父は平成21年8月15日午前3時22分、7年3ヶ月の長い長いがんとの闘いを終え、静かに息を引き取った。83歳だった。父は自分の病気と冷静に正面から向き合い、治療方法などを医師任せにするのではなく、研究した上で知識をつけ自分でも納得できる形で日々を送ってきた。私の昭和史の補遺その二、わが病歴でインターネット上でも公開を続けてきたわけだが、大学ノートに日記としても残している。
養生日記と名づけられたこのノートは5冊に及ぶ。養生日記のほかに入院中は入院日記として毎日の自分の病院での様子を記している。
これらの大学ノート以外に父がサラリーマン時代からずっと続けていたビジネス手帳27冊(1982年より2009年まで)が父の机の引き出しの中からでてきた。これらの日記類と看護に訪れてくれた看護師さんのレポート、父と交換したイーメールなどを元に父の最期の1ヶ月を書き残し、父の「わが病歴」を完成させたい。
娘の私は6月に父を見舞うためオーストラリアから帰国した。7月に入ってから8月にも日本に来ることにした。14日を選んだ理由はただひとつ、航空運賃が異常に安かったからだ。8月に帰ったら、今度は10月に来ようなどと思っていた。
父とは常にメールで連絡を取り合っていたが、14日に自宅にたどり着くまで、私は父がこんなに悪いということを知らなかった。長年のがんとの闘いですっかり鈍感になってしまい、父は不死身だと信じ込んでいたのだ。私自身の後悔と反省そして自責の念を胸にひめこれを完成させたい。お父さんごめんね。
7月6日(月)
船橋中央病院での抗癌治療をやめ、自宅近くの立川在宅ケアクリニックの訪問看護の緩和ケアを受けることを決める。希望していた自宅での臨終が現実的なものとなる。
7月13日(月)
週二回の看護師による自宅訪問も始まる。むくんだ足のマッサージなどを受ける。
7月15日(水)
母に続き、父も介護保険申請をする。新しい液晶テレビ購入。
7月22日(水)
前日に私が出した帰国予定(8月14日から18日まで4泊)を伝えるメールに返事をくれる。
「ちょっと頻繁すぎると思うが、もう決めたものは仕方がない。有効に過ごしてください。新しい立川在宅ケアクリニックの院長先生を紹介するので私の病状について、納得するまで聞いてください。父より」
※私のオーストラリアでの仕事に支障が出るのではと心配するいつもの父の対応である。父自身目前に死が迫っているとは思っていないようだ。しかしこの日を境に強い倦怠感を覚えるようになり、次第に悪化、体調が急激に下降線をたどっていったのがすべての資料からうかがえる。
7月24日(金)
黄疸が出てくる。
7月27日(月)
母の介護に関するメールが届く。このころの私たちの間の話題は、なんと言っても母の認知症の事だった。しかし、自分の病状についても書いている。
「3.私の病状:この1週間ぐらい、急激に倦怠感がひどくなった。医者は、黄疸が出てきたという。いよいよ最終局面に入りつつあるということが、自己診断でもわかるようになった。大きな症状は、倦怠感と食欲不振である。」
看護師に今後状態が悪化したときにどうしたいか聞かれ、在宅でがんばりたいと伝える。
7月28日(火)
朝、母の治療で東大和病院に出かける。
ホームページに『自分の寿命はあと1ヶ月と確信』と書き込む。
※この頃ずっと休んでいたスポーツクラブに退会届を出す。去年までは毎日1500メートル泳ぐのが日課だった。何ヶ月も泳いでいなかったようだが、いつか少しでも良くなったらもう一度泳ぎたいという希望を持ってあえて休んでいたのだ。無念の退会だったに違いない。
7月29日(水)
母と2人で立川にバスで行き、映画『ディアドクター』を見る。日記に疲労甚だし、2時間はつらかったと書く。
7月30日(木)
父から最後の長いメールが届く。内容は、私への返事として、やはり母のこと、そして自分自身については、1ヵ月後には死亡という想定をしている。
「私自身、死は初体験なので、家族に正確な死期を告げられないのが残念である。しかし、死の直前まで元気がいいのが癌死の特徴であるというが1ヵ月後には死ぬと予想することは難しい。この1週間ぐらいの深い倦怠感は、初体験であり、あるいはこれが命取りになるのではないかとの思いはある。」
※8月に入ると日記の書き込みが極端に減っている。体調不良とか大いにだるいとかの短い言葉のみ。娘の私は、未だに父の現状についてまったく認識できていない。未だに父に母の看護に関しての相談や提案をし続けている。
私は8月1日(土)に減塩食事療法や足を上げて眠ることを薦めるメールを送る。まったくかみ合っていないことにぜんぜん気づいていない。すぐに、なるべく辛いものを避けた食事をしようと返事が来た。これが長年メル友だった父から来た最後のメールになった。
8月3日(月)
看護師に話す。
「あと余命はどのくらいですか?」、「葬儀の手配とかしなくちゃ...」、「8/14に娘が帰ってくるから、そのとき臨終になれば...」
8月4日(火)
ホームページに最後の書き込み。
「あと一週間か10日が山場か。」
8月5日(水)
午前中郵便局と銀行に行く。
「帰宅後疲労甚だし」。
これが父の養生日記最後の書き込みとなった。
8月6日(木)
※私は父に、自分のホームページで私の帰国にあわせて死期を設定していることを強く批判する長いメールを送った。あたっていないばかりか周りが困惑するだけだと書いてしまった。返事はくれなかった。
看護師に言う。
「死ぬことは怖くない。ただ苦しみたくないだけです。」
8月7日(金)
ITサークルの方たちのメールに体調不良で返事ができず残念!と言う最後の短いメールを送る。パソコンの先生にも最後のメールをこの日に送る。父亡き後のパソコンの処分について心配する内容のものだった。
※父からメールが来なくなった。病状を心配するよりも6日に私が送ったメールの内容がひどすぎた、それを反省していた。病気の父を怒らせてしまった。何とかしなければいけない。
9日に許しを請う気持ちをこめて短い暖かいメールを送ってみた。返事は来なかった。父は怒っていて許してくれないのだと思うと悲しくなった。鈍感な娘は、未だに父が死につつあることを気づいてはいないのだ。何ということだ!あきれてものが言えないとはこのことだ。
8月9日(日)
兵学校の同期の是枝さんに電話をかける。体調悪く読む気になれないので定期購読していた雑誌の講読をやめると言うものだった。
(「江鷹会の談話室」に是枝さんのコメント
)
8月10日(月)
看護師にいう。
「先週より悪いようです。」、「外出していたころが遠い昔のことのようだ。今の状態からは信じられない。」、「死は怖くない。みんなになるべく迷惑をかけたくないと思っている。」
※養生日記を書かなくなった父は、予定表として使っていたビジネス手帳に医者と看護師の名前と訪問してくれた時間を書き込んでいた。最期の書き込みは8月10日(月)(看護師さんの名前)、8月11日(火)(先生の名前)、名前だけだ。前の週まで書いていた訪問してくれた時間すら書けなくなったようだ。
8月11日(火)
看護師さんが夜私の兄に電話をくれる。私の帰国を早めることができないかと言う内容だった。2日前の日曜日に父を見舞っていた兄も信じられないと言う。私にいたっては、えっまさか!あさってには出発だ。早めることは不可能だし、そんなに悪いはずはない。未だに現実を受け入れられない私はもう救いようがない。
8月12日(水)
朝、母に付き添われてマンション前にある床屋へ出かける。
外に出ると上を見上げて深呼吸をし、「ああ、気持ちがいい」、そして、「これが最後の外出だ」と母に言ったそうだ。
広島県三原市に住む忠海中学時代からの友人に電話をかける。
「俺はもうだめだけど、お前は長く生きろ」。
※友人は、父の中学の同級生で現在は医師であり、死ぬ直前まで本当に頻繁に手紙やはがきの交換を続けていた。父にとってはまさに親友といった存在だったと思われる。
この日から洗面器に嘔吐を繰り返すようになる。水を含め何も口にしなくなる。
8月13日(木)
看護師さんにいう。
「娘と会えたら死なせてください。」
8月14日(金)
朝たずねてくれた看護師さんにいう。
「娘が来るまではがんばらなくては」、「家での看護の環境はとても心が温まるいいものです。」
私は、お昼前の11時半ごろ到着した。第一声は 「来たか、顔みせー、梨食べろ、オーストラリアでは食べられない美味しい梨がある、麦茶飲め」だった。
父は本当に小さくなって嘔吐を繰り返し、壮絶な戦いを繰り広げていたが、頭だけはしっかりしており、私の手を握りながら、すごくいっぱい話をしてくれた。話をするのはつらそうだった。
ゆっくりしぼり出すような話し方だ。ゆっくりと、はっきりと、話そうとして怒っているように聞こえるが怒っているわけではないと何回も言われた。
夕方になって言いたいことは全部いった、と私にいう。夜、お医者さんに、吐き気と痛みをとってください、楽にしてくださいと自分でお願いし、その後6時間ほど頑張ってくれたが眠りの中で自然と呼吸が止まった。父の83年の人生は終わった。
水も飲めない、食事も取れない、栄養点滴は?という私の質問に医師は「そんな段階ではない、今生きているのが不思議だ、奇跡だ、気力だけで生きている、あなたが来るのだけを待っていた、ここ2週間はずっと医者の間ではもう間に合わないのではないかと、それだけが心配だった、間に合ったのは奇跡だ、ずっとそばにいてあげなさい」と言われる。
父は、まだ意識があるとき、私のメールは冷たいと言った。ショックだった。頻繁にメールの交換をしながらこんな許されない判断ミスをしていたこと、自分自身を許せない。2週間前に死んでいてもおかしくなかったということだ。最後の日々は、私が来るのだけを待っていたのだ。こんなに冷たいメールを送る娘なのに、こんなに私の到着を心待ちにしてくれていたのかと思うと、涙が止まらなかった。こんなことになっているのなら、もっとやさしくしてあげればよかったと本当に後悔している。
父の最期の1ヶ月は、自分で選択した自宅での死を実現することを目標にがんばったのだと思う。そんな父を訪問のお医者さんや看護師さんが暖かく介護してくださり、そのことに父は本当に感謝していた。喜んでいた。私があげられなかった優しい心、思いやりを先生や看護師さんからいただいていたことは、私にとっては本当に救いになっている。
戦いが終わった今、私は父の83年の人生、長かったがんとの闘い、最期の自宅での一ヶ月、父の人生のすべてを祝福して、「父の養生日記―最期の一ヶ月の記録」を父とお世話になった皆様に贈りたいと思います。ありがとうございました。
お父さん、ちょっと遅くなっちゃったけど、約束どおりお父さんの望んでいた「わが病歴」を完成させたよ!
ひろ子 (2009.9.4)