。今から40年前、印度のボンベイで生活していた時は、家族は朝はパン食であるが、私は便秘対策のオートミールである。日本に帰ってきてからは、オートミールの中に粉末にしたハト麦を入れて今日に至っている。昼食は麺類になることが多い。夕食は妻の手料理である。

 少年時代の私は大根と人参が嫌いであった。海軍に入ってからは何でも食べるようになった。食べ物の好き嫌いを言っていたら、激しい訓練にからだがついていかない。海軍はなくなってもこの習慣は今日まで維持されている。結婚当初は妻が買ってくる魚を腐っていると言って、しばしばいさかいになった。それも結婚後1、2年のことで、次第にお互いに妥協して、魚の腐敗論争は終止符を打った。子どもが小学校に行くようになると、教育上、食事に関する争いはできなくなる。子どもが成長して家を出て行き、夫婦二人きりになっても、この習慣は続く。こういう環境では妻の料理の腕前は上がらない。最近は 「私は食卓に出されるものは何でも食べる。しかし、うまいものとまずいものの区別はつくぞ」 と脅かしているがすでに手遅れである。

水泳

 新聞を読みながらの朝食には、小一時間はかかる。終わってパソコンのメールの来信をチェックする。終わって海軍体操7、8分。これからやる水泳の準備運動である。これはまたからだの異常をチェックする大切な機会でもある。上半身裸の短パン姿である。和室の和鏡に全身を写しながら、入念にやる。9時半に家を出てスポーツクラブへ。 このクラブは5月から新装開店したもので新居のすぐ近く、徒歩3分の距離にある。

 プールでは先ず25メートルのコースを数往復歩いて身体を水に慣らす。  泳ぐのは1日に1500メートルである。500メートルを1単位として、1時間に3単位をこなす。2年前までは1日のノルマは2000メートルであったので、加齢のためのからだの衰えは隠しようもない。泳距離の衰えはともかくとして、スピードの衰えはひどい。昔泳ぎを教えたおばさんにも抜かされる情けない有様だ。まあ、健康のためと割り切っている。ともかく毎日プールに通う常連の中では最高齢である。泳ぎ終わって風呂に入り、ひげを剃る。家に帰るともう11時過ぎである。昼食は12時半なので、それまで新聞の続きを読む。時にはパソコンをいじる。

 金曜日はスポーツクラブの休日である。午前10時からFM放送で音楽を聴きながら体操をやる。海軍体操、ストレッチ体操、腹筋運動、ダンベル体操。以上に30分かける。昼食まではパソコンの時間である。

昼寝

 昼食後は安楽椅子に横たわって、新聞、週刊誌、読みかけの本を読む。私はアンティ朝日であるが、最近の同紙の社説は面白い。子供のチャンバラを見ているような趣がある。週刊誌は週刊新潮と週刊文春の数十年来の読者である。現役時代は食事しながら表題だけを眺めるというような読み方であったが、引退後はかなり丁寧に読む。ただし、映画俳優やテレビタレントのゴシップには興味がない。書評の立花隆とか鹿島茂が好きである。書評に取り上げる本の選択に独特のものがある。彼らの博識にも敬服する。

 そのうちに眠くなるので、洋室2のソファーで45分間昼寝をする。これは友人に勧められて、この1年間位続けている。昼寝をするとなかなか体調がよろしい。目覚めるとコーヒーを一杯飲んで、4時頃から夕食の6時半までパソコンをやる。

夕食

 夕食には約1時間をかける。抗癌剤を飲みだしてからというもの食欲が落ちた。小さい飯茶碗に一膳のご飯がなかなか食べきれない。食べなければ体力を維持できないし、水泳も無理である。目の前に各種のおかずを並べて、テレビのニュースを見ながら、少しづつ、つつく。晩酌もやめて久しい。時々思い出してビールの小瓶などをあけるが、全部飲み干すのに四苦八苦する。薬の副作用で味覚が衰えているのである。昔は標準体重を超過するのを防ぐダイエットが必要であったが、今は標準体重に達するための努力が要る。

 夕食後は8時からパソコン、9時半中休み、間食としてアイスクリームなどあっさりして、しかもカロリーの高そうなものを食べる。10時から再びパソコンに向かう。11時が終了時間と定めてあるが、興が乗ればそこで打ち切るわけにいかない。昼寝のためか、あるいはパソコンで興奮しているためか寝つきはよくない。午前3時か4時頃まで、眠れないままに輾転反側することも稀ではない。有名な日野原医師は、75歳を過ぎた老人は1日に5時間寝れば十分という。彼の教えを信じているので、どんなに眠れなくても睡眠薬の世話にはならない。

パソコン生活

きっかけ

 70歳頃から新聞記事の中にパソコンや IT に関するものが次第に増えだした。私にはこれらの記事がさっぱり理解できない。私は新聞を精読するたちなので、その中に理解困難な記事があると落ち着かない。経済記事などでわからないものに出くわす。多くはそれを書く記者がわかっていないのだ。書く人がわかっていなければ読者にわかるはずはない。パソコンの記事では、これを書いた記者には、わかってるのかどうかも判定できない。しかもパソコンの記事はますます増えているではないか。 IT を知らなければ時代に遅れる。これは一丁、パソコンを勉強すべきである。こう思い決めてからも、その機会が見つからないまま、漫然と何年かの月日が過ぎた。

わくわくステーション

 正確には覚えていないが、今から6年位前、私が75歳位の時であったろうか、テレビにしばしば某社のパソコンの広告が出るようになった。このパソコンは普通とは違う。モニターにテレビを利用するのである。しかもワープロ機能がない。値段は7、8万円と格安である。当時わが家には2台のワープロがあった。パソコンにワープロ機能がなくても何等差し支えはない。そのために値段が安いというのは魅力である。、テレビがモニターの役をする。これもまた魅力的である。私はパンフレットなどを検討することもなく、すぐに購入した。アクセサリなどを入れると14万円ぐらいになっただろうか。

 これが無駄な買い物であったことはすぐにわかった。あるとき、有名な古本屋の蔵書リストを見るために、古本屋のホームページにアクセスした。 住所とか地図とかは出るのであるが、肝心の蔵書リストになると 「容量不足のため・・・・」 というメッセージが出るだけなのだ。当時はパソコンの容量などというものにはトント知識がなかった。パソコンと名がつけばどれでも同じだと思っていたのだ。明治時代以来の現代史資料の宝庫とされる 「アジア歴史資料センター」 なども、資料の内容などは見ることが出来ない。結局、このパソコンは、おじいさんが孫とメールをやり取りする程度の玩具であることがわかった。それならテレビ広告で玩具と表示すべきである。この機械の名前は 「わくわくステーション」 といった。この名前で玩具であることに気付けばよかったのだ。無知と早合点のために失敗した。この失敗を無駄にしてはならないというので、私のパソコン入門の決意は固まった。

IT講習会

 自民党の森さんが首相であった時代、政府は300億円の予算をつけて、全国の自治体にパソコンを配った。韓国などに較べて遅れている日本社会の IT 文化を、開発・促進しようとする政策の一つであった。当時、私が住んでいた市川市でも、これで数百台のノート型パソコンを買い、市内各公民館で市民にパソコンの初歩を教えた。教える先生は腕に覚えのパソコン名人たちである。先生を補佐するボランティア2、3名がつく。講習会開催の知らせは、市の広報紙で市民に周知される。私は最初の講習を受けた時に、デスクトップ型パソコンを買った。講習会で習っただけではすぐに忘れてしまう。家に帰って復習する必要があるのだ。しかし、75歳の耄碌した頭では、同じことを何度教えられても覚えられない。若い人についていけない。恥のかきどうしであった。まあしかし、そこは人生経験である。鉄面皮に 「パソコンの恥はかき捨て」 などと心の中で唱えつつ、熱心に通った。あるときなど講習会の開始時間に遅れそうになり、自転車で急いでいたときに、住宅団地の壁に衝突して、転倒、肋骨を2本も折る重傷を負ったりした。

市川ITサークル

 講習会の最後の日、講習も終わり、解散になったときに、一女性が、帰りかけた人々に呼びかけた。講習を受けても、これで何もしなければちゃんとパソコンを使えるようにはならない。今後、定期的に集まってパソコンを勉強する会を立ち上げようではないか、というのである。私は一も二もなく 賛成の手を上げた。賛成者は多く、たちまち10数名が集まった。市川 IT サークルの発足である。

 紆余曲折の後、サークルの今日の形が出来上がった。勉強の内容はサークルのホームページで誰でも見ることが出来る。

 各検索エンジンの検索窓にキーワードを 市川 IT サークル と入力してもアクセスすることができる。

   毎日曜日、午後1時から4時までが勉強の時間である。3人の個性的な先生の指導で、3時間の間、中休みもなくみっちり鍛えられる。サークルは今や5年目に入り、会員の技術水準も上がった。多くの会員が自分のホームページを持っている。これらのホームページは皆、HTMLタグを駆使して、文章と画像や音楽で組み立てたものである。会員には女性が多い。女性特有の繊細な表現と独特な構成が見ものである。サークルのホームページのリンク集でご覧ください。

パソコン生活の総括

 市川 IT サークルの会員の中で私は最年長者であった。当然というか、怠けたというか、成績優秀者ではない。私はそれでも私自身のホームページを持っている。そればかりではなく、クラス会のホームページ製作を引き受け、このほど完成させた。ことほどさように、このサークルの技術水準は高い。今やパソコンは私の生活にとって欠かせないものになっている。今使っている機械が壊れたら、すぐに新しく購入するだろう。パソコンのない生活など考えられなくなった。

 時々、同年輩の友人からパソコンをやるべきかどうかを聞かれる。私はいつも否定的な答えをしている。平均余命が後、4、5年しかないのに、パソコン学習という茨の道を辿ることはないと私は答える。相手は不満そうであるが多くはあきらめる。しかし、80歳を超えてもパソコンを勉強しようという人もあるのである。先日の新聞に、90歳で亡くなった有名な科学者が、88歳のときからパソコンをやり始めたと出ていた。人生において何ごとも、学び始めるのに遅すぎることはない。古人も 「あしたに道を聞けば、夕べに死すとも可なり」 と言った。要は本人の覚悟の問題である。

 つまらないお説教になってしまったが、人は人、我は我である。やりたいことをやり、やりたくないことをやらないで終焉を迎えるのが、80老翁の生き方でなくてはならない。時々私は思うのだ。もしパソコンをやらなかったら、75歳から今日まで何をやって、悠々自適の生活を送っただろうかと。多分、読書、テレビ、新聞、雑誌それに水泳などをやりながら、不満タラタラの日を送って現在にいたったであろう。不満というのはパソコンや IT がわからない不満である。

 しかし、そんな酔生夢死の生活に浸かりながら、果たして現在があったであろうか。無為の生活は人の活力を奪う。もっと早く、80歳にも達しないであの世に行ったかもしれない。立派な先生と熱心なパソコン仲間に囲まれて、刺激を受け続けたことが、現在まで辿り着いた要因であった可能性もある。

 ヨーロッパの諺に 「最期に笑うものは、もっともよく笑う」 というのがある。日本の諺に直せば、「終わり良ければすべて良し」、 あるいは、もっと卑俗に 「始めの勝ちはクソ勝ち」 という。私は、市川 IT サークルのおかげで、人生の最終局面で大いに笑わせていただいた。この一編によって、サークルの皆さんに、感謝の思いを伝えたい。


わが健康法

仕立屋との論争

 昭和45年(1970)4月、私は会社のボンベイ駐在員の任を解かれて帰国した。まだ定住の場所も決まらず、ホテル住まいであったときに、先ずやったことは背広の仕立てであった。一流デパートに職場を構えたその仕立屋は、丁寧に採寸した後、ズボンの両脇にひだを入れておきますという。中年になると腹が出て、胴回りがあわなくなるというのだ。私は当時45歳、体重62キロであった。中年になってもこの体重を維持するつもりであった。 仕立屋にこの旨を伝えて、ズボンのひだは必要ないと説明した。仕立屋はなおも 「皆さんそう仰いますが、中年になってから後悔されています。外から見たら全くわかりません。是非ひだを入れさせてください。」 と執拗である。何度かひだの必要不必要に関するやり取りの後、私はついに腹を立てて、客の言うことを聞けないなら、他の洋服屋に行くと宣言したところ、やっとひだを入れないことになった。当時から30数年の月日がたったが、この背広を今でも時々着ている。入れ物の寸法を固定して、身体をそれに合わせるという私の方針は成功したのであった。

消極的健康法

 標準体重をボディ・マス・インデックス(22という数値)で決めるというやり方は、今から20年ぐらい前から次第に世の中に広まったのではなかったか。少なくとも、私がボンベイから帰国した昭和45年にはなかった。 しかし私は、日常の経験から体重61キロぐらいのときに、身体のこなしがもっとも軽快であることを知っていた。泳いだり、階段を2段づつ駆け上がったときの息の上がり具合で、このことを体得した。後に市川市に住むようになると、毎朝の通勤で、西船橋駅までの途中に、京葉道路を超える陸橋を通らねばならない。この階段を2段づつ駆け上がったときの息の上がり具合で体重の超過を知るようになる。体重の超過を、摂取するアルコールの量で調節する方法もやがて体得した。

 ほとんど毎週のように行く接待ゴルフで、終わって風呂に入る。風呂から上がると皆さん、バスタオルを腰に巻いて、鏡の前で髭剃りや、整髪をやる。私はバスタオルの替わりに、備え付けの手拭を腰にまとい、風呂上りの始末をする。手拭の寸法は JIS 規格で決まっているので、何処のゴルフ場の手拭も同じ長さである。体重が62キロを超えると、手拭を腰に巻いて、ひと結びでとめるのがむづかしくなる。体重のチェックは毎日、起き抜けに、洗面所に常備した体重計で量るが、ゴルフ場の手拭でもやることにしていた。

積極的健康法

 終戦(1945)後数年間は、日本国家の将来に対する憂慮と、自分自身の未来に対する不安で、自暴自棄に陥り、自堕落な生活に日を送ることも稀ではなかった。とくに昭和23年(1948)、上京してからは、極端な食料不足と過労のため、さまざまな病気に悩まされた。痔、肺浸潤、下痢、便秘などなど。栄養知識もないままの自炊生活が数年間続いた。そのため、下痢と便秘を交互に繰り返す体質が定着した。昭和27年(1952)、就職してからは、規則的な生活と寮での食事で、次第に健康を回復した。昭和30年(1955)、結婚してからは、健康は完全に回復した。

 健康の回復とともに、積極的に運動して、体力を付けようという意欲がわいてきた。取り上げたのは海軍体操と腹筋運動であった。海軍体操は戦前の兵学校時代、一日も欠かさずやったものだ。起床から朝食までの15分間体操。午後の訓練開始前の準備運動5分間。訓練が終わってからの終末運動5分間。腹筋運動は兵学校ではバックと称して、折にふれて寝台の上でやった。短艇訓練で長時間、重い櫂を漕ぐためには、腹筋の強さは不可欠のものであった。サラリーマン生活では、これらの運動を毎日やっているわけにいかない。土曜、日曜がこれに当てられる。

国立競技場

 子供たちが小学校に上がると、先ず何はさておき水泳を教えることにした。というのは昭和30年5月の早朝、瀬戸内海の宇野と高松の間を結ぶ、国鉄の宇高連絡船 「紫雲丸」 が、濃霧の中、僚船の 「第三宇高丸」 と衝突して沈没した。当時の海上は風もなく、波も静かであったが、乗組の781人のうち168人が死亡するという大惨事になった。死亡者のうち108人は修学旅行中の小中学生であった。乗客の誰かが、沈没して流木やゴミの漂う海中を、必死に泳ぐ子どもたちの姿を写真に撮った。それが新聞に大きく報道されて社会問題になったりした。このニュースを見て、子どもができたら、ともかく幼児のうちに泳ぎを教えておくのは、親の務めだと心に決めた。

沈没する紫雲丸 


転覆して沈没中の紫雲丸 
写真説明;
 上の写真は昭和30年5月11日、午前7時ごろ、紫雲丸の乗客のアマチュア・カメラマンの撮ったものである。当日の読売新聞夕刊の一面に大きく掲載されて、社会に衝撃を与えた。画面左上には、救助の船の舷側によじ登った大人3人の姿が写っている。その下には舷側に手を伸ばそうとしている、数名の大人の姿が見える。その下の一群は、舷側にも近寄れないで、海中をもがく子どもたちである。画面中央右寄りには、制服の後姿の女子学生が、波の洗う紫雲丸の舷側を、為すすべもなく右往左往している。彼ら、彼女らの多くは、紫雲丸の水没とともに溺死したのである。

 右の写真は、事故の翌日の朝日新聞夕刊に出たものである。左舷80度に傾いて、水没中の紫雲丸。この写真は、衝突した僚船、第三宇高丸 (手前) から撮ったものである。右側が船首、遊歩デッキの手すりを越えて脱出しようとしている、多数の船客の姿を写している。

 昭和40年代の初め、私たち家族は、会社の代官山社宅にいた。そこから代々木の国立競技場まではバスで15分の近距離である。国立競技場はその数年前、東京オリンピックの水泳の会場になったところである。競技場は、とくにイベントのない限り、一般に開放されていた。私は週末、子どもたちをここに連れて行って泳ぎを教えた。嫌がる子どもを、帰りにおでんを食べさせてやると言って連れ出した。競技場の入口には何軒ものおでん屋が、屋台を出していたのである。子どもはすぐに泳げるようになる。子供用のプールでは物足りないと言うので、オリンピック競技の行われた50メートルプールにも行った。娘のひろ子は、プールの真ん中で溺れかけて、何度か見張りの若者に助けてもらった。広いプールに、泳いでいるのはわれわれ親子3人だけということも何度かあった。当時はスポーツクラブやプールが今ほど発達していなかった。東京の子どもが水泳を習うのは、小学校のプールか、区立のプール、それも夏の間だけのことであった。私は冬でも国立競技場に行ったので、子どもは2人とも学校では水泳の選手になった。子どもが小学校高学年になると、おでん程度の餌ではなかなか親についてこない。いつの間にか国立競技場通いは止めになった。

隠退後

 平成元年(1989)、会社を隠退して悠々自適の身になった。先ず行ったのは、葛飾区立のプールであった。驚いたことに、25メートルのコースを泳ぐと、心臓は早鐘を打つように動悸がする。心臓が口から飛び出すのではないかと思うほどだった。クロール、平泳ぎ、背泳、どんな泳ぎでもこの心臓の動悸は変わらない。これは時間をかけて身体を慣らさないといけないと、一日おきにこのプールに通った。泳がない日は、自転車で江戸川に出て、土手の芝生の上で海軍体操を10分ぐらいやった。終わって土手の上を、流れに沿って歩くのだ。この川は一級河川ということで、河口から上流に向かって、500メートルおきに国土庁の真鍮の標識が埋め込んである。歩くスピードを測るには絶好の場所であった。

 家から自転車で10分で行ける江戸川土手は、私自身の健康維持の場所として、また家族の散策の場所として重要なスポットであった。娘は世界一周の最終コース、オーストラリアで知り合った英国人と、昭和63年(1988)結婚し、オーストラリアに定住した。翌年には孫娘、めぐみが生まれた。その後1年おきに、長男、次男が生まれた。長女が3歳になると、娘は孫達を引き連れて、時々帰国するようになった。帰国した娘は友達に会ったり、買い物をしたりで、昼間、家にいることはめったにない。孫の世話は爺さん、ばあさんの仕事になる。私は孫娘を自転車の荷台に乗せて、よく江戸川土手に行った。川でザリガニを捕ったり、芝生の土手の上で鬼ごっこをしたりと、ここは子どもを遊ばせるに最適の場所であった。ある時こんなことがあった。二人でおっかけっこをしていて、私はコンクリートの部分に躓いて倒れ、ひざを強打した 。「痛い!」 と叫んで、倒れたままひざを抱えて、しかめ面をした。孫娘は私の頭のそばに立って、私を見下ろしながら、 「おじいちゃん! 大丈夫!」 と叫ぶのだ。普段孫娘が転んで泣き出しても、私は決して助け起したりはしない。「大丈夫! ひとりで起きなさい!」 と叫ぶのを常とした。孫娘は、自分に繰り返し言われたことを、 お爺ちゃんに言い返したのだ。私は、苦笑しながら起き上がったものだ。この孫娘も今や18歳になり、ハイスクールを卒業して、美容師見習いに精出している。

めぐみ3歳 江戸川土手にて 後ろは地下鉄東西線

めぐみ14歳 新浦安オリエンタルホテルにて



 いささか脱線したが水泳である。25メートルプールで25メートルを泳ぐのがやっとであったが、1年たち2年が過ぎると、次第に泳ぎにも慣れてきた。しかし,公立のプールでは、混雑して、ゆっくり泳ぐことができない。船橋にできた新しいスポーツクラブに通うようになり、私の運動は水泳に特化するようになった。私の水泳はクロールが主体である。クロールは腕力で泳ぐものだ。上腕の筋力を鍛えるためにダンベル体操を始めた。ダンベル体操をはじめてもう10年にもなる。 おかげで、500メートル泳いでも、1000m泳いでも、腕がだるくなることはなくなった。

 海軍体操・腹筋運動が50年、水泳、18年、ストレッチ体操・ダンベル体操、10年、いずれも継続中である。



わが病歴

右肺気胸・右肩腱板断裂

 平成12年(2000)7月4日、正午過ぎ、私は自転車で船橋の証券会社に向かっていた。午後1時からオーストラリア経済に関する講演会に出席するためである。私の住んでいる団地の入口から50メートルほど行ったところにガソリンスタンドがある。歩道を船橋に向かって走っていた私は、そのガソリンスタンドから大通りに出る車に、自転車ごと跳ね飛ばされた。車の運転者は、車道を右方向から走ってくる車の列に気をとられて、車列の途切れた瞬間、左側を警戒しないまま、車を発進させたのだ。私といえば、車はまだガソリンスタンドの構内におり、歩道は全く空いているので、安全だろうと判断して、それでも急いで、車の前を横切ろうとしたのだ。

 車の前部が、自転車の後輪にぶつかって、私は自転車ごと歩道に倒れた。右胸を強打したらしく、息が詰まるほど痛い。通行中の婦人や、ガソリンスタンドの人が救急車の手配をしてくれて、私は船橋中央病院に運ばれた。救急車の到着する間、胸の痛さもさることながら、横たわっている歩道の熱さには閉口した。

 病院では整形外科に運ばれ、右肋骨2本骨折、右肺気胸の診断で、すぐに入院である。気胸とは、何らかの原因で肺に穴が開き、呼気が胸腔内に漏れる病気をいう。治療法は、胸部に穴をあけて、パイプを差し込み、胸腔内に漏れた空気を体外に排出するのである。胸腔ドレインといって、呼気が胸腔内に漏れ出なくなるまで続けるという、辛抱のいる治療である。肋骨骨折のほうは簡易ギブスを胸に当てて、安静にしていれば自然に回復する。 結局、退院したのは1ヶ月後であった。

 入院中、市川警察署から知らせがあった。今回の事故の責任は100%車側にあるというのだ。運転者は免停3ヶ月のほか40万円の過料になったという。その後今日まで、私は2回の車接触事故に遭遇した。いずれも小さい事故で、入院はしなかった。この2回も、事故の責任は100%車側にあった。

 内臓の障害は1ヶ月の入院で全治したが、右肩の不自由は直らない。右腕が水平以上に上に上がらないのだ。同年9月27日、当時、肩の故障の専門医がいる松戸整形外科病院に入院した。MRI 写真の結果、右肩の腱板が切れていることがわかった。全身麻酔のもとの手術である。切れた腱板の切れ端を、機械で引っ張って、元の場所に強力接着剤で貼り付けるという。麻酔の切れた後も鈍痛が残って、子どものように泣き叫んだと妻は言うのであるが、私は覚えていない。

 結局、この病院にはその年の年末、12月28日までいた。3ヶ月の入院であった。入院生活の後半2ヶ月は、リハビリである。リハビリ中は朝夕2回、病院から歩いて5分の距離の江戸川に行き、約1時間、土手を散歩した。広々としてさえぎるもののないこのあたりの江戸川は、下流の市川市の江戸川とはまた違った風景であった。夕日が落ちて赤く染まった西の空を背景に、土手の上を10数台の自転車が行く。逆光の中、黒い自転車のシルーエットが次第に遠ざかるのを、はるか離れた田んぼ道から眺めると、まるで映画の一場面を見ているようであった。退屈な入院生活のなかの、心休まるひと時であった。

大腸癌

大腸図
茶褐色がS字結腸
 私は毎年、市川市が主催する成人病検査を受けていた。平成14年3月の検査の、検便で、潜血反応が見つかった。続いて受けた大腸の内視鏡検査でS字結腸に癌が見つかった。S字結腸というのは大腸の末端で、直腸に繋がる部分である。大腸の末端は、アルファベットのSの形に湾曲しているためこの称がある。成人病検査をした病院には大規模な手術をする設備がないので、船橋中央病院で再検査を受け、同年5月23日、この病院で摘出手術を受けた。

 手術は病巣を中心として、前後10センチ、合計20センチを摘出するというものであった。大腸は長さ2メートルもあり、この程度の切除は大腸の機能に何の影響もないという。手術の結果、大腸癌の3期であることがわかった。大腸癌の3期とは、腫瘍が粘膜層を突き破って、筋層に達している進行癌の状態をいう。(右の図は高野病院のホームページから拝借した)

 手術を担当する先生から、手術の説明を受けたときに、どんな結果が出ても驚かないので、腫瘍の現状と今後の見通しを、かくすことなく、また表現を和らげることもなく、私自身に告知してくれるよう頼んだ。その先生は、そのほうが医者としてもやりやすいので、そうしますと答えた。私はそれまでに、インターネットで大腸癌について詳しく調べていた。初診時からそのときまでに、先生とは何度も話していたので、私が大腸癌について、素人としてはかなりの知識をもっていることを、先生は知っていた。

 私の父は、胃癌で62歳で亡くなっている。姉は3児の母親であったが、54歳で、急性骨髄性白血病で亡くなった。癌家系なのである。いずれ私も癌で死ぬことになるだろうと覚悟はしていたが、実際に癌になってみると、そのショックはかなりのものであった。私が今すぐ死んでも、二人の子どもはすでに独立しており、まあ心配はないだろう。しかし妻はどうするか。私の故郷の広島県の片田舎にある家と土地をどうするか。わずかばかりの金融資産も、いろいろな形で分散している。これらをそのままにして死んだら、残された家族はどうするだろうか。あれを思いこれを考えると、眠れない夜もあるのであった。

 普通、大腸癌の手術後の入院期間は2、3週間である。体力に自信のある私は、2週間で退院してみせると、気張っていた。ところが手術後1週間ぐらいたったある晩、激しい嘔吐で、手術後食べたすべての食べ物を吐き出してしまった。後の検査で、小腸の一部の癒着による腸閉塞であることが判明した。腸閉塞の治療は、鼻から、小腸の閉塞部分までイレウス管という中空の管を挿入して、閉塞部分に溜まる食事のかすを吸い出すのである。もちろん,経口の食事は禁止で、代わりに、胸部の静脈に栄養剤を注入する、中心静脈高栄養点滴が行われる。手首の静脈にやる普通の点滴では間に合わないのである。私は一日中吐き気があり、嘔吐を繰り返し、ベッドの上を這いずり回った。病室も、面会禁止の重患室に移された。

胆のう癌

 最初の大腸癌手術から丁度1ヶ月目の6月24日、私は胆のう癌の手術をした。というのは大腸癌手術の際、ついでに摘出した胆のうに、細胞診の結果、癌細胞が発見されたのである。胆のうが肝臓に付着している付着部分にも癌細胞が拡がっている恐れがある。第1回大腸癌手術の後の手術瘡を再び切り開いて、肝臓の胆のう付着跡を厚さ1センチの深さで、広く削り取る作業が必要であった。

 手術の結果、肝臓切片にも、肝臓断端にも、近くのリンパ節にも癌細胞はなかったことが判明した。癌細胞が胆のうにとどまったのは先ずは朗報であった。手術前に、イレウス管は抜かれた。開腹して、肝臓手術の後、主治医は小腸の癒着部分を手で剥離した。これで腸閉塞は治ったのである。

腸閉塞

 胆のう癌手術の数日後、再び腸閉塞が始まった。浣腸を繰り返しても、糞片混じりの灰色の溶液が出るだけで、吐き気がつのり、嘔吐が始まった。小腸の造影検査の結果、主治医が手で剥離した部分がまた癒着しているのがわかった。再びイレウス管が鼻から小腸まで挿入され、再び中心静脈高栄養点滴が始まった。

 こんな時に、オーストラリアから娘のひろ子が見舞いに帰って来た。娘は、日頃元気であった父親が、蒼白な顔でベッドの上を這いまわっている姿を見て仰天した。主治医に、父がこのまま死ぬのではないかと尋ねた。主治医は 「お父さんは基礎体力があるから、腸閉塞さえ治れば、問題なく元気になる」 と娘を慰めたという。

 主治医はこれまで、自分の手で小腸の閉塞部の上を、マッサージすることを勧めていた。私は自分では、兵学校時代やった腹筋運動のバックをやった。一方、毎日通ってくる妻に、1日2回、腹部のマッサージをやってもらっていた。

 いつまでたっても開通しない小腸に、業を煮やした主治医は、みたび開腹手術をして、小腸閉塞部を摘出しようと言い出した。私は、いくら基礎体力があるからといって、部屋の扉を開けるように、気軽に開腹手術をしていたら、身体の衰弱はとめられない。また、たとえ小腸の閉塞部分を摘出しても、別の部分に閉塞が起こることを否定できない。この際は、マッサージを継続すると宣言して手術を断った。私の友人の医者は皆、主治医の言うとおり手術をすることを勧めたが、私はあくまで妻のマッサージに固執した。

 さしも頑固な腸閉塞も、8月に入って次第に開通の兆しを見せ始めた。8月18日には、鼻からのイレウス管を抜去した。まだ便通がスムースになったとはいいがたいが、浣腸を併用したりして経口の食事を増やしていった。8月19日には点滴をやめた。私はそれまで、暇さえあれば点滴棒を引きずりながら4階の病室の廊下を、歩き回っていた。退院後、通常の状態に早く復帰するための足慣らしであった。イレウス管を抜き、点滴をやめてからは、病室のある4階から、地下1階迄、午前、午後と昇降を繰り返し脚力の回復に努めた。あまりやりすぎたため、退院後、膝痛でしばらく歩行に困難をきたした。結局、9月13日に退院した。4ヶ月弱の入院であった。

 水泳には10月1日から復帰したが、復帰に当たっては、如何なる水泳パンツで手術瘡を隠すかに腐心した。手術の傷跡は、みぞおちからへそ下10センチまで、深くて生々しい。一時は、オーストラリアの水泳選手、イアン・ソープの常用するような、フルサイズの水着にすることを考えた。しかし、そんな水着を着た男性スイマーはこのプールには一人もいない。、プール全体でただひとりになり、かえって目立つ。いくら考えても名案は浮かばない。結局、今までのような三角巾型のパンツを止め、また上が長く、両太ももに伸びたおとなしい型のものを選んだ。これでは傷跡の半分ぐらいが露出するがやむをえない。

第二次大腸癌

大腸図
茶褐色が横行結腸
 退院後も、爾後のケアーで毎月、外来で主治医の診察を受けた。半年ごとにCT検査があり、1年ごとに大腸内視鏡検査があった。平成16年6月の内視鏡検査で、今度は横行結腸に癌が見つかった。私は、今回は開腹手術によらず、内視鏡手術にするよう頼んだ。というのは前回の手術で、開腹手術をやると腸閉塞になる体質であることがわかった。腸閉塞の苦しさはまだ記憶に生々しいので、できるだけこれを避けたかった。しかし主治医や検査医は、今回の癌は周囲に瘢痕があり、形が悪いので内視鏡手術に適さないと言う。私はなおも、生理食塩水を腫瘍部分に注入して、盛り上がらせた上やれば、手術ができるのではないかと、生齧りの医学知識で内視鏡手術を主張する。結局は、主治医ばかりでなく、外科や内科の医者の熱心な説得で、再び開腹手術をやることになった。(右の図は高野病院のホームページから拝借した)

 平成16年7月26日、最初の手術をやった主治医が執刀して、第2回の大腸癌手術が行われた。手術の方式は前回と全く同じである。腫瘍の前後10センチを切除する。手術前の説明で主治医は、横行結腸の腫瘍を取り除くほかに、小腸の癒着しやすい部分を丁寧に剥離しておくといった。付き添った妻の話では、私が手術室に入ったのは11:30、手術室を出たのが16 : 45であった。手術後の主治医の説明である。腫瘍は予想外に深く、筋層に達していた。開腹手術をしてよかった。もし内視鏡手術であれば、途中で開腹に切り替えただろう。

 小腸癒着部分の丁寧な剥離も空しく、手術後また、危惧した腸閉塞が起こった。数週間にわたる吐き気と嘔吐との闘いがはじまった。身体がイレウス管に馴染んで、小腸閉塞部分に溜まるドレインの排出が軌道に乗るようになると、吐き気と嘔吐がおさまって楽になる。楽になると口腹の欲が猛然と出てくる。ほとんど入院の全期間を通じて、口からの飲食はないのであった。妻が毎日運んでくる新聞の料理欄を切り抜いて、退院したら片っ端から食べてやろうと心に誓ったものだ。

 中心静脈高栄養点滴をやめたのは9月9日、イレウス管を鼻から抜いたのは翌9月10日であった。流動食から次第にお粥になりつつあるときである。この頃の日記には病院食の内容が細かく書かれている。漸く食欲が出てきて、いつもひもじい思いをしていたらしい。

 9月15日の日記抜粋:

  0800 朝食:三分粥、麩入り味噌汁、スクランブル・エッグ、小魚 佃煮、牛乳、お茶

  1200 昼食:蕎麦、茄子煮物、卵豆腐、ボーロ、お茶

  1750 夕食:三分粥、つみれ汁、青菜白味噌和え、マスカット・ゼリー、お茶

 イレウス管と点滴が取り去られると、病院の周りの散歩が許される。毎日来る妻と、1時間ぐらい散歩する。途中のファミリー・レストランでアイスクリームを食べるのが楽しみであった。前回は病院内で階段の昇降練習をやりすぎて、膝を痛め、失敗したので、今回は平地を歩いて脚力を鍛えることにした。毎日2回の妻のマッサージは前回同様であった。マッサージというよりも指圧、指圧というよりも手圧であった。この手圧は愛妻マッサージとして外科病棟で有名であった。

 平成16年9月24日私は退院した。入院したのが7月22日だから、入院日数は65日に及んだ。大腸癌手術の標準的な入院日数は10日ないし2週間である。私の入院は大腸癌手術というよりもむしろ、腸閉塞治療のためといったほうが適当であろう。水泳を開始したのは10月1日からであった。

肝臓癌

 平成17年は何ごともなく過ぎ、18年もまた平静に過ぎようとしていた。どんな会合に出席しても、顔色がよくて、元気そうだとお世辞を言われる。海軍体操も水泳も快調で、私自身も、癌の魔手がついにわが体内から撤退したかと思うほどであった。ところが平成18年11月の定期診察で、主治医のいわく、「腫瘍マーカーが上昇しているので一度、CT検査をしたい」。腫瘍マーカーというのは、体内の癌細胞から血液中に出る特殊の酵素の量を、血液検査で測って、癌の存在とその大きさを知る指標である。

   11月24日、腹部CT検査、引き続き11月27日、胸部CT検査の結果、肝臓に直径4センチの腫瘍が発見された。肺には異常はなかった。大腸癌は肝臓と肺に転移しやすいといわれているのである。

 12月1日、主治医との会話:

 医 「肝臓癌は手術しやすい部位にあるが、手術は勧められない。あなたは開腹手術による腸閉塞の体質がある。それに、この癌を摘出しても、他の内臓に転移癌が発生する恐れを否定できない。81歳という年齢を考えれば、QOL (Quality Of Life 、生活の質) を重視する治療がよいと思う。何か希望や意見があるか」。

 私 「去る7月から、クラス会のホームページを制作している。来年 (平成19年) 3月末完成を予定している。それまでは、入院や深刻な副作用を伴う治療はお断りしたい。軽微な副作用で済む抗癌剤の治療をお願いしたい。来年3月末に精密検査をして、爾後の治療方針を決めたい」。

 医 「承知した」。

 翌12月2日から抗癌剤、TSワン25㎎錠による在宅治療が始まった。 1回につきTSワン2錠を、毎日朝食、夕食後の2回、4週間にわたって服用する。そのあと2週間、休薬期間を置いて、この服薬 ー 休薬を繰り返す。休薬期間を置くのは副作用対策である。最も深刻なのは免疫力の低下である。薬の説明に列挙してある副作用の数は多いが、私に現れた副作用は、食欲の低下、口内炎、色素の沈着であった。食欲の低下のため、62キロの体重が年末には59キロに落ちた。色素の沈着とは薄黒い色素が顔面や爪に現れるのである。とくに鼻や口の周りに顕著で、髭剃りのたびに気になった。1年ぶりに会った親友に、「お前、顔が汚れているがどうかしたのか」 などと不審がられたものだ。

妻の入院

 家内は安サラリーマンの妻にふさわしく頑健な体質で、これまでの結婚生活で、30代にアキレス腱を切って3週間入院したのがただ一回の入院経験であった。入院が少ないばかりでなく、その後、医者のご厄介になったのは、数年前、インフルエンザで1週間ぐらいのものであった。そうそう、この2年ぐらいは降圧剤を服用している。そんな妻の様子が12月22日頃からおかしくなった。微熱があるといって、昼間から横になるのだ。24日には朝から具合が悪く、夜になってついに熱は39度を突破してうわごとを言うようになった。救急車で市川東病院に連れていった。ラクテック500mlの点滴で熱が下がったのでタクシーで帰宅。翌25日11時ごろに再び高熱で39度を越えるようになった。救急車で入院、今度は帰ることができない。そのまま入院である。頭部の MRI 検査などやったが高熱の原因は不明。結局、翌平成19年1月6日まで病院暮らしであった。私は物心ついてからはじめて、雑煮を食べない正月を過ごした。

 退院した妻は一回りからだが小さくなった。住み慣れた家に帰ったのに、何となく自信のなさそうな風情だ。その夜は、何の断りもなく、自室から私の寝室に布団を運んできて、私の布団の隣に布いた。もう何十年も私たち夫婦は寝室を別にしていたのにだ。強力な保護者の傘の下にいなければ不安な様子であった。

 私は市川原木のこのアパートが気に入って、終焉の地と決めていた。 数年前、墓も故郷の墓地から、市川市の郊外の墓地に移した。しかし、状況は一変した。私自身、後、僅かの寿命である。妻はこんなに弱っている。私の亡き後、ここに妻をひとりで置くことはできない。かねて倅夫婦が勧めているように、彼らの近くに居を移すべきだ。たとえ一緒に住まなくても、いざというときにすぐに駆けつけられる。時々は見に来ることも簡単にできる。この市川では、倅夫婦の住まいから2時間半はかかる。それに私の健康である。私が中心になって引越し作業ができるのも後、しばらくの間だろう。入院するようになると万事休すだ。その夜、私は転居を決意した。

 倅の嫁の奔走により、1月末には新居の売買契約を結び、手付金を払い、3月23日、引渡し、4月14日、引っ越した。その前後の状況は上の 「引越騒動記」 に詳述した。

今後の治療方針

 引越騒動のため、クラス会のホームページの完成は大幅に遅れた。3月末完成予定のところ、ブログ、「江鷹会の談話室」 に完成宣言を出したのは6月23日であった。6月29日のCT検査で、肝臓癌は、昨年治療開始当時の半分の大きさに縮小していることがわかった。主治医は 「著効があった」 と大喜びであった。患者本人の私も勿論、喜びをともにした。しかし抗癌剤で癌細胞が消滅することはない。幾らかの延命効果があるかどうかというだけのことである。

 今後の治療方針としては、QOLの維持が最大の目標である。この点で主治医と私の意見は完全に一致した。とりあえずは、食欲不振を改善するため、抗癌剤の服用期間4週間を3週間に短縮することにした。服薬3週間 ー 休薬2週間を1コースとして、年末まで続けることになった。

一年後・二年後

歩こう会

 平成20年3月のある日曜日、私の住む東大和市体育協会の主催する歩こう会に参加した。参加者は、多摩湖を一周する17キロメートル・コースと、半周する10キロ・コースのいずれかを選択する。私は一周コースを選ぶ。妻はこの日、姉妹揃っての墓参のため不参加。市民の参加者は400人弱であった。一周コースと半周コースで夫々半々というところか。09:30市役所広場から一斉にスタートする。

 多摩湖というのは、東京都民に飲料水を供給する人造湖である。私たち夫婦が子供を連れて遠足にきた40年前は村山貯水池といっていた。満々と青い水をたたえた貯水池を東西に二分する中堤防を行ったり来たりして、静かな自然の環境を満喫したものだ。今は違う。中堤防のすぐ北に西武ドームができた。ドームで催し物があるときには、車が殺到して、静寂な環境は一転して、騒然となる。私が歩こう会で西武ドームの近くの見晴台まで来たのは丁度11時半ぐらいであった。見晴台から見下ろした中堤防には、南岸から北岸までびっしり車が詰まり、身動きもできない状態であった。拡声器が、右折禁止ですからご注意くださいと、絶え間なくがなりたてている。自然のたたずまいを堪能するどころか、市内でもめったに見かけない喧騒の中に放り出されたという有様だ。



 見晴台で一休みした後、ふたたびコースにしたがって歩き出した。この頃になると、一周コース参加者から脱落者が多数出てくる。疲れ果て、中堤防をわたって帰途につく半周コースに切り替えるのだ。中堤防からくぬぎ橋にいたるコースには、数キロにわたる直線コースがところどころにあるが、前後に人影を見ないということもあった。ひょっとしてコースを間違えたかと、持参の地図を何度も眺めたりした。一周コースの帰路の始点にあたるかぶと橋あたりでは、私の疲労も極限に達した。ギブアップしたくても車もいない。歩いて帰る以外には方法がない。とぼとぼと歩く。便所を探しても何処にもない。山中を彷徨して疲れを増す。やっとゴールの市役所広場に達したのは13:04であった。係りのおばさんから完歩証をもらって、自転車で帰る。17キロを3時間半かかったことになる。上の図は完歩証の実物大コピー。額に入れて居間の棚に飾ってある。

 帰宅して風呂に浸かりながら今日の歩こう会を反省する。途中でバテてしまったのは結局、大腿筋の疲労と股関節の不調だ。私は毎朝、プールで1500メートル泳ぐのを日課にしている。クロールが主な泳法である。クロールは身体を水平にして、バタ足をしながら両腕の掻きで泳ぐ。大腿筋に負荷はかからない。いくら泳いでも大腿筋は発達しないのだ。平泳ぎならいいのだが、私は平泳ぎをやると股関節が痛くなるのでやらない。事前に準備しなければ周りの人についていけないことは、今日の歩こう会でわかった。歩こう会を兵学校時代の彌山(みせん)登山競技に見立てて、その準備が必要だ。来年は1ヶ月前から平地の歩行を続けて、大腿筋を鍛えよう。二度と今回のような失敗を繰り返してはならない。そのほか、毎日の水泳の後10分間、プールの中を歩いて、股関節、膝関節、足首の関接の強化を図ろう。せめて17キロ、3時間を切って、先頭集団の仲間入りを果たしたい。


わが病歴・CT検査

 平成20年5月16日(金)10:00、社会保険船橋中央病院で、肝臓癌の推移を診るCT検査を行った。昨年6月29日のCT検査では、腫瘍は径2センチに縮小しており、主治医の大塚先生とともに抗癌剤、TSワン25mm錠の効果に満足した。今回はどうか、腫瘍は径6センチに増大している。腫瘍が肉眼では見えないほどに縮小していることを期待していた私は、ショックを受けた。私見では、抗癌剤の効果によって、がん細胞は一時縮小したが、薬剤に対する耐性ができて再び勢いを盛り返したのであろう。

 そもそも、大腸癌からの転移肝臓癌が見つかったのは平成18年11月24日のCT検査であった。このときには腹部のエコー検査もやった。5ヶ月前のCT検査では、肝臓に何の異常も見つかっていない。腫瘍マーカーの数値が次第に高くなってきたのが、11月に検査を行った理由であった。

 さらにさかのぼれば、平成14年3月の成人病検査の便潜血反応で、S字結腸癌が見つかった。開腹手術の結果、癌細胞の進達度は3期であった。大腸癌の3期というのは、癌細胞が筋層に達して、転移の疑われる進行癌の状況をいう。私は毎年3月、市の主催する成人病検査を行ってきた。平成13年3月の検査で異常がなかったのに、翌平成14年3月には、大腸癌は3期まで成長していた。普通、老人の大腸癌の成長は遅々としているという。若い人に比べて、がん細胞も成長が遅いのが老人の癌の特徴である。しかし私の場合はその原則に当てはまらない。原発の大腸癌にしろ、転移の肝臓癌にしろ成長が著しく早いのである。一般には、癌は成長の早いほど悪質であるといわれている。私のがんは悪質なのだ(このパラグラフは、主治医が説明してくれたものではない。通俗医学書やインターネットから学んだ私の素人判断である)。

 以上の症状から判断して、抗癌剤、TSワン服用は中止する。代わりの治療として、フォルフォックス・フォー(FOLFOX-4)という、抗癌剤の点滴治療を繰り返すことになった。このために3泊4日の入院が必要である。この点滴を2~3週間おきに4~5回繰り返した後、効果を見ることになる。主治医の説明では、この治療法は転移性大腸癌に対する標準の治療法であるという。


フォルフォックス・フォ-

 フォルフォックス・フォ-とは、次のような複数の薬剤の点滴による抗癌剤治療をいう。

 カイトリル(制吐剤)・デカドロン(アレルギー予防)   30分
 アイソボリン(5FUの効果を強める)・エルプラット(オキサリプラチン)2時間
 5FU(フルオロウラシル)の急速静注          10分
 5FU(フルオロウラシル)の持続点滴          22時間
 カイトリル(制吐剤)・デカドロン(アレルギー予防)   30分
 アイソボリン(5FUの効果を強める)           2時間
 5FU(フルオロウラシル)の急速静注          10分
 5FU(フルオロウラシル)の持続点滴          22時間

 最初の制吐剤の投与から最後の5FU持続点滴の終了まで48時間かかる。3泊4日の入院が必要になる所以である。この治療法を2週間おきに4、5回繰り返して後に効果を確かめることになる。第1回の入院は5月28日から5月31日であった。この多剤併用の治療法は、結局、新薬エルプラット(オキサリプラチン)と 従来からの抗癌剤、5FU(フルオロウラシル)を主剤として、これを大量に投与する治療法である。

 エルプラットは、手術だけでは直らない結腸癌および直腸癌にたいして用いられる。新聞記事で、大腸癌の特効薬として紹介されることもある。私のケースのような転移大腸癌に対しても有効性が確認されている。フルオロウラシルは過去の癌治療の臨床経験から、有効な制がん効果が確かめられている。しかし、これらの抗癌剤には免疫力の低下とか食欲不振とかの重大な副作用が伴なう。フォルフォックス・フォ-は、副作用を軽減しつつ、主剤の大量投与を可能にする治療法のようである。

 48時間の点滴中は、体温が0.2~0.3℃上昇して36.6℃となる。そのほか顔面が紅潮する。危惧された吐き気も食欲不振もない。入院中は、給食を全部平らげるという状態であった。しかし退院した今では、かなり重い食欲不振に悩まされている。(H20.6.1記)

投与スケジュール

 2週間おきに繰り返される短期入院のスケジュ-ルを、わかりやすく図示すると次の図表のようになる。この図は、フォルフォックス・フォーという標準治療法を開発して、その普及を図っている国立がんセンターのパンフレットによった。

 この図の日程でいけば、5月下旬にこの療法を開始した私は、7月下旬に第5回のコースを終える。インターネットのホームページへのお医者さんの書き込みによると、このコースを10回やった患者は未だいないとのことである。結局、副作用が強くて、患者は10コースの繰り返しに堪えられないのであろう。化学療法では、癌細胞を絶滅させることはできない。癌細胞の増殖を抑圧しつつ、いつまで寿命を延ばせるかというところに、化学療法の目的がある。薬効と副作用のバランスが崩れるところで、患者は死に到るのである。

CV Port 挿入留置手術

 こんな具合に3泊4日の入院を繰り返していたある日、主治医の大塚先生から点滴の位置を替える提案があった。これは入院しないで、化学療法を行う手段なのである。もともと点滴は、両手のうちいずれかの手首の静脈に点滴針を差し込んで、点滴棒にぶら下げて頭上に掲げた点滴袋の点滴液を、静脈に流し込むシステムである。手首に点滴針を差し込んだり、点滴棒を引きずっていたのでは、通院は無理である、3泊4日の入院をしないで化学療法を受けるには、これは避けて通れない手続きであった。図示すれば下のようになる。これは大塚先生が、はじめてこの手術をする私のために、特に説明用に渡されたメモである。ここにCVとは Central Vein 中心静脈の略である。Portとは港のことであるが、ここでは点滴液を体外から体内に取り込むための中継基地とでもいえようか。

 上図で右胸に埋め込まれた丸印がポートである。実物はプラスティックのボックスで、大きさにして心臓のペースメーカーより一回りは小さい。中心部はシリコンでできており、ここに皮膚の上から点滴針を刺して、薬液を中心静脈に注入する。丸印から上に上がり更に下に大きく垂れ下がった点線は細管をあらわす。細管の先の部分が中心静脈に挿入される。首からぶら下げた点滴袋内の溶液は、容器の収縮力によってポートに取り込まれる。容器は体温を感知して緩慢に収縮するのである。容器から押し出された抗癌剤溶液は、この細管を通って中心静脈に流れ込むのである。ポートが右胸の皮膚下に埋め込まれた状態は右の図のとおりである。

埋め込まれたポートのイメージ
 手術は7月16日(水)午後1時から、大塚先生の執刀で行われた。手術室の外で待機していた妻によると、キャリヤに横臥したまま、私が手術室から出て来たのは、午後2時10分であったという。手術は局部麻酔で行われたが、手術中しばしば痛みを訴えた。その都度、麻酔が追加された。どうも私は麻酔が効き難い体質のようである。平成12年9月に、交通事故の後遺症、右肩腱板断裂の手術の際など、 手術室を出て病室に行く間中、幼児のように泣き叫んだと妻は言うのであるが私には記憶がない。しかし、痛かったことはたしかな記憶で、しばしば痛みを訴えたのは事実であった。

 私は、過去3回の開腹手術の後には、必ず小腸の癒着による腸閉塞を起した。腸閉塞になると、口からの飲食物の摂取はできない。生きていくための栄養の補給はすべて点滴による。手首からの点滴で済ませるのは、1000キロカロリー/日までである。私のように2000キロカロリー/日が必要な患者は、右胸から、肺の近くを走る中心静脈に点滴針を突き刺して、体中でもっとも太い中心静脈に点滴をする。これを中心静脈高栄養点滴といった。手首からの点滴の場合、お医者さんは手首を走る静脈を視認しつつ、点滴針を静脈に刺し入れる。ところが中心静脈高栄養点滴の場合は、肝心の中心静脈が見えない。体中奥深くを走っている静脈に、間違いなく点滴針を突き刺すのには、高度の技術と経験が要るに違いない。過去3回、主治医の大塚先生は、これを簡単にこなした。患者である私は、何の不安も感じなかった。数年前、この中心静脈高栄養点滴の針が、中心静脈でなく、肺に刺さって、患者が死んだという医療事故が新聞に載っていた。これは一つ間違えば死に至る危険な処置なのだ。私は今回、化学療法の在宅治療を可能にするためにポートを埋め込む手術をした。しかしこれによって、あらゆる目的の点滴が、このポートを経由して 簡単に且つ、安全に行えるようになった。とりあえず今回は、点滴棒を引きずって病院生活をする苦痛から開放されたわけである。

 CVPort 埋め込み手術の後,手術瘡が癒えて抜糸するまでは水泳禁止である。その間の2週間をどうするか。何もしないで家の中でぶらぶらして過ごせば、身体の衰えは目に見え、実感するようになるだろう。次のような方法を実行した。先ず午前7時起床、洗顔、水を一杯飲んで団地の周囲を3回早足で回る。一周10分かかるので、終わると7時半。普段の起床時間となる。朝食後一休みして、海軍体操10分、ダンベル体操10分。ダンベル体操は上腕部の筋肉強化に欠かせない。48時間点滴終了直後の数日は倦怠感が強く、辛いが、まあ何とか切り抜ける。抜糸の当日は午後、病院から帰宅するとすぐにプールに行く。クロールで水をかく度に、体側を流れる冷たい水の感触はえも言われない。2週間ぶりの水泳は爽快感で一杯。万歳。 ただし、満を持して100メートルづつ細切れで700メートル泳いで上がる。

携帯用点滴器

ドシフューザー
(薬液タンク)
 ポートを右胸に埋め込んだ翌日から、携帯用点滴器具を首からぶら下げて、うまくいくか実験を始めた。この器具は、正式にはドシフューザー(DOSI-FUSER) と称する直径6センチ、高さ18センチ位の円筒形の小型容器である。この携帯用点滴器具を本章では薬液タンクと仮称する。実際に身体に装着した様子は下の略図のとおりである。ドシフューザーの実物は右の写真のとおりである。

携帯用点滴原理図

   薬液タンクは二重構造になっている。透明プラスティックの外筒には0から25までの目盛りが5ポイントおきに記されている。目盛りの左側には DOSI-FUSER と製品名が印刷さてており,下部には製造会社のトレードネームであろう LEVENTON の名が見える。目盛りの背後の薄茶色の細長い筒が内筒である。今は空っぽで、プラスティック製の白い下枠はゼロの目盛りを指している。薬液が入ると内筒は外筒の線まで膨張し、白い外枠はてっぺんの25の目盛りを指す。この薬液タンクを逆さまにして、網状の袋をかぶせ、紐をつけて首から吊るしたのが左図であ る。

 内筒には抗癌剤5FU(フルオロウラシル) 400mg を含む生理食塩水120mlが入っている。内筒は風船が縮む力を利用して薬液を輸液チューブに送り込む。チューブは、ポートに接続される途中、左鎖骨下あたりに添付された温度センサーの下を通る。チューブはこれによって体温を感知し、自動的に収縮して薬液の流量を調節する。ポートからは別の細管が中心静脈に挿入されている。2昼夜、約40数時間かけて、タンク内の抗癌剤は全量、患者の体内に注入される仕掛けだ。

 本来、タンク内の抗癌剤は、約2昼夜かけて体内に注入されるべきものである。しかし、試験的使用の今回は約6時間も早く、タンクは空っぽになった。劇薬である抗癌剤は、相当の時間をかけて摂取しなければ、強い副作用が現れるはずである。案のじょう、退院して帰宅の途中の東西線の車内で,吐いた。途中駅で下車して休息しながら帰宅した。妻が付き添っていたので周りを汚すこともなかったが、トンだ醜態を演じたものだ。この携帯用点滴器具を使用する直前には、吐き気止めのカイトリル3mg を注入しているのに、この体たらくである。今後の使用には十分の注意が必要である。

肺の構造
肺のCT検査

 平成20年5月30日(金)、恒例の年1回の肺のCT検査を行った。というのは数年前から両肺に数点の白斑が見える。これが悪性ではないかと毎年追跡調査を行ってきたのである。今回のCT画像を診た内科の新井先生の意見は次のとおりであった。

 ・白斑は過去3年間のCT画像に変動がないので心配ないと思う。
 ・両肺の真ん中、大動脈と静脈群の近くのリンパ節が、昨年のCT画像に較べて異常に膨れている。 今後警戒が必要である。この追跡調査は外科に任せることにする。

 私見では大腸癌の肺転移の前兆ではないか。これを外科の大塚先生に告げたところ、その可能性はあるとのことであった。とくに、これに対する更なる調査や、治療の指示がなかったのは、すでにフォルフォックス4の治療に入っていることから、その効果を見たうえで肺のほうの対策は考えようとの判断であろう。肺癌にせよ肝臓癌にせよ、原発の大腸癌からの転移である。フォルフォックス4が肺癌にも効くはずとの判断であろう。

今年 (平成20年) の最終検査

 平成20年12月2日、第10回のフォルフォックス4の治療に入る前に造影剤を注入しながら、腹部CT検査を行った。結果は主治医から12月24日に聞いた。半年前に径6センチに増大していた肝臓癌は、9回の化学療法の結果,よくなるどころか、逆に2センチ程度増大してフィルムに写っている。フォルフォックス4が私の癌に対して有効でないということが明らかになった。もっとも、この療法をやらなければ、癌細胞はもっと増殖していたともいえるわけで、この療法が無駄であったと単純にはいえない。腫瘍マーカーの折れ線が次第に下降線を辿っていることで、癌細胞が順調に縮小していると信じていたのは、ぬか喜びであった。リンパ節の腫れが縮小していると主治医は言うが、本命である肝臓癌が大きくなったのでは朗報ともいえない。

 フォルフォックス4が有効でないとわかっていながら、この日 (12月24日) は依然としてこれを継続することになった。この療法では、薬液タンクを首からぶら下げて、5FUの48時間点滴の前に、その準備として外科外来のベッドでの多種薬品の点滴がある。主管には、カイトリル (防吐剤)、レボホリナート (5FUの効力を増す)、5FUを順番に繋ぎ、側管にはエルプラット (新薬)、5FUを順番に繋いで点滴する。これら5、6種類の薬剤の点滴に2時間を要する。同じような患者が5、6名もベッドで点滴中だ。これら患者を一人の看護士が担当する。5、6種類の薬剤を2時間の間にとっかえ引き替え交換するのである。一人の患者の点滴交換中に、他の患者の点滴壜が空になる。時には数名の患者の点滴が同時に終わったりする。看護士は目の回るような忙しさだ。

 点滴壜には患者の氏名を書いた紙が貼り付けてあり、点滴壜交換の都度、患者がこれを確認すことになっている。こういう準備は当日できるわけではない。前日の午後、担当看護士がやっているのだ。当日になって急に治療法の変更はできないのだ。私はすでにこの治療法を10回もやっている。点滴の段取りを知悉しているだけに、有効でもない治療をさらに1回続けることに違和感があったが、特に抗議や申し出はしなかった。しかしこの治療では、1回の治療に約6万円もかかるのだ。患者の立場としては心穏やかではない。だいぶ前、フォルフォックス4をインターネットのホームページで検索したところ、北陸地方の某お医者さんは、この治療を10回やった患者はいまだかってない、と言っている。それほど副作用が強いのである。

 来年1月からは治療法が変わる。イリノテカンともう一つの新薬 (名前を聞いたが忘れた) を主剤とするという。イリノテカンと聞くと頭髪が抜けることを連想する。禿頭になってまで延命治療を続けるか、将来の選択になるだろう。しかし、いまや頭髪は最盛期の10パーセントぐらいに減っている。丸禿に拘る必要はないのかもしれない。まな板の上の鯉は、料理人の包丁さばきにまかせるほかはない。

フォルフィリ(FOLFIRI)療法の開始

 平成21年1月13日(火)から1月16日(金)まで、船橋中央病院に3泊4日の短期入院をしてフォルフィリ療法の第1回を受けた。次のような薬剤を40数時間かけて、右胸に埋め込んだポート経由で点滴する。

 最初の点滴:

 アバスチン(血管新生阻害剤)             90分

 グラニセトロン(制吐剤)                 30分

 レボホリナート(5FUの効果を高める薬)       2時間

 トポテシン(イリノテカン、抗癌剤)            2時間

 5FU(フルオロウラシル、抗癌剤)600mg急速点滴15分

 最後の点滴:

 5FU(フルオロウラシル、抗癌剤)2000mg持続点滴20時間

 5FU(フルオロウラシル、抗癌剤)2000mg持続点滴20時間

 以上の薬剤のうち、これまでの治療法エム・フォルフォックス6(mFOLFOX6)と異なるのは 血管新生阻害剤アバスチンの追加、エルプラット(オキサリプラチン)の代わりにトポテシン(イリノテカンと同じような薬効がある)を入れるなどということである。私はこれまでの治療法をフォルフォックス4と称していたが、昨年8月初めからはじめたドシ・フューザーという薬剤タンクを胸にぶら下げてやる療法はエム・フォルフォックス6というそうである。ここにエム(m)というのは modify(修正する) の略である。米国で始まったこの治療法を、日本式に修正したものという。

 血管新生とは聞きなれない言葉である。大体、がん細胞は正常細胞に比べて、異常に早く発達する。この発達を支えるためには、正常な血管から血液を供給されるだけでは足りず、自分自身で新しい血管を作ろうとする。この作業を阻害して、血管を作らせないように妨害するのが血管新生阻害剤の役目である。





アバスチンの副作用 1

 血管新生阻害剤アバスチンは正常細胞に損傷を与えないという点では、大変いい薬であるが、アバスチン自身は多くの副作用を伴なう。大分大学医学部の白尾教授が監修した『アバスチン ハンドブック』によると、アバスチンには次のような副作用があるという。高血圧、尿蛋白、鼻血など粘膜からの出血、白血球数の減少(抵抗力の低下)、消化管穿孔,創傷治癒遅延、腫瘍からの出血、深部静脈血栓症、けいれん発作・視覚障害など。以上をまとめたものが右表である。このうち、消化管穿孔以下の副作用は、重篤な副作用に分類さされている。100人に一人二人というので、私などは見逃してもらえるのではないかと楽観している。高血圧の傾向は早速出てきた。私の血圧は、上120前後、下70前後と安定していたが、このところの計測では上が130台になることも稀ではない。全身の倦怠感はいつでもある。これはしかし、アバスチン固有のものというより、抗癌剤にはすべて共通する副作用のようである。

アバスチンの副作用 2

 上に述べたのはアバスチン投与による一般的な副作用の説明である。問題は私自身に如何なる副作用が表れたかである。以下、右表の順序にしたがって述べていきたい。

 通常の副作用:
  高血圧 収縮期130以上に跳ね上がることがあったが、やがて120代に落ち着く。拡張期は常時80以下。
  蛋白尿 なし
  鼻血 鼻をかむと、右鼻腔からの鼻液が赤く染まることがしばしば。強くかんだときに普通の鮮血の鼻血が出る。1日1回位、真っ黒い、大きな鼻くそが出る。右鼻腔内に常時少量の出血があると推定される。
  白血球数 3400(21.4.14計測)、もともと私は白血球数が少ない。3000~4000が普通なので、この数字では異常なしといえる。

 重篤な副作用:
  肝臓痛 第3回のFOLFIRI療法以降、常時肝臓痛又は肝臓に違和感がある。時々痛みがひどくなって耐え難い。4/7(火)午前8時頃、痛みに耐えず、救急車で東大和病院へ。肝臓痛の時には、体温は37.2~37.3度程度の微熱が出る。この肝臓痛に関しては、パンフレットに何の説明もない。ただ「腫瘍からの出血」とだけ書かれている。肝臓に痛みが走るときには、腫瘍から出血しているのであろうか。もしそうならかなり大量の出血で、ほかの部分に症状が出るはずだ。第3回の点滴(3/24) 以降すでに1ヶ月を経過しているが、肝臓痛は止まらない。ただ、痛みの程度が薄くなり、頻度が少なくなったに過ぎない。パンフレットによれば、この重篤な副作用は、100人のうち1、2人に出るという。私はこの1、2人の中に入るのであろうか。
  大腿部倦怠感 大腿部が重くて、さっさと歩けない。誇張して言えば雲の上を歩いている感じ。立ち上がったりしたときにバランスを崩すことしばしば。運動神経を侵されたか。
  胃部違和感 胃に常時違和感がある。食欲不振。体重58キロに減少。

イリノテカンの副作用:

  アバスチンのような分子標的薬は、常に抗がん剤と併用される。抗がん剤と併用した場合にはじめてその効果が現れるという。したがって、以上に述べたアバスチンの副作用のほかに、併用される抗がん剤の副作用が出る。それを以下に列挙する。
  頭髪抜け毛 もともと頭髪は薄くなっているので目立たないが、今年になって現在までに、約三分の一が抜け落ちた感じである。後頭部は元から禿頭の感じである。しかし、額の上の前髪は、白髪のまま残っており、正面からの写真では、一見堂々たる老人であった。それが今では正面写真でも前頭部の前髪は視認できず、禿げ上がった額が電光にテカテカ光っている。
  色素沈着 両手の親指と人差し指の爪が薄黒く変色している。顔色も薄黒く変色しているはずである。毎日少しづつの変化であるから、本人としては見分けができないだけであろう。がん患者特有の顔色になるのかと思うとがっかりする。
  なみだ目
  手足の先端(指)のしびれ感
  皮膚の掻痒感

癌性疼痛

 平成21年5月12日、予定通り定期診察があった。今回は、新薬アバスチンの副作用のダメッジが大きいので、ラッシュアワーの2時間の通院を避けて、前日から船橋市役所の近くのホテルに泊まった。この日、4月10日の胸部CT撮影、同4月20日の腹部CT撮影の結果が主治医の大塚医師より知らされた。胸部CTには何の変化もない。腹部CT画像に顕著な変化があった。肝臓下層の腫瘍はほぼ下層の全面に拡がっている。その上、肝臓上層の処女地に新しく2センチ位の新しい転移ができた。肝臓痛は癌性疼痛である。主治医の説明は以上のとおりだが、私はこの日頃の肝臓の痛みを、癌性疼痛に結びつけて考えることはなかった。癌性疼痛ががんの末期症状であることを知識として知ってはいたが、これが自分自身の現実の痛みに結びつくことには思い及ばなかった。痛みはあくまで新生血管阻害剤のアバスチンの副作用だとばかり思っていたのだ。私は、肝臓がんが末期に入ったことへのショックよりも、この痛みが癌性疼痛であることに思い至らなかったわが不明にショックを受けた。

第4回FOLFIRI療法

 アバスチンは多くの転移性肝臓がんに有効な新薬であるが、私にはあわない薬であったのだ。主治医は、もしアバスチンを使わなければ、がん細胞の増殖はもっと早かったかもしれないという。とくに第1回(1/16)、第2回(2/3)アバズチン投与後には、特筆するような副作用はなかった。この間、新生血管の生成は阻害されたかもしれない。しかし、第3回(3/24)以後は、抗がん剤としてのメリットはなく、いたずらにがん細胞を刺激して、悪化のスピードを速めたのではないか。私はそう確信した。アバスチンを敵視する私の感情に配慮して、今回の第4回では、アバスチン抜きのFOLFIRI療法に替えることになった。ただし、今回の血液検査で、白血球数が2000に低下した。これは免疫力の低下を意味するので、あと2週間休薬期間を置いて様子を見ることにする。

医療用麻薬オキシコンチン

 フォルフィリ療法のほかに、肝臓痛を押さえるため医療用麻薬オキシコンチン5mg が処方された。この薬は1日に付き2錠、12時間おきに服用する。最初の日の夜、午後9時ごろ最初の1錠を飲んだ。翌朝眼が覚めて驚いたことに、体全体が異常にだるく、頭が朦朧としていて起床の爽快感など皆無。新聞を読もうとしても5分間とまぶたを開けていることができない。大体、薬品を使って癌性疼痛を抑える目的は、痛みがなくなっている間に、まとまった仕事ができることでなくてはならない。また外出して、いろいろな用事を達することができなくてはならない。ボーッとした状態で眠ることもできず、さりとて布団から起き出して用事もできないのでは、生きているとはいえない。私は自己診断でただちに麻薬の服用をやめた。 服用をやめても、この朦朧状態は2、3日続いた。その後緩慢に快方に向かい、完全に副作用の影響がなくなったのは、2週間以上もたってからであった。(以上の3項目は平成21年5月31日記)


最終的な決定

立川在宅ケアクリニック

 肝臓がんの最終局面を迎えて私は、始終肝臓痛に悩まされている。この癌性疼痛は今後ますます強くなっていくであろう。片道2時間をかけて船橋中央病院に通うことは現在でも無理であるが、近い将来は不可能になるだろう。そこで主治医の大塚先生と相談の上。住居近くの適当な医院、ホスピスに治療の医療機関を代えることにした。下記はインターネットで見つけた、わが 住居から直線距離にして2キロしかない至近距離にあるクリニックである。

 医療法人社団 在和会
 立川在宅ケアクリニック

 東京都立川市幸町5-71-16
 院長 井尾 和雄
 ℡ 042-534-6964

   7月6日(月)午前10時から約1時間、院長先生の話しを聞き、私の意見も述べた。院長先生の、私の病状に対する意見はは大要次のようなものであった。
 ・現在は肝臓がんの最終段階と思う。平成18年、大腸がんからの転移が見つかってから、今まで生きられたのは驚異的である。あなたのがんは老年になって発生したもので、がん細胞の成長力が弱かったのがその原因であろう。
 ・今の状態で入院させてくれる病院はない。ホスピスか在宅ケアのどちらかを選択するほかはない。この近くのホスピスを2、3紹介するので至急、入院の予約をするように。
 ・当クリニックでは抗がん剤による治療行為はしない。痛みや、吐き気の症状を緩和するいわゆる緩和ケアである。
 ・1週間に4回、訪問看護をする。2回は医師により、もう2回は看護士による。
 ・死体の身体清掃には万全を期す。棺桶の蓋をあけると腐敗臭がただようというようなことはない。
 ・臨終の前には、適当な余裕をもって家族を呼ぶよう言うので、たとえ家族が外国にいても、間に合わないということは先ずないであろう。

 以上の先生の説明で、私が在宅死について日頃抱いていた不安や不満が解消した。私は一も二もなく、このクリニックの世話になることを決めた。

対症療法

 このクリニックが私に処方した内服薬は次のものであった。

 ロキソニン錠     炎症・痛みを抑える、解熱
 ガスター錠10mg   胃酸の分泌を抑える
 リンデロン錠0.5mg  炎症やアレルギーを抑える
 ラシックス錠40mg  尿量を増やしてむくみを改善

 対症療法に専念するというだけあって、これらの薬の効果は顕著であった。服用3日目ぐらいから肝臓痛は次第に軽快に向かった。わずかな延命効果を狙って、辛い抗がん剤治療に耐えるより、延命効果を放棄して残された日々を快適に過ごす方がよほど好ましい。このクリニックは私の日頃の思いをかなえてくれた。私は概ね満足している。足のむくみを改善するためにラシックス錠を処方されたが、その効果が現れた形跡はない。もうすこし様子を見る必要があるか。

(この項 「最終的な決定」 は、平成21年7月11日記)。

黄疸1

 1週間ぐらい前から倦怠感がひどくなった。こんなにひどいだるさは、初めての経験である。7月24日(金)片桐先生の来診の際の話では、黄疸が出てきたという。表面に現れる症状としては、便が黄色味を増す。小便が褐色味を増す。眼球の白色部分に黄色味がかかる。皮膚が全体的に黄色味を増す。

 足のむくみは、私に関する限り黄疸によって受ける身体的ダメッジの最大のものである。大腿部から脛の部分にかけてのだるさ、それに足首のむくみとしびれ感、これによって早足ができなくなり、すり足気味の年寄り歩きになってしまった。足が速いので友人中に有名であったのは昔話、今や通りを歩いていて私より遅いのは病気療養中,奥さんに支えられて散歩している年寄りばかりである。往診のお医者さんは転倒しないよう繰り返す。

 こういう状況のうち、7月28日(火)往診の石橋医師と、わが寿命についてざっくばらんな会話を交わした。医師は慎重であって、患者の寿命について軽々に断定することはしない。しかし私は、わが寿命は後1ヶ月ぐらいのものであることを確信するにいたった。わが体調を考えるとき、1ヶ月というのは長いともいえるし、短いともいえる。ともかくその間に、死後の整理に寄与することを何でもやろう。 「後は野となれ山となれ」 は私のもっとも嫌悪する言葉である。

戸塚洋二氏の場合

 世界的な物理学者、戸塚洋二氏は平成20年7月、大腸がん転移の多発性内臓がんで亡くなられた。日本人として、もっともノーベル賞に近いところにいたというので、彼の死は各方面で惜しまれた。彼の大腸がんが発見されたのは平成11年10月というから、闘病生活は8年7ヶ月に及んだのであった。享年66歳、日本人男性の平均寿命は79歳なので、66歳というのは早すぎる死であった。残された彼のブログには、無念の思いが言外に、滲み出ている。

 私の場合はどうか。私が第1回の大腸がん手術をしたのは、平成14年5月であった。予想通り来る8月に死ねば、わが闘病期間は7年3ヶ月である。戸塚氏のブログを垣間見ると、彼は学者の忠実さで抗がん剤投与を行っていることがわかる。これに対して私は何かと理由をつけて抗がん剤の投与を怠り、副作用の辛さを回避したのであった。彼と我との間に闘病期間の差、すなはち寿命に差が生ずるのは当然である。

 もともと私は、僅かの延命期間を得るために、辛い化学療法を耐えることには消極的であった。生きている間のQOL(Quarity of Life)こそわが闘病生活の目標であった。その意味で私は、私の闘病方法に後悔はない。寿命にもまた文句はない。満足しているのである (「黄疸」及び「戸塚洋二氏の場合」は平成21年7月28日記)。

黄疸2

 7月28日(火)、石橋、松岡両医師の下で採血が行われた。その結果。

 項目      測定値     基準値

 総ビリルビン  7.2     <1.0

 ALP     1660    104~338

 AST(GOT) 155      8~ 38

 ALT(GPT) 106      4~ 43

 LD (LDH)1920    106~245

 γ-GTP    498    <73

 Ch-E     338    427~570

 LAP      11.1   13.5~17.6

 CK(CPK)  32.6   39.8~51.8

 CEA      95.9   <5.0

   上の6項目は測定値が大きく出ており、下の3項目は小さく出ている。最後のCEAは腫瘍マーカーなので他の項目と比較はできない。念のために言うと、昨年12月2日、船橋中央病院での測定値は26であった。このときは抗がん剤治療をやっていたので、測定値は低かった。問題は総ビリルビンである。これによって黄疸は確定された。この1週間のからだのだるさは黄疸によるものであった。一昨日からのからだのだるさは異常である。尿の色は一段と茶褐色を増した。そればかりではなく、体外に排出される水流の色が茶褐色なのだ。これにはショックを受けた。外出には転倒防止の杖が欠かせない。スポーツ倶楽部も退会した。片桐先生は、からだのだるさは更に強くなることはなく、やがて横這いになると慰めてくれた。病状は終末に向かって走り出したようである。

 7月30日(木)、石橋先生の手により、携帯用エコー機で、腹部のエコー検査が行われた。その結果、肝臓内の胆道に閉塞はなく、胆汁の渋滞もないという。もし胆汁が溜まっていれば、針を刺して胆汁を体外に排出する手術が必要であった。入院の必要がなくなったのはともかく朗報である(8月1日記)。

 8月4日(火)、往診の石橋医師とわが寿命に付き雑談。明確な死期は示されなかったが、黄疸は段階的に悪化するという。あと1週間あるいは10日が山場か。倦怠感が加重してくるので、この「わが病歴」も何時まで続けられるかわからない。ここらで止めてしまうのも尻切れトンボのそしりを免れない。できれば臨終までの様子を書き残して、「わが病歴」を完成させたい。それには大竹先生にお願いしたい。わが没後、長男から最後の模様を報告させますので、宜しくお願いします。

 岡野幸郎氏は、平成21年(2009年)8月15日に永眠されました。ご冥福をお祈りいたします。
ここに、長女ひろ子さんによる「父の養生日記 ―最期の一ヶ月の記録」を掲載し、「私の昭和史-自分史の試み-」を完結します。 (2009.9.22 大竹記)




『がん残日録』

入院中の読書ー筑紫哲也『がん残日録』

 読書は入院中の唯一つの時間つぶしである。昔読んだ共産党系の学者の評伝によると、彼は1回の入獄のたびに1カ国の言葉をマスターしたという。戦前は共産党は非合法政党であった。共産党員でなくても、コミュニズム系の学者や評論家は、しばしば逮捕投獄された。入院期間は刑期よりもはるかに短い。ましてや今回は3泊4日の短期入院である。手に取る本も肩のこらない雑誌や読み物にならざるを得ない。

 発行されたばかりの 『文芸春秋』 二月号を手に取る。この号にはジャーナリスト筑紫哲也の 「がん残日録ー告知から死まで五百日の闘いー」 が掲載されている。筑紫が肺がんと宣告されたのは平成19年5月10日のことであった。亡くなったのは平成20年11月7日である。享年73歳。これはこの間の筑紫のがん闘病日記の抜粋である。彼のがんは 「ステージ3B」 の小細胞がんであった。検査が終わった翌日から、デカドロン、カルボプラチン、エトポンドを併用する化学療法が開始される。このなかで私になじみがあるのはデカドロンだけである。これは副腎皮質ホルモン剤で、炎症の症状を改善する効果があるという。後の二つが主剤と思うが私としては始めて目にする名前である。

 大体、化学療法で取り上げられる抗がん剤には、がんの部位によって使用される薬が決まっている。すべてのがんに効果があるという汎用性の薬は存在しない。大腸がん転移の肝臓がんをわずらっている私が、原発性肺がんに使用される抗がん剤の名前を知らないのは当然である。がん細胞には薬剤に対する耐性がある。最初は効いている薬もやがて効かなくなる。そこで、その薬をやめて別の薬を投入する。それが効かなくなればまた別の薬ということになる。とっかえ引替え薬を使っても、やがて薬は種切れとなる。有効な薬がなくなったところで患者は一巻の終わりとなる。これが化学療法の運命なのだ。

 通常、化学療法の終末について患者にハッキリと告げる医者は先ずいない。患者の多くは、抗がん剤治療によってがんは治ると思っているのである。抗がん剤にはがん細胞縮小の効果はあるが、がん細胞を絶滅することはできない。化学療法というのは、抗がん剤によってがん細胞の増殖の勢いを抑えながら、如何に長く生命を維持し続けるかという療法なのだ。これを延命治療という。昨年、5月末から私がやっていたフォルフォックス4という化学療法の、米国での研究では、この療法の延命効果は1年7ヶ月であるという。

 筑紫の 「がん残日録」 の後には、この残日録をめぐっての、評論家の立花隆とジャーナリストの鳥越俊太郎の対談がある。両者ともがん患者で、現在治療を継続している。鳥越の場合、3年前、直腸がんを手術でとり、最近では両肺に転移した肺がんを、胸腔鏡手術で除去したばかりであるという。鳥越の場合、肺転移の段階で直腸がんの最末期ステージⅣ期となる。この期の患者の5年生存率は20/25%である。鳥越はあと2年頑張ればこの数字の中に入れると楽観的である。

 数日前の全国紙に鳥越の随筆が掲載された。それによると彼は先月、肝臓に転移した癌を開腹手術で摘出した。癌が一箇所に集中していたのは幸運であったという。肝臓内にがん細胞が散乱していれば、手術でとることは難しい。その点では幸運であったことは間違いない。しかし5年生存率に関する彼の期待は報われないだろう。一旦、胸腔、腹腔内に播種されたがん細胞は、現代の医学では完全に取り除くことができないのである。人のことは言っておられない。私自身のケースでは、一昨々年(平成18年)、肝臓転移が見つかった段階で、5年生存率はゼロパーセントであった(この項は平成21年3月12日記)。

 鳥越は主治医の意見に従い、現在抗がん剤をやめている。主治医は東洋医学も修めた医者で、抗がん剤を使わないほうが寿命が延びるという考えの持ち主である。 鳥越の身内に抗がん剤の副作用で髪は抜け、身体はぼろぼろになって最後を迎えた人がいるという。鳥越自身は、抗がん剤を拒否して自然に任せたいと思っている。私は一昨年末、肝臓転移が見つかったときに、躊躇することなく化学療法を選択した。この選択は正しかったと今でも思っているが、何時までもこれに固執するつもりはない。化学療法で身体を痛めつけ、刀折れ矢尽きて絶命するのは真っ平ごめんだ。現在やっている療法も、いい加減なところで見切りをつけ、自然に任せることにしよう。数ヶ月の延命効果を求めて、苦痛を甘受するつもりはない。もう80年以上も生きたのである。十分だ。気息奄々のうちに息絶えるより、心身とも平静な状態で死を迎えたい。

 筑紫は化学療法と平行して放射線照射も受ける。末期になると鹿児島まで行って四次元ピンポイント照射という特殊の療法も受ける。その前には京都で自己リンパ球免疫療法というのをやっている。筑紫は化学療法、放射線療法、免疫療法の三つを駆使してがんと闘っているのである。昨年(平成20年)8月5日の日記には次の記述がある。

  アバスティン 保険外適用ー高価 抗体薬品ー大腸がんOK

 アバスティンは上にも述べたが、血管新生阻害剤というやつで、私も今年から使い始めた。大腸がんには有効であるとして保険適用が認められているが肺がんには認められないのだ。保険適用が認められていてもなお高価である。1回につき約8万円かかる。これは3割負担者の自己負担限度額である。自己負担限度の制度がなければ何処まで跳ね上がるのか見当もつかない。ともかくがんの新薬は高価なのだ。それに「混合診療」という制度がある。一連の化学療法の中に、ひとつでも健康保険で認められない治療法や薬品がある場合、その化学療法には保険が適用されない。もともと高価な抗がん剤治療の上に、保険が認められなければ治療費は莫大なものとなる。実費を請求された筑紫が 保険外適用ー高価 と書くのも無理はない。すぐれたジャーナリストであった筑紫もがんに対する知識や理解が十分であったとは、日記を見る限り思えない。一旦転移が臨床的に認められたがんの場合、これを根治させる方法はないのである。

 昨年(平成20年)3月、主治医から余命3ヶ月の宣告が家族に対してあった。家族会議の結果、本人が生きようと努力しているときに、その努力に水を差すような告知はできないという結論に達した。家族の心情としてまことに自然な成り行きである。結局、筑紫は死が間近に迫っていることを知らないままこの年11月に亡くなるのである。本人に余命が短いことを告知しないのが良かったのか。

 筑紫は昭和49年の三木内閣以来、歴代首相に在職中1回だけ手紙を出して国政に関する意見を述べていたという。彼は気鋭のジャーナリストとして、権力の監視役を以て自ら任じていたようである。それも福田首相までであった。もし死が近いと告知されれば麻生首相に対しても言うべきことがあったのではなかろうか。首相に対してでなくても、高名なジャーナリストとして、友人知己やファンに対して、あるいはもっと広く国民に対して言い残しておくことがあったのではないか。ジャーナリストといえば純粋の民間人であるが、彼ほどのVIPは公人としての面をたぶんに持っている。公人に対しては余命の告知を避けるべきではない。公人たるものは告知の非情に耐えなければならない。死の恐怖にも耐えなければならない。耐えて、耐えておおやけに対する意見を後世に残すべきではないか。鳥のまさに死なんとする、その鳴くや哀し、人のまさに死なんとする、その言や善しというではないか。(この項に登場する人たちは高名なVIPであるので敬称は省略した)。

入院中の読書ーE.マオール『ピタゴラスの定理』

『ピタゴラスの定理』 表紙カバー
 雑誌を読み散らすばかりでは能がないので少し硬い本ということで 『ピタゴラスの定理』 を読む。この本は米国の数学史家E・マオール (Eli Maor) の著書を、日本の数学者、伊里由美が翻訳して昨年2月岩波書店から出版したものである。私たちは旧制中学の2年の幾何でこれを習った。直角三角形の斜辺の上に立つ正方形の面積は、他の2辺の上に立つ正方形の面積の和である、というやつである。この定理は今から2500年前のギリシャのソフィスト、ピタゴラスの唱えたもので、最初は土地の問題として提起された。これが  の代数の形で表されるようになったのはルネサンス後期の1600年代になってからのことであった。

 しかし、この定理の内容をなす事実は、ピタゴラスがこれを発表する前にすでに世界の各地で知られていたのである。パビロニアの粘土板文書には、「ピタゴラスの3数」 が列挙されているという。ピタゴラスの3数」 とは、上にあげた式のa,b,cに代入されるべき正の整数のことである。3,4,5  5,12, 13  8,15,17と無限にある。この本には、この3数が列挙された1ページ分の粘土板文書の写真がつけてある。今から4千年前のバビロニア人は民法や刑法を持っていたことで知られているが、数学に於いても端倪すべからざる才能を示していたのであった。

 「フェルマーの最終定理」 というのがある。ピタゴラスの定理の代数式は次のように表される。  ここでべき数 n に入れられるべき数字は1と2しかないというのがこの定理の実質的内容である。今から400年前のフランスの弁護士フェルマーは、これの証明に成功したが、紙面に余白がないので書けない、といい残して死んでしまった。爾来、350年にわたって世界の数学者がこの証明に挑戦して果たせなかった。ついに1993年、イギリスの数学者アンドリュウ・ワイルズ博士が成功した。証明は難しかったが定理そのものは単純で、高校生でも理解できるとこの本の著者は言う。ワイルズ博士の証明の成功には、日本の数学者、谷山豊 (1927-1958) の楕円曲線の理論が大いに貢献しているという。日本の数学者の実力も大したものである。

 1905年、スイスの特許事務所に勤めていた無名のアルベルト・アインシュタインは、動く物体の電磁力学についての論文を発表した。この難解な論文は当時、世界で三人しか理解できないといわれていた。三人のうち一人は論文作成者本人である。ところが1919年の皆既日食のとき、太陽の近くを通る星の光が曲がることが実測の結果判明した。アインシュタインの一般相対性理論の予言どおりであることがわかった。論文発表から14年もたってはじめて、アインシュタインと彼の理論は一躍世界中で有名になった。結局、重力場に於いては光線は曲がるというのが一般相対性理論の本質であるとこの本はいう。

 フェルマーの最終定理もアインシュタインの一般相対性理論もピタゴラスの定理と関係がある。前者がピタゴラスの定理の解釈であることは誰にでもわかる。後者とピタゴラスの定理についての関係が、数式で述べられているがもちろん素人の私にはチンプンカンプンである。こうしてみるとピタゴラスの定理は数学の基本概念とも考えられる。

 20世紀初頭のサイエンス・フィクションにこんなのがあった。ゴビ砂漠に長大な堀を掘ってピタゴラスの三角形を描き、これに油を流して火をつけると火星人がこれを認識して何らかの反応を示すだろうというのである。火星は酸素のない死の世界であることを今では誰でも知っている。 当時のSF業界では、火星には文明が発達して、地球人に勝る知能を持った生物が住んでいるかも知れないと喧伝されていた。火星人がピタゴラスの定理を何らかの形で知っているというのがこのフィクションの前提である。しかし、火星の大きさは地球の約半分である。火星人は球面の上に住んでいるのである。球の表面上ではピタゴラスの定理は成り立たない。結局、ゴビの砂漠に展開される大土木工事も火星人に無視されるだろうというのがこの問題の結論のようである。

 現在、ピタゴラスの定理の証明は400以上もあるという。この中には数学者のみならず、歴史上の著名人の証明も入っており、一部がこの本で紹介されている。レオナル・ド・ダビンチやアインシュタインの証明も含まれる。珍しいところでは米国第20代大統領J.A.ガーフィールドの証明などもある。

 この本は数学の本であるから数学の公式や方程式などが頻出する。これらは耄碌した頭にはわけのわからない記号に過ぎなかった。しかし、中に述べられた事実や歴史には初めて知ることも多く、私の知的好奇心は満足させられた。巻末の訳者あとがきによると、将来、この本はピタゴラスの定理についての定本になるだろうという。


死生観

死者の顔

 初めて死者を見たのは小学校6年生のときであった。長く病気欠席を続けていた級友の保手浜君が死んだ。当時級長であった私は、級友代表として葬式に参列した。小学校のすぐ前にあった保手浜君の自宅で葬式が行われた。お坊さんのお経は退屈でつまらなかった。納棺のときに始めて死んだ保手浜君の顔を見た。それは腫れて浮腫んでいて、この死顔から元気なときの保手浜君を想像するのは難しかった。死因は脚気であったという。今では脚気の原因はビタミンB1の不足ということがわかっており、脚気で死ぬ人はいなくなった。当時の田舎では、脚気原因の死は珍しいことではなかったのだ。

 その夜、布団に入っても、もし母親が死んだらどうしようかと考え始めると、なんともいえない絶望と不安のため、しばらく寝付かれなかった。父親の死とか、祖母、姉の死などは当時の私の思考経路には全く入ってこなかった。今から考えると、子供というのは両親の子どもである前に、母親の子どもであったのだろう。

 私の村の隣町に、私より20数歳も歳の違う母方の叔父が住んでいた。30歳をかなりすぎていたが独身であった。これがまた底なしの酒豪であった。あまり酒を飲むので嫁に来てがないという評判であった。しかし酒豪ではあったが酒乱ではなかった。毎年秋のわが村の鎮守のお祭りには、ほかの親類と共にわが家に来てにぎやかに飲んでいった。私の父が酒を一滴も飲まないことは親類中に知れ渡っていた。 そのためにいつも一升瓶を抱えてきた。私の母は前日酒屋から一升買ってきていた。とても持ち込みの一升ではすまないのであった。

 その叔父が私の中学3年のときに胃癌になって、隣村の馬場病院で手術をした。どうも手術後の予後が芳しくなく、余命幾ばくもないというので、私は、両親の言いつけでお見舞いに行った。相変わらず大言壮語、とても命旦夕に迫った病人とは思えないほどであった。私が、海軍兵学校へいくための受験勉強をしているというと、お前は優秀だから帝大であろうが海兵であろうが、受けるところは皆通ると、無責任な保証を連発して私を辟易させた。しかし、全身から発散する死の雰囲気は隠しようもない。よくしゃべるが顔は土気色の死者の顔であった。私は家に帰って、叔父さんはもう長くないと両親に報告した。私には生きている人に会ったというより、死者に会ったという気持ちが強かった。その後1ヶ月ぐらいでその叔父は亡くなった。

特攻志願

 昭和20年1月、江田島の海軍兵学校では、われわれ74期の繰上げ卒業が決まった。戦況は急迫しており、前線では、働き盛りの青年将校の欠乏がひどかったのである。そのとき同時に卒業後の針路に関する希望を聞かれた。今までの兵学校であれば、卒業後は艦艇にいくか、飛行機にいくかの二者択一であるので、とくに書類を回して、わざわざ本人の希望を聞くなどのことはしなかった。今年からは新しく特攻というのが選択肢の一つとして登場したのであった。当時の海軍は、特攻は命令ではなく、本人の希望によって配置されるという建前をとっていた。当時の海軍の首脳部は、100パーセントの死が待ち受ける特攻は、命令には馴染まないと思っていたようである。

 当時の兵学校の内部事情はどうであったか。戦況に一喜一憂することなく、学業訓練に励めというのが、学校当局の基本的な姿勢であった。しかし、もう間もなく卒業して苛烈な第一線で戦わなければならないわれわれ一号生徒に、戦況を無視して学業訓練に励めというのは、無理な注文であった。なかには、特攻に参加して一日も速く戦列に参加すべきであると、仲間を糾合して回る熱心な者も現れた。

 昭和18年には、文科学生に対する徴兵延期の制度が廃止された。その結果、予備学生出身の青年将校が海軍部内に溢れることになった。彼らの中からも、特攻志願者が続々現れるようになった。彼らはいわば海軍の臨時雇いである。平和になれば、大部分の人たちは娑婆に帰るのである。それに対してわれわれは、海軍に骨を埋めるべく海軍兵学校に入った。2年半というもの、文字通り血の滲む訓練をしてきた。海軍部内はもとより、国家国民の絶大な期待を背負って卒業するのだ。ゆめゆめ臨時雇いの青二才の後塵を拝して恥をかくな、という説は十分な説得力を持って、卒業生全員に迫ってくる。

 私はどうであったか。上にあげた理屈には全面的に承服するが、狂気のように特攻を主張する仲間には、ついていけないものがあった。彼らとは適当な距離を置いて付き合った。実際の特攻兵器を想像してみよう。回天である。これは簡単にいえば魚雷の中に人が入って、碇泊中または航行中の大型艦艇を狙うのである。親潜水艦を放たれた回天は時々、特眼鏡(潜水艦の潜望鏡のことを回天では、こう呼んだ)をあげて目標艦を視認しつつ突撃する。それで百発百中であるといえるか。そうは問屋が卸さないのである。たとえば、西カロリン諸島のウルシー泊地を考えてみよう。泊地とは名ばかりの外洋である。波が高いのだ。1メートルそこそこの長さの特眼鏡では、十分目標を視認することができない。よく見ようとすれば艇体を水面上に露出するほかない。また小艇を一人で操縦しているのだ。前後のツリムを安定的に保持するのは難しい。艇首が水面上に跳びあがったりすれば、忽ち警戒中の艦艇に発見されて、砲撃や爆雷攻撃で一巻の終わりである。航行中の艦隊を襲うのはもっと難しい。相手は高速で動いている。目標を選択している余裕はない。ぶつかるだけで精一杯である。航行中の艦隊は対潜警戒もまた厳重である。親潜水艦が適当な距離で回天を発射することは至難の業である。艦隊から十分な距離をとって発射された回天は、みづからの潜航で目標に到達しなければならない。その難しさは、上の泊地攻撃で述べたとおりである。

 親潜水艦を離れて、目標に到達するのに要する時間は長くて十数分、短ければ数分である。兵学校2年半の教育・訓練の成果はこの一瞬にかかっている。一撃で敵空母を抛れば、2年半の訓練は十分に報われる。しかし、上に考察したとおり、それはほとんど期待できない夢物語に過ぎない。事実、回天が敵の大艦、空母や戦艦を撃沈した記録はない。2年半の教育・訓練の成果を無視して”必死”を選ぶか、 卑怯者、意気地なしの汚名を自らに課して、艦艇や学校、陸上施設を選ぶか、なかなか回答を見い出せない難しい問題であった。

 期限付きの回答を何時までも放置することはできない。私は解答用紙の 「水中特攻」 に丸印をつけて分隊監事に提出した。当時の水中特攻とは、回天と蛟龍であった。回天はすでに述べた。蛟龍とは、開戦時、 真珠湾に侵入した特殊潜航艇を改良して、5人乗りの小型潜水艇としたものである。備考欄には「一時、水上艦艇の生活をしてみたい」 と書いた。それには理由があるのであった。

   小学校5年前期の国語教科書に「軍艦生活の朝」というのがあった。これは軍港横須賀に碇泊する戦艦霧島の、起床ラッパ5分前から、午前8時の軍艦旗掲揚までの軍艦内の行事を具体的に記述したものである。私は軍港呉に親類があったので、小学生時代よく呉に遊びに行った。年上の従兄に連れられて仲通りや本通りを歩くと、いやでも海軍軍人に出会う。士官、下士官、水兵さん、どの階級の兵隊さんの服装も洗練されていて、強国日本の生きた象徴のように思われる。何となく海軍に憧れを抱くようになる。国語教科書のこの「軍艦生活の朝」は、このような子どものあこがれに決定的な烙印を押した。中学三年生での針路選択に、この国語教科書の随筆は決定的な影響を与えたのだ。もし兵学校卒業時の進路選択について、分隊幹事の口頭試問があったときにはこのことを話そうと思って、備考欄にこのリマークを入れたのであった。

針路告知

 2月の中旬であったか、或る日の自習はじめに分隊監事中村二郎中佐が自習室に現れた。中村中佐は海兵50期で、67期、68期など若手大尉の多い分隊監事の中では、長老であった。若手の分隊監事の中には、いまだに一号気分が抜けず、生徒自治に介入して、一号生徒をうんざりさせる人も珍しくなかった。中村分隊監事は全く違っていた。一昨年10月、大原分校が開校して、ここで分隊編成をしたのであるが、分隊員の前に顔を見せたのはそのとき以来のことであった。分隊自治はすべて一号任せで、一言半句、文句を言われたことはなかった。
大原102分隊一号生徒 卒業を控えて 昭和20年2月
小野   永江  香本  岡野  赤石
片山  上島  斉藤

 中村中佐は先ず、一号生徒の卒業後の配置を通知するというや、持参の紙を見ながら淡々と述べていった。「永江伍長、電測学校」、「岡野伍長補、航空母艦葛城」、「小野生徒、海軍潜水学校」、後は覚えていない。飛行機に進むものは前から決まっており、特攻の選択は実施部隊に行ってからのこととされたようである。電測学校とはレーダーの理論と実際を学ぶ学校である。藤沢にあった。永江伍長は、数学や物理化学ではわがクラスでも十指に入ろうかという俊秀であったが、兵学校の重視する武道などの訓練点が悪く、総合成績は大したことはなかった。しかしこれは皆が納得する配置であった。私は、一度水上艦艇の生活がしてみたいという希望がかなえられて満足であった。口頭試問は一切なかった。分隊監事は提出された書類だけで判断した模様であった。小野生徒の潜水学校は、後に倉橋島大浦にある蛟龍基地に配属されることが付言された。特攻なのである。

 各一号生徒の配置を見て、中村分隊監事の決定方法がわかった。 先ず第一に本人の希望を尊重する。その次には男の子一人の家庭では、本人が希望しても特攻には行かせない。永江伍長の場合、弟1人、妹2人の子ども構成である。彼は得意とするレーダー理論をやりたくて電測学校を希望したのだ。父はわれわれの兵学校の先輩で、航空に進み、テストパイロットとして十数年前に殉職している。私は、姉と2人のきょうだいであったが、男の子としてはひとりである。小野生徒の場合は、本人、弟、妹2人という子どもの構成であった。男は2人いるのだ。一人が特攻で死んでも、予備の男が居るということのようである。余談であるが、小野の弟は、家業を継ぐべく信州大学の医学部に進んだ。授業で化学実験中、薬品が爆発して不慮の死を遂げた。家業のほうは、長女に外科医のお婿さんをもらって継続していた。私は戦後、福島県喜多方まで小野の墓参りにいってはじめてこのことを知った。肝心の小野本人であるが、昭和20年8月5日、クラスメート3名と共に蛟龍に搭乗訓練中、艇が沈没して殉職した。

 当時の海軍の実施部隊では、一人息子とか男の兄弟の数とかに関係なく、特攻に行くことが当たり前のこととされていた。そういう雰囲気の中で、男の子の数に拘って特攻配置を決めるという中村分隊監事の方針はかなり時代遅れの保守的な態度であった。軒並み20代後半の若い分隊監事に比べて、中村中佐は40代の半ばである。重要な決定が保守的になるのは自然のことであった。鹿児島県には男の兄弟5人がことごとく海軍兵学校に入り、ことごとく支那事変以来の戦争で戦死または戦病死した海軍一家がある。末弟の川久保輝夫中尉は72期でわれわれの一号であった。熱烈に回天を希望し、昭和20年1月、ニューギニア北岸で戦死された。私は当時から余りにもひどい扱いようではないかと、海軍当局の人事方針に深い不信感を持った。上司は何故止めなかったか。本人があまりに熱心であったとは言えるであろう。しかし、物事には限度というものがある。5人兄弟の全部を國に捧げるというのは、物事の限度を超えている。海軍省人事局で握りつぶすことはできなかったのか。川久保家にはもう一人の男兄弟がおり、この人は高等学校から大学に進んで、通常の社会人となった。このことはこの不当な海軍一家の運命に一条の光を当てるものではあった。

恐れを知る者

 卒業式の数日前、週日の午後、本来は訓練の時間が、一号に限って免除され、身辺整理に当てても良いこととなった。私は、寝室のベッドの頭の方に置いてある観音開きのチェストを開けて、家に送り返す私物を整理していた。いつの間に来たのか小野がすぐ傍に立っている。

小野 「伍長補、俺は死ぬのが怖い」

 ”文臣ぜにを愛さず、武臣死を惜しまずんば天下平かなり”という言葉がある。死を惜しまない軍人として人生をスタートしたわれわれ兵学校生徒が、「死ぬのが怖い」 とか 「死にたくない」 などとは、口が裂けてもいえない言葉である。私は一瞬耳を疑った。しかし、たちまち小野の真意がわかった。彼は私と同じように死を恐れ、死にたくない普通の人間であったのだ。死を惜しまない武人としてのたてまえに忠実に、特攻志望に丸をつけただけなのだ。

  私   「死ぬのは誰でも怖い。特攻の旗を一生懸命振っている奴らも、特攻で死ぬの
     が怖いのだ。自覚しているかどうかに関係なく、怖いのを誤魔化すために特攻
    を唱えているだけだ」

 そういった後、ワーテルローの戦いでナポレオンを破った連合軍総司令官ウエリントン将軍の故事を話した。合戦の始まる前に、先ず、第一線の塹壕に潜伏する仏軍歩兵を浮き足立たせるため、2人の兵隊が選ばれた。彼らの役目は、匍匐前進して仏軍塹壕に近づき、多数の手榴弾を塹壕に投げ込んで、仏兵を傷つけ、連合軍騎兵の突撃路を作るというものであった。事は成功して、結局、戦闘は連合軍の勝利に終わり、ナポレオンは没落するのである。戦い終わって、2人の兵隊は総司令官の前に呼び出されてその功績を讃えられる。1人の兵隊は堂々とした態度で、自分の上げた手柄に相応しい振る舞いを示した。しかし、もう1人の方は、始終、うなだれて、青い顔をしてぶるぶる震えている。とても大功を立てた人物とも思えない。2人が退出する際、周りにいた将兵は、この兵隊を嘲笑した。ウエリントン将軍は皆を制して、「恐れを知る者が真の勇者である」 と諭したという。

 私はこの話を小学1年生のとき、父の買ったキングの付録 『偉人は斯く教へる』 で読んで今に覚えている。この小冊子の中で今まで覚えているのは、このウエリントン将軍の話と、スパルタ副王レオニダスの言葉である。レオニダスの言葉は、この自分史の 『補遺その一 読書遍歴』 で詳述したのでここには書かない。とにかく、この古い外国の話を小野にしたが、それが小野の心にどれほどの効果を及ぼしたのかは全くわからない。

小野雄市

 小野雄市は福島県立喜多方中学開校以来の秀才であった。海軍兵学校へは千人中の16番で入ってきた。しかし、彼には肺結核という固疾があった。休業したり入院したりすることがしばしばで、兵学校入校以来の成績は芳しくなかった。そのために一号時代、大原102分隊では、私の後塵を拝して、一号の三席であった。 彼は生来の熱血漢で、聯合艦隊が英米艦隊の前に、手も足も出ない最近の戦況を悲憤慷慨していた。そのため彼は、特攻派の主張する今すぐ特攻に参加しなければ、貴重なチャンスを逃してしまうという説に傾倒していく。

 もし彼が針路志望の提出の際に、私に相談してくれていれば、言下に特攻志望を否定したはずである。というのは彼には、特攻を忌避する十分な理由があるからである。蛟龍という小型潜水艇の内部の生活は、健常者をも病気に陥れるほどの非健康的なものである。私は当時、蛟龍内部を見たことはない。しかし、100人ほどの乗組員を抱える大型潜水艦の内部がどうなっているかはよく知っていた。小型潜水艇の内部がいかなるものか、見なくても想像できるのである。彼のように肺結核の個疾があるものは、艇長勤務後日ならずして個疾がぶり返すはずだ。それは本人にとって不都合であることはもちろん、海軍にとっても損失である。私は彼が相談してくれなかったことを悔やんだが後の祭りであった。彼は戦況を悲憤するあまり、躊躇なく特攻を選択したが、実際に特攻勤務を宣告されて始めて、ことの深刻さに気付いたのであった。

生徒館寝室風景 真継不二夫報道写真集より

 こんなことがあった。ある朝、起床ラッパがスピーカーで生徒館全体に鳴り響く。ラッパの吹鳴が終わると同時に、生徒は一斉に跳び起きて起床動作に移る。起床動作の標準タイムは2分30秒である。生徒はこの間に、毛布を1枚づつきれいにたたんで、ベッドの足許の方に積み重ねる。寝間着を事業服に着替えて、便所、洗面所に走る。隣のベッドに寝ていた小野は、寝たまま、「伍長補! 俺は微熱があるから今日は海軍体操を休む。よろしく頼む」。私 「そうか、貴様だけ残していくわけにはいかない。俺もつきあうよ」。私は着替えかけた事業服をふたたびたたみなおして、チェストの上に置き、寝間着に着替えて毛布をかぶって寝た。

 すでに全生徒は、練兵場に分隊ごとに集まって、一号の号令の許、海軍体操をやっている。一階からは、自習室の掃除当番のまわれ回れという掛け声がかすかに聞こえてくる。無人になった寝室は、森閑として物音一つしない。入口から当直監事の見回りの足音が聞こえてくる。私は、深く毛布をかぶって寝たふりをする。当直監事は私のベッドの傍にしばらく立ち止まっていたが、そのまま行ってしまった。 普通なら、「朝食後、当直監事室に来い」 ということになる。当直監事室では、説教された上、二,三発殴られて一件落着ということになる。卒業の迫ったこの頃になると、一号生徒のこういうサボり行為も多少、大目に見られた。

 昭和20年3月19日、それは卒業式を旬日後にひかえた日である。土佐沖に来襲した米機動部隊から、艦上機の群れが呉軍港を襲った。通常、空襲警報が出ると生徒はもちろん、教官はじめ学校のスタッフも決められた防空壕に避難することになっていた。

 小野 「アメリカの奴らが来るたびに、逃げ回っていたのではだらしがない。俺は防空壕に避難しない。生徒館と運命を共にする」。
 岡野 「もっともだ。貴様だけを犠牲にはできない。俺も貴様と運命をともにする」。

 かくて2人は2階に上がり、寝室で空襲の実況を見物することにする。窓際の寝台にいては練兵場から見える。2列目の寝台に腰を下ろして見物する。呉軍港の艦艇や工廠を爆撃した帰りに、江田島本校を銃撃して溜飲を下げようというわけだ。 Japanese Naval Academy をやっつけたというのは彼らの自慢の種になるのだ。大原分校の生徒館の上で高度を下げた敵機は、海面すれすれに本校に向かい、校舎や生徒館を銃撃してから帰途につくのだ。大原分校から江田島本校は、直線距離にして2キロしかない。文字通り指呼の間である。さまざまの機種の敵機がわれわれの頭上を掠めて飛び去っていく。周囲の山々の砲台から間断なく高角砲や機銃が打ち上げられる。あたらない。弾片が生徒館の屋根に降りかかって、雨あられの音を立てる。うるさい。このときの銃撃で本校ではわが期の2名と下級生1名合計3名の戦死者が出た。卒業を10日後に控えて死んでしまった期友はさぞ無念であっただろう。結局、小野と私はサボリ友達であった。表面上はサボり友達であったが、私は小野の心友であったのだ。同期生千人のなかで、心を開いて語りうるただひとりの友達であったのだ。

 昭和20年3月30日、卒業式。小野たち約80名の期友は、山口県柳井の潜水学校に向かった。ここで潜水艦に関する基本的な知識を学んだ後、倉橋島東岸の大浦基地で実戦訓練を行う。私は、倉橋島西岸、丁度、蛟龍の大浦基地の反対側にある三つ小島に碇泊中の空母葛城にいた。梅雨時の或る日、上司の許可を得て内火艇で大浦基地の小野に会いに行った。運悪く小野は訓練中で会えなかった。しかし、予科練出身らしい若い兵隊が、活発に動き回っており、活気があった。当時は私の乗艦葛城をはじめ、聯合艦隊を代表するような大艦は皆、上甲板に樹木を植えたりして擬装し、敵機の眼をくらますというような作業に大童であったが、ここでは、敵艦を攻撃する技術を学んでいるのだ。士気が高いのも当然のことであった。

 昭和20年8月5日、小野ら期友3名は、予科練出身下士官5名を引率して、甲標的に搭乗、訓練のため安芸灘に乗り出した。午前中、母艦から 「訓練艇浮上せず」 の報告が本部に入った。早速救助クレーン船が現場の亀が首沖に出動して艇体を捜索したが発見できない。結局、艇体を発見したのは翌日夜のことであった。小野は縦舵の位置で故障復旧に努力しつつ力尽きていた。この事故で期友3名、下士官5名が殉職した。終戦を10日後に控えたまことに痛ましい事故であった。

戦場の生死1

   昭和20年7月24日、同28日の両日、土佐沖の米機動部隊から発進した艦上機の群れは、呉軍港とその周辺に碇泊する日本艦艇を襲った。すでに艦隊決戦の出来なくなっていた日本の艦艇は、大部分、第四予備艦となって、乗組員の多数を本土決戦に備える陸上部隊に転出させている。現に闘かっている砲員、機銃員が敵の攻撃に倒れれば、 もう後はない。敵機の蹂躙に任せるままである。戦艦も重巡も空母も赤子の手をひねるように皆撃沈されてしまう。皆沈没を恐れて浅いところに碇泊しているので 本来は沈没であるが擱坐してしまう。戦艦伊勢は葛城から直線距離にして500メートルぐらいの倉橋島海岸に碇泊していたが、無謀にも36サンチ主砲の斉射を行った。蜜蜂の群れのように襲ってくる敵機に対し、主砲の斉射は何の役にも立たないが、一旦装填した弾丸を引き出して、弾火薬庫に再格納するのはめんどくさかったのであろう。

 私の乗艦葛城は、呉港碇泊中唯一の現役艦であった。そのため乗組員は戦時定員で戦闘力も大きい。7月24日の攻撃は何とか凌いだが、28日、ついに一弾を飛行甲板に受けた。この被弾で副長以下19人が戦死した。  この両日の戦闘で、呉港とその周辺にいた艦艇からは、多数の戦死者が出た。呉市の焼却場は満杯なので、各艦は自艦の判断で死体を処理するよう通達される。私は甲板士官であったので、この死体処理の現場責任者であった。木工部に連絡して19個の棺を急造させる。三つ小島の陸上施設にこの棺を並べ、僧侶から召集された兵隊にお経を上げさせ、艦長以下首脳部が列席して簡単な葬儀を行う。その後、三つ小島の海岸に大きな穴を掘り、19個の棺を並べて、重油をかけて荼毘に付した。その夜、空襲警報が出る。火炎は目印になるので消さねばならない。水を染ませた筵を死体にかけ、バケツリレーで運んだ海水をかけて火を消した。筵をかけるとき、油でぬるぬるの死体に滑って、焼け残りの死体の上に倒れこんで油と脂まみれになったりした。空襲警報が解除されると再び重油をかけて火をつける。もっとも焼けにくくて往生したのは筋肉の凝集した大腿部であった。完焼までに一昼夜はかかったであろうか。

戦場の生死2

長鯨の同型艦迅鯨 7000トン
 潜水母艦長鯨は昭和20年7月30日、能登半島の先端宮津湾に碇泊中、敵機動部隊の艦上機に襲われた。このときの戦闘で乗組員300名中105名の戦死者が出た。わがクラスでは、艦橋勤務の2名と、艦橋前面に配置された機銃群指揮官2名が戦死した。重巡洋艦利根は昭和20年7月24日、江田内(江田湾のこと)の松ヶ鼻に偽装碇泊しているところを敵艦上機に襲われた。乗組員約1000名中、600名が戦死傷した。艦橋前面に配置された二つの機銃群の射手はほとんど敵機の機銃掃射のため戦死した。しかし、もっとも露出度が高くて危険な指揮官2人はわがクラスであったが、一弾も受けず無傷で生き残った。

 私の場合は、この日、空母葛城の中甲板で炸裂した250キロ爆弾のため、隔壁諸共吹き飛ばされたが無傷であった。初めての戦闘を経験する私のために、とくに付けられた分隊士付の白水兵曹は、甲板に腹這いになったまま、床机に腰掛けてゲートルを巻いていた私のほうを振り返りながら、しきりに低い姿勢になるよう警告を発し続けていた。そのときに爆発が起こって私は意識不明になった。後で散乱した隔壁などの破片を取り除いてみると、爆発の衝撃で白水兵曹の身体は20センチぐらい前方にずれて、下甲板からの上がり口のハッチコーミングに頭をブッつけて、頭蓋骨骨折のため即死していた。

 戦闘の処理が一段落して、私は受け持ち区域を回って被害状況を調査した。士官浴室には第三種軍装に飛行靴・戦闘帽姿の副長が蒼白な顔で横たわっていた。胸には血の跡がにじんでいる。士官浴室は戦闘の場合、士官戦死者の安置所に指定されていた。葛城に命中した爆弾の破片が、艦橋で保安指揮をしていた副長、泉福次郎中佐(50期)の胸に命中したのだ。艦橋には戦闘中は艦長以下十数名のスタッフが詰め掛けている。誇張して言えば立錐の余地もないぐらいに込み合っているのだ。その中の副長を選んで弾片は命中したのである。他の艦橋スタッフはすべて無傷であった。戦場の生死はまことに合理的思考の範囲外にある。生きるも死ぬも”運”なのだ。

人は死ねばゴミになる

 伊藤栄樹いとうしげき氏は昭和60年(1985年)検事総長に就任した。就任のインタビュウで 「巨悪を眠らせない」 と挨拶して国民の期待を一身に集めた。彼の議会の委員会での答弁はまた丁寧で詳細、委員連中の評判は良かった。こんな具合である。「〇〇先生のご質問はまことに事態の核心をついていて、担当の責任者たる私の深く感銘するところであります」。答弁の冒頭にまず質問者の質問を誉めそやすのである。それから諄々と自説を展開する。時には質問者の質問の反対の結論を述べるのであるが、 冒頭に専門家に誉められた委員は、気をよくして更に問題を追及する意欲を失うようである。おそらく、長い検事生活の中で身につけた会話術であったのであろう。彼は政界やジャーナリズムの人気者であった。

 その伊藤氏が任期中癌に侵される。いよいよ癌の末期が迫って、ついに退職し、退庁することになった。昭和63年(1988年)3月のことであった。一日、職員を集めて退庁の挨拶があった。この人気者の進退はジャーナリズムの注目するところで、彼の一挙手一投足がよく記事に取り上げられた。この退庁の挨拶も翌日, 主要各紙が取り上げた。某新聞に掲載された記事の見出しが冒頭の 「人は死ねばゴミになる」 であった。退庁の挨拶の中で彼は 「人は死ねばゴミになる」 と言ったのだ。私は、この著名人がこのような唯物的な死生観を持っていることに先ず驚いた。焼き場で焼いた灰や骨がゴミだというのだ。それには故人の魂がこもっている。ゴミとして捨ててしまうわけにはいかない。これは日本人だけでなく、人類共通の思いでもある。伊藤氏の死生観は、この人類の普遍的な思いに冷水を浴びせるものであった。思えば彼は40数年の間、検事として生きてきたのであった。何ごとも、疑わしいという主観だけでは証拠として成り立たない。証拠は、手に触れることができ、眼で見ることが出来るものに限られたであろう。死体の灰や骨は、それに死者の魂がこもっているから証拠になるのではない。手に触れ、眼に見え、DNAが一致するから証拠として採用できるのだ。彼の唯物的死生観は、職業の本質から発生したものであろう。余談であるが、彼はこの題名の文庫本を某出版社から出している。私は未読であるが。

私の死生観

 以上縷々として、自分自身の生死の体験や、わが周囲における死や死者との係わり合いを書いた。これらの断片的な知識が積み重なって、人の死生観を決定するのではないかと、私には思えるので、あえて詳細を書いた。

 私は、死を生の延長線上にあるものと考える。人生にはいろいろな節目がある。出生、入学、卒業、就職、結婚、退職その他。結婚の次には離婚という節目もある。人さまざまな節目がある。死はその節目の一つである。家族にとってはそれは悲しむべき節目であるだろう。そうでないケースもないわけではないが。悲しみに沈む遺族の前で、参会者同士が笑顔で久闊を語り合ったり、世間話に談笑する風景は決して珍しくない。参会者にとっては葬式は喜ぶべきことでも悲しむべきことでもない。通常見られる人生の節目の一つに過ぎない。

 死者の魂は生者の心の中に生きている。在世中の関係の強弱厚薄によって、人々の記憶の中の死者の魂は、次第に薄くなり、ついには消えていくだろう。中には、朝夕、仏壇に線香を立てて、故人のために読経する人もいる。故人と強い絆で結ばれたこういう人たちも、その人が死ねば故人の記憶はゼロとなる。こうして死者は次第に死ぬのである。肉体がゴミになって死ぬのではない。平成21年4月6日の読売歌壇に次の当選歌が出ていた。選者は岡野弘彦氏である。

 わが死なばわれの心にけざやかに生きゐる夫もともに死ぬらん 秦野市 深石 ヒロ

 けざやかには鮮やかにの古語である。ここに私と同じ死生観を持つ仲間がいるかと安堵とともに深い共鳴を覚えるのであった。

 年代によって死に対する考え方が変わるのは当然である。40歳、50歳の壮年で癌死を宣告された場合、平静な気持ちで死を受け入れられないのは当たり前である。まだ子供は一人前になっていない。孫の誕生やその成長も見たい。こういう人間的な欲望が急に遮断される。この場合、死は肉体と精神に対する不当な侵害だ。怒りと絶望のために心はちじに乱れているはずだ。これに対して、私の場合のような老人はすでに80歳を過ぎている。何時死んでも天寿を全うしたことになる。安心立命の境地といえようか。もちろん、死は誰にとっても厭うべく、避けるべきものではあるが、それは肉体と精神に対する不当な侵害ではない。あの世からのお迎えである。江戸時代の狂歌師に次のような辞世の一首がある。
国史大辞典 吉川弘文館より 
   死にとうて死ぬではないが御歳おんとしに御不足なしと人はいうらん  手柄 岡持てがら の おかもち

 手柄岡持は江戸時代中期の武士・文人とくに戯作者、狂歌師として名がある。岡持というのは食器を入れて持ち歩く、蓋と手のついた木製の容器のことである。功名手柄をこの容器に入れて持ち歩くというほどの意であろうか。人を喰ったニックネームである。文化10年、79歳で亡くなった。当時のことだ、 79歳は十分老人である。おん歳に不足はないといわれるのも当然である。

 江戸幕府の中期から後期にかけて、山田浅衛門一家は代々幕府の処刑役人、いわゆる「首切同心」であった。首切浅衛門が一家の通称であった。幕末動乱の時期に一家の当主であった八代浅衛門に次のような回顧談がある。「大体、ねずみ小僧のような大泥棒の往生際はまことに潔かった。一方、若い勤皇の志士などの最後には見苦しいものもあった」。若い勤皇の志士とは、安政の大獄で斬首された頼三樹三郎や橋本左内などのことである。彼らには最後まで、不当な量刑に対する怒りがあったであろう。またみづからの理想の実現が中途にして挫折したという無念もあったはずだ。なかなか素直に首の座に直りにくい心境であったであろう。誰も彼らの最後の見苦しさを非難できないだろう。従容として死につくというのは小説や物語の世界である。個々の死は必ず個々の死に方による。死に対する考え方を、見習うことはできても教えることはできない。人は自らの死生観を自分で作り上げて、その上で死ぬほかはない。最後に、有名人の辞世の狂歌三首を挙げて死生観の結びとする。

  この世をばどりゃおいとまを線香の煙とともにハイさようなら    十返舎一九じっぺんしゃいっく
  今までは他人ひとが死ぬとは思いしが俺が死ぬとはこいつぁたまらん 蜀山人しょくさんじん
   宗鑑はいづくへ行くと人とはばちとよふありてあの世へといへ    山崎宗鑑やまざきそうかん

 十返舎一九は弥次さん、喜多さんの活躍する滑稽本ベストセラー 『東海道中膝栗毛』 の作者である。線香の線はおいとまをせんのせんにかかる。ハイはもちろん灰にかかる。辞世の一首は軽妙洒脱、さすがに滑稽本の大家に相応しい作品である。蜀山人は本名、大田南畝、江戸時代中期の戯作者、散文家として文名が高い。蜀山人は狂歌師としてのニックネームである。ときに四方赤良 (よものあから) と名乗ることもある。諧謔の中に人間の本性を読み込んでしたたかである。山崎宗鑑は、戦国時代の連歌師で、『犬筑波集』 という連歌本の選者でもある。十返舎一九や蜀山人の百年も前の人であるが、狂歌の質は全く彼らと変わらない。すぐれたものである。山崎宗鑑は経歴や生没年のハッキリしない人物である。彼が編集した 『犬筑波集』 に次の一首がある。”都より甲斐の國へはほど遠し お急ぎあれや日もたけだ殿”。 日もたけだ殿は 日もたける (陽が西に傾く) と武田殿をかけたものである。一首の意味は、甲斐の国から京都までは遠いので、早く上京しないと日も暮れてしまいますよ、武田信玄殿というほどの意である。上京に慎重な武田信玄を揶揄したものである。これによって、宗鑑の歌風の一端を知ることができようか。連歌というのは笑いと皮肉の要素があること川柳に似ている。    


 関西旅行

娘一家の来日

 平成20年10月10日 (金) から10月17日 (金) までの足掛け8日間、夫婦で関西旅行をした。正確に言うと、丁度この期間来日するオーストラリア在住の娘一家と関西で合流する旅行であった。娘一家は、これまでの来日は、一家を挙げてであれ、娘単独であれ、首都圏に来訪するのを常とした。今回は、亭主と成人した子どもたちに、はじめて日本の関西を見せようという試みであった。

 娘の亭主の関心はともかく、孫たちの関心はもっぱらショッピングであった。西オーストラリアの辺鄙な街に住む子どもらにとって、日本のスーパーやデパートや専門店に飾られている衣料品は、新鮮で垢抜けのしたものに見えるらしい。用意した小遣いは来日して2、3日で忽ち底をつく。とくに今回、娘が旅行を企画したのは年初であった。当時は1オーストラリアドルは103円程度の円安であった。娘は1ドル100円の感覚で旅行計画を立てた。実際に旅行費用をオーストラリアドルから日本円に両替した9月の中旬には1ドルは70円台に急騰していた。娘が換金したのは1ドル、66円であった。オーストラリアドルの激しい目減りは娘一家には大打撃であった。孫たちのもう一つの関心は大阪のユニバーサル・スタジオである。午前9時の開場から、最後のパレードを見て午後8時まで会場内で時間をつぶすというのである。われわれ老夫婦はもちろん若者たちの遊びに付き合うことは出来ない。会場内で一緒にあわただしい昼食を食べて早々に退散した。

哲学の道・南禅寺

 娘たちが奈良観光のツアーに参加している日は、私たち夫婦は東山で銀閣寺を見、哲学の道を辿って平安神宮まで歩く計画を立てた。不幸にも当時、銀閣寺は修復中で、屋根から下にかけてシートで覆われていて見ることが出来ない。銀閣寺は室町幕府の八代将軍足利義政の建立したものである。政治的には全く無能な将軍も、趣味人としては天下第一級であった。彼の援助の下に発生した東山文化は彼の治世中に発展して、今に受け継がれる侘び・寂びの文化となった。書院造、造庭術、茶の湯、生け花、能楽などがこれである。彼は祖父の三代将軍足利義満の金閣寺の向こうを張って、東山に銀閣寺を建立した。それは是非見たかった。

 余談であるが、日本中世史を専攻する歴史学者原勝郎博士 (故人) は、大正の初めに出版した『東山時代に於ける一縉紳の生活』 で、この時代を日本文化のルネサンス (文芸復興) と呼んでいる。そしてそのルネサンスの中核をなすのが、源氏物語の普及と浸透にあるとする。西欧のルネサンスが、ボッカチオの 『デカメロン』 を以て始まったとされるのと好対照を成すものであろう。

 銀閣寺参道の下あたりから哲学の道を辿る。それは人工の匂いの濃い、公園風の道であった。観光のために作ったと説明板にも書いてある。4、50分の歩行距離であった。それは、疎水に沿った細長い公園で、わが住まいの近くにある玉川上水から野火止用水に続く道を連想させた。規模ははるかに小さいが。

 哲学の道の終点辺りに南禅寺がある。ここの三門は寺院の山門としては日本最大のものであろう。楼門の上の展望階に上った。石川五右衛門が、大きなキセルを手に、「絶景かな、絶景かな」 と叫んだとおりの絶景であった。これは歌舞伎の 「楼門五三桐」 さんもんごさんのきりの一場面である。史実によれば、豊臣秀吉は、逮捕された大泥棒の五右衛門を三条河原で釜茹でにしたという。当時から江戸時代にかけて、悪人に対する最高刑は、公開処刑の磔と曝し首を組み合わせたものであった。五右衛門はその上をいく特別刑で処刑されたのであった。もって五右衛門の大泥棒振りがわかろうというものである。

南禅寺三門 楼門五三桐の舞台

 歌舞伎の 「楼門五三桐」 は、今ではこの場面だけが上演される、ストーリーのないものである。 それは、歌舞伎の絢爛豪華な舞台を見せるだけのものになっている。もともとは楼門上の五右衛門と山門下の秀吉に擬せられた男との対決で筋が展開するという。さてこそ五三桐なのである。五三桐は豊臣家の紋所なのだ。三門下の立て札の説明によると、この三門は戦国武将藤堂高虎が、大阪冬の陣の戦死者を弔うために寄進したものである。建立されたのが寛永5年 (1628) であるから、五右衛門が刑死してから数十年後にできたのだ。五右衛門がこの楼上で見栄を切ることは出来ない。「楼門五三桐」 はすべてフィクションである。

 注.三門:寺側の説明によるといわゆる山門は正しくは三門。空門、無相門、無願門の三門で、仏教修業の三解脱をあらわすという。

三千院・寂光院

 娘たち一家が金閣寺や祇園、清水寺を見物する日、われわれ老人は洛北大原の、古刹三千院と寂光院を見た。観光客が殺到する観光目玉プレースを避けて、静かな平安の昔を味わいたいということであった。また、この2つの寺院はかねて私が見たいと思っていた場所でもある。

その日の往生極楽院 三千院
 三千院は伝教大師最澄が平安時代初期、比叡山に建てたものを明治維新後この地に移したという。京都駅からバスで1時間15分もかかった。数十年前、いまだ三千院が観光地として登場していない時代、私の一友人は、ここを訪れてその深い静寂に感嘆し、私に一見を勧めた。それ以来、私の心の中にあったが、ついに今日まで実現しなかった。大いに期待してきたのであったが、その期待は忽ち裏切られる。

 寺域の奥深くにある往生極楽院にお参りした。中で有名な阿弥陀三尊像を拝む。数十年前ここで友人はその閑雅静寂の雰囲気に大いに感激したのであったが、この度はそういうわけにいかない。三連休の中日に当たる今日は、観光客が次から次へと訪れ雑踏している。書院の周り縁に敷かれた緋毛氈の上で、抹茶を喫しながら庭園を拝観する。その間も間断なく観光客が入ってきて、ゆっくりお茶を飲んでいるわけにもいかない。次回は1月、2月の厳冬期のウイークデイに来ようと思いながらも、その機会があるはずもないと苦笑しつつ山門を後にする。


 三千院を後にして同じ大原の寂光院を訪れる。歩いて30分もかかったであろうか。ここは建礼門院徳子が平家滅亡の壇ノ浦から生還して余生を過ごしたお寺である。徳子は平清盛・時子夫妻の長女として生まれ、長じては高倉天皇の中宮となって安徳天皇を生む。女性として文字通り、位人臣を極めたのであった。寿永2年7月、平家一族が都落ちしてからは狭い船内で西海を放浪するという憂き目を見、あまつさえ壇ノ浦では源平両軍乱戦の中で入水をして果たさず、からくも生き長らえて、ここ寂光院の庵主として余生を送ったのである。彼女の生涯は平家物語の主題である諸行無常・盛者必衰を地でいくものであった。

再建後の寂光院本堂
 本堂の仏前は十畳位の畳敷きであったが、建礼門院が住んでいた当時は板の間だ。本堂は平成12年、放火によって全焼した。今の本堂は焼失前の建物を忠実に再現したものである。なかに建礼門院の30cmぐらいの高さの坐像があった。これも複製であるが彼女はふくよかな平安美人の姿をしている。

 建礼門院がここの庵主となってしばらくたった文治2年(1186)5月、時の権力者、後白河法皇が供奉の公卿・武者20数名を従えてここを訪れる。訪問の名目は壇ノ浦から生きて帰京した彼女を見舞うというものであったろう。一行は七条の法住寺御殿をまだ日の出ない早朝に牛車で出る。午後遅く鞍馬寺に着いてここで一泊、翌日早朝、江文峠を越えてお昼前後には寂光院に辿り着いたであろう。平家物語では、簡単に鞍馬通りの御幸で済ましているが、七条から大原までは日のあるうちにつける距離ではない。途中一泊は必要であっただろう。お忍びとはいえ牛車を連ねた仰々しい行列であったに違いない。

 建礼門院が義父である後白河法皇と会見したのは、居住区である書院の一室であった。書院は右の写真で本堂の右手にある。ここで彼女は、平家都落ち後の一部始終を法皇に語る。生きながらにして六道を見たという彼女の語りが、平家物語の 「小原御幸おはらごこう」 に詳述される。法皇も思わずもらい泣きする。時に法皇61歳、建礼門院31歳であった。法皇が2泊3日の手間ひまをかけて、はるばる大原の山奥にやってきた動機は何であったか。もちろん倅の嫁の不幸な境遇を慰めるためではない。建礼門院お付の女房、阿波の内侍が一刻も早く法皇を退散させようと腐心する有様を、何かの本で読んだ記憶がある。ここらに、動機詮索の鍵があるのではなかろうか。

 昭和初年ここを訪れた与謝野晶子に次の歌がある。 ほととぎす治承寿永の御国母 三十にして入りませる寺

旅行後遺症

 健康に不安のある私が、一週間も日頃の住居を離れて遠隔地に旅行するのはかなりの冒険であった。案の定、大阪から帰京した日に喉が痛く風邪の症状が出た。数日後には、2週間延期していた抗癌剤の大量点滴をした。風邪と抗癌剤の副作用とのダブルショックでついにダウン。体温は36.5度~36.7度と大したことはないが、身体がだるく積極的に何かやろうという気が起こらない。それにセキも痰もでる。水泳は10月10日以来今日までの24日の間1回しかやっていない。昨年4月、ここに引っ越して以来の痛恨事であった。水泳を再開したのは11月6日 。(平成20.11.6記)


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