ひろ子の世界一周旅行
横浜出発
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ハバロフスク号船上にて 於横浜港
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わが娘ひろ子は、昭和60年(1985)6月25日、ソ連貨客船ハバロフスク号で横浜を発ち、約2年半にわたる世界一周一人旅に出掛けた。妻と、ひろ子の仕事仲間や友人数名が横浜の大桟橋で出発を見送った。当日は、神田正輝と松田聖子の結婚式がテレビで中継される。この大イベントに、若者は大騒ぎをしていた。それを見ないで出かけなければならないのは残念だった由。ひろ子はこのとき27歳であった。
船出の音楽は 「蛍の光」 とばかり思っていたが、
「ブルーライトヨコハマ」が鳴り出したのには驚いた。
右の写真は、ハバロフスク号のデッキに立つ娘である。この格好で背中にリュックサックを背負えば、それが普段の旅装である。リュックサックといっても布製の、背中にちんまり収まる格好のいいものではない。アルミ枠で、高さは背丈の半分もあろうかという頑丈なものである。中には、夏冬の衣類、下着、非常食、水筒、参考書類、辞書、筆記用具、洗剤その他貧乏旅行者の生活必需品のすべてが詰め込まれている。重さにして約16キロはある。ヨーロッパで出会う白人男性は皆親切である。列車内や駅で、これを背負おうとすると、すぐに寄ってきて、手伝ってくれる。両手でこれを抱えると、思わずよろめいてたじろぐほどの重さであったという。
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見送り1 左から私、母、藤巻さん、谷口さん、小島さん
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見送り2 テープ
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本船は横浜を出ると津軽海峡を日本海に抜け、北上してナホトカ港に着いた。到着は6月28日夕方であった。このところの数日は旅行準備の忙しさに、いささか体調を崩していたが、航海中にほぼ回復した。ナホトカ埠頭の引っ込み線に待機するシベリア鉄道の車輌に乗り込み、いよいよユーラシア大陸横断の一歩を踏み出した。娘はこの後、ユーラシア、アフリカ、北米、南米、オーストラリアの五大陸を、この順番に回り、50カ国を遍歴した。帰国したのは昭和62年(1987)12月2日であった。
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クライストチャーチにて ニュージーランド南島
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背景はユースホステル
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左の写真は、娘が横浜を出てから2年あまりたった1987年の8月、ニュージーランド南島では最大の都市クライストチャーチで写したものである。このとき娘は、紺色の布製のリュックサックに埃よけの白い袋をかぶせたものを背負い、水色のデイパックを首にかけて胸に抱えている。これが娘の旅装で、このなかに旅行中の生活必需品一切が詰まっている。背中のリュックサックは重量16、7キロはある。横浜出発時には布製ではなく、アルミフレームのリュックであった。アルミフレームのリュックは駅や空港のコインロッカーに入りにくいので、ニューヨークで買い換えたという。胸に抱えたデイパックはというと、ボリビアの首都ラパスで満員のバスの中でナイフで切られ、それを針と糸で修理して使ってきたものである。幸い何も盗られなかった。ともかく娘はこういう格好で、2年半の長きにわたって、世界中をうろついたのであった。
いきさつ
私の反対:
そもそも娘が世界一周旅行を父親である私に打ち明けたのは、このときから1ヶ月ぐらいも以前であったろうか。私は即座に反対した。反対の理由は、結婚前の若い女が、ひとりで、危険な外国を放浪することに対する危惧であった。仮に生命身体に対する危険がないにしても、自由と放縦を履き違えた自堕落な生活習慣を身に着けて帰国することに、親として我慢がならなかった。そんな娘を、嫁に貰い手はないというのも私が反対した大きな理由であった。
娘はというと、世界一周旅行は昨日や今日、気まぐれに決めたことではない。学生時代からの念願で、そのために、語学の講習とか費用の貯金とか、旅行計画とか、準備も万端、遺漏なく整えた。今更中止することはできない。旅行の結果、だらしない人間になるかどうかは自分自身の問題だ。お父さんは、今まで私を育ててきながら、そんなことで、わが娘を信用できないのか。親には一切迷惑を掛けない。どんなに反対されても行く、と強硬である。
旅行準備:
娘は世界一周旅行の準備のため、すでに高校時代から遠大な計画を立てていた。喫茶店でアルバイトをしながら資金をためて、先ず手始めに国内旅行から始める。北は北海道から南は西表島あたりまで、主な観光地をひとりで経巡った。大学時代の4年間には、外国に足を延ばし、ヨーロッパ40日間、アメリカ・メキシコ40日間の旅を経験した。
大学を卒業して就職したのは航空代理店である。ここでは旅行とは何の関係もない部門で働いていたが、休暇をとって韓国や香港には何度も行った。世界一周旅行にはスペイン語が必須の知識であると知って、慶応外語学校の夜間コースにも通った。安い航空券を手に入れて南米のペルーにも行き、スペイン語に磨きをかけた。世界一周旅行に出発する頃には、英語よりもスペイン語が得意になっていた。これらの一連の経験で度胸がつき、世界一周旅行への執念は不動のものとなった。
世界一周旅行の資金をためるため、財形貯蓄に励んだ。当時の金利は8%程度であったので、資金形成には都合がよかった。それでも、月給の半分以上を貯蓄に当てた。会社勤めの5年間で300万円ぐらい貯まった。資金の目処がついたので会社を辞めて、旅行準備に入った。
トーマスクック:
娘の整えた旅行準備は、行き先国のビザの取得とか、旅行資金の準備などが主なものである。彼女は20万円ほどの現金を、トーマスクックのトラベラーズ・チェックで、これから行く ヨーロッパ諸国のチェックに替えた。残額の数十万円は AMEX のクレジットカードにした。当座の現金とチェック以外の貴重品は、特製の腹巻に入れて身に着けた。約200万円は日本の銀行の貯金口座に残した。手持ちの資金がつきたら、所在の銀行気付で送金してもらう段取りにした。現金を携行すれば盗難や紛失のリスクがある。多額の現金は携行せず、トラベラーズ・チェック にするのが、当時の海外旅行の常道であった。しかし、出発のときに、1ドルが250 円程度であった為替相場は、帰国時には120円台の円高になっていた。娘はこのため数十万円を損したことになる。為替相場は素人の予測を超えて変動する。旅行計画と為替有利の時期をマッチさせることは不可能である。運が悪かったというほかはない。トーマスクックといえば、この会社の発行する鉄道時刻表は、個人の世界一周旅行の必携品である。
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ユーレイルパス(1ヶ月)
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ユーレイルパス:
旅行準備のもう一つは、ユーレイルパスの購入である。ユーレイルパスとは、欧州18カ国の鉄道の定期乗車券というべきものである。このパスは外国人専用である。外国人に欧州域内の鉄道利用の便宜を図って、観光旅行者をよびこむ手段なのである。購入後半年以内に使用を開始せねばならない。使用開始からの有効期間は3ヶ月、1ヶ月の2種類がある。娘はソ連を出た後の1ヶ月の間、この1ヶ月パスを使って移動する。移動範囲は北欧3ヶ国、デンマーク、ベルギー、西ドイツから東ドイツに到るまでである。価額は97,110円。1ヶ月かけて、これら諸国を回った後は、アフリカに渡る計画である。アフリカからヨーロッパにかえって、西ヨーロッパをすべて回り、ロンドンまでの移動に3ヶ月パスを使う。価額は161,010円であった。英国はユーレイルパスに加盟していないのだ。これらのユーレイルパスは日本で調達した。右の写真は娘が使用した1ヶ月パスである。
ヨーロッパ鉄道の一等車:
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一等車 北欧 1985年7月
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娘はユーレイルパスの1等を買った。個人の貧乏旅行だから、一流ホテルに泊まることはできない。主として各地のユースホステルがねぐらとなる。せめて移動中だけでもゆったりとして身体を休めたいというのが、1等を買った理由という。欧州移動中の列車内のコンパートメントで、怖そうなおばさんから、ここは1等だと、しばしば注意をされたという。若くて貧しそうな学生が、2等と1等を間違えて乗っていると思うのである。参考までにこの定期券の現在の価額は、1等3ヶ月で約23万円、2等約15万円である。
シベリア鉄道
この項から以降、「あとがき」 までは、ひろ子の旅行記と思い出話の聞き書きである。このホームページを見てくださる方々の便宜のため、ところどころに編集者たる私 (ひろ子の父親) の注を入れた。
モスパック:
モスパックは日ソツーリストビューローのパッケージツアーである。モスクワまでの片道,10泊11日のツアーである。横浜からモスクワまでの交通費、食事、宿泊費、観光費をすべて含んで153,000円であった。モスクワ観光が終わって、ツアーが解散すると、参加者は各自の計画に従って旅行を継続していく。この度は12人の団体だった。米国人2人以外は日本人であった。
出会いと再会:
ツアーの旅行中、大学生の女の子、吉田さんととても仲良しになって行動をともにした。彼女は両親が滞在するドイツのマンハイムに行く途中であった。ツアーが解散して一人旅になった8月中旬、私は吉田さんを訪ねてマンハイムに行った。大野君とは約1年後、スペインはマドリッドのプラド美術館でばったり会った。こういうような再会を、私は何回も体験した。大陸を跨いで再会したり、感動の再会などいろいろあった。一番ビックリしたのは、ハーバード大学の学生クリスとの再会であった。1986年11月のはじめ、メキシコの僻村コミタンの美術館で、はじめてクリスに会った。日本語のできるクリスはグアテマラから戻ってきたばかりであった。これからグアテマラに入ろうとしていた私は、彼から最新のグアテマラ情報をもらった。30分も話したであろうか。当日の日記にクリスと会ったと一行だけ書いてある。
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チチカカ湖とクスコを結ぶ高山鉄道
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翌年の6月、南米ボリビアのチチカカ湖から、ペルーのインカ帝国の古都クスコに向かう高山鉄道の中にクリスがいた。私はすっかり忘れていて白人の男性が乗っていると思っただけだったが、クリスは思い出したのだ。彼は、日記を取り出して私の名前を確認してから、私に話しかけてきた。「ひろ子!」と呼びかけられて私もはっと思い出した。あまりに思いがけなくて2人とも大感動であった。あの時私はペルー人の女性2人と旅をしていた。後に、アメリカから休暇を利用してクスコに来たクリスのガールフレンドも加わって、みんなで食事をしたり、インカトレイル(インカ道)をトレッキングしたり、本当に楽しい時を過ごした。下の写真の背景に二等辺三角形の形で聳えるワイナピチュ山の頂上には、このときを含めて前後3回登った。頂上に立って麓に拡がるマチュピチュ遺跡を眺める写真は、後半の 「南米」 → 「プーノ/クスコ間高山鉄道」 の項に載せた。
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背景はマチュピチュ遺跡とワイナピチュ山
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ナホトカ:
ハバロフスク号は横浜を出て3日目の夕方ナホトカに着いた。ナホトカでは入国・税関の手続きがあったはずだがおぼえていない。歩いてナホトカ駅まで行き、ハバロフスク行きの列車に乗った。ナホトカの記憶はモノクロである。カラーがなく、殺風景な印象であった。(注:このときから40年も前の昭和22年秋、私は賠償艦艇をソ連に引渡すため、戦時中の輸送艦の航海士として、ここナホトカに来た。埠頭から眺めるナホトカ風景は、小高い丘の中腹の諸所に、粗末な建物の点在する殺伐たるものであった。それも道理、ここはソ連の辺境である。40年たっても目に見える変化が少ないのだ)。
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現在のナホトカ港
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ナホトカーハバロフスクーイルクーツク:
列車内で一泊して翌日の午後、ハバロフスク駅でシベリア鉄道のロシア号に乗り換えた。シベリア鉄道はウラジオストックからモスクワまでの9,259キロを走る鉄道である。車外の風景は北海道のように広い。空が大きい。沿道の建物は北海道と違う。白樺林が果てしなく広がっている。少女時代から長い間、シベリア鉄道に憧れ続けてきた。いま自分はその列車に乗って、シベリア原野の真っ只中にいると思うと、感動した。
列車内で2泊して、イルクーツクに着く前、バイカル湖が見えた。全長630キロ、幅80キロ、水深1,637メートル。面積にして琵琶湖の47倍もある、世界最深の湖だ。海のように広い。イルクーツクには2泊したので、二日目にバイカル湖に行く。思い出のバイカル湖には、やはり色がない。白黒である。静かな澄んだ水だった。この湖は透明度に於いても世界一を誇っている。イルクーツクは夜10時を過ぎて、やっと暗くなり始める。
イルクーツクの印象。厳しいシベリアというイメージにもかかわらず、人々の生活は良くも悪くもない感じである。街中には緑が多い。公園も多い。車やバスで街路が混雑するということもない。本当にのどかである。バイカル湖から流れ出るアンガラ川も街の風景をのどかにしている。ソ連はきっと何処もそうなのだろうが、店は極端に少ない。物が氾濫している日本から来ると、実に質素。でも貧しさは感じない。
イルクーツクーモスクワ:
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バイカル号の機関車 途中駅にて 右ひろ子
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ウクライナホテル モスクワ
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今度の列車は、イルクーツク発モスクワ行きのバイカル号である。列車が綺麗になった。西に行くほど風景や駅も開けていく。ヨーロッパに向かっている感じがする。大平原を列車は走る。いつまでも何処までも緑ばかりで果てしなく広い。なにしろ,ナホトカとモスクワの間の時差は7時間もある。列車は2、3時間おきに街に入り、数分停まる。駅も街もだんだん大きくなる。ヨーロッパロシアに入ると大農場が続く。家もいっぱいある。住宅も見かける。駅の近くには大きな工場があって、煙突から煙が出ている。イルクーツクから4泊5日の列車内生活。モスクワに着いたのは7月3日であった。ホテルは、歴史を感じさせる壮大な
ウクライナホテルであった。でもお湯が出ない。列車中はシャワーもないわけで、水のシャワーで我慢する。
モスクワの印象。市民の憩いの大都市に見える。シベリアから来ると、何もかも活気づいて見える。ヨーロッパの歴史の重みの中で、美しく発展してきた感じで、すごく、明るく良い印象を受けた。優雅ささえ感じる。モスクワの地に立ってみて、ソ連のイメージがずいぶんと変わってしまった。クレムリン、赤の広場、これって、テレビでしか見られない世界だよ。自分が赤の広場に立っているなんて信じられない。日没は10時。
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モスクワ地下鉄のエスカレーター
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自由行動もできた。ツアーで友達になった吉田さんと地下鉄に乗って革命広場に行く。高速エスカレーターに乗って、地下の奥深く 降りていく のはすごい迫力。映画でしか見たことのない世界だ。地下鉄構内も、大理石、シャンデリア、フレスコ画、彫刻などで飾られ、とても美しい。モスクワの地下鉄は、そのものが芸術だ。すばらしい。雨の中、1時間ぐらい行列してレーニン廟に入る。寒いのでポケットに手を入れていたら、蝋人形のように動かない兵隊に腕を叩かれた。レーニンが黄色い明かりで浮かび上がっている。横たわるレーニンの周りを一周した。クレムリンと赤の広場をはさんで反対側にあるグム国営デパートにも行った。アーケードの素敵なデパート。美しい。衣料品の高さが目に付く。
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グムデパート 19世紀末に建造された
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レニングラード ー ソ連出国:
モスクワに2泊して観光も終わり、7月5日、ツアーは解散した。夜行でレニングラードへ。レニングラードで2泊。市内をひとりで歩き回った。エルミタージュ美術館、大聖堂、運河の遊覧船にも乗った。どんどんヨーロッパに近づいているのを感じた。7月8日午前11時、レニングラードのフィンランド駅発の列車でヘルシンキに向かった。駅で日本人の団体に会った。モスクワ・レニングラード・北欧14日間の旅の途中だそうだ。列車内のコンパートメントでも一緒になり、お弁当やおにぎりを貰った。皆さんから激励されて、とても嬉しかった。ヘルシンキの駅で別れた。ヘルシンキには夕方5時着。
ソ連ではすべてインツーリスト (外国人用ツーリストビューロー) が面倒をみてくれたので、何の心配もなかった。お金の支払い、食べ物、観光などの心配もなく、重い荷物も運んでくれることが多かった。ソ連の人と直接触れ合うチャンスはあまりなかった。言葉を覚える必要もなかった。モスクワのガイドの女の子は日本語ができた。日本を離れて2週間、楽をして、楽しむだけ楽しんだといえる。これからは本当の一人旅だから大変だぞと、期待と不安の交じり合った気持ちでソ連を後にした。
ソ連出国は列車のコンパートメントに座ったまま行われる。ソ連の最後の駅でしばらく止まり、役人が乗り込んでくる。私は団体さんのそばにいたおかげで簡単に済んだが、同室のアメリカ人青年2人の検査は厳しく大変そうだった。亡命者がいないかどうか列車内を徹底的に調べていたのにも驚いた。出国手続きが終わるとソ連の役人は列車を降り、列車は再び走り出す。フィンランドの最初の駅で止まるとフィンランドの役人が乗り込んできて入国となる。ヨーロッパ列車の旅の出国、入国は大体こんな感じだった。
北欧3国
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北欧3国鉄道旅行の軌跡
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北極圏の白夜
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1985年7月8日、ソ連のレニングラードから列車でフィンランドの首都ヘルシンキに着いた。2日間市内見学。列車で北行して7月12日、フィンランド北部の北極圏ケミハルビ(Kemijarvi)に泊まる。
昨夜の夜行列車のなかから白夜を見た。今までは何処でも、暗くなるのは遅くても、夜になると必ず太陽は沈んだ。昨夜は違う。夜中の3時ごろ目覚めたとき、真っ赤な太陽とその周りの白いもや、全体が白い空をこの目で見て、その幻想的な様子に打たれた。本当の白夜は時期的に遅すぎるとあきらめていたが、間に合って嬉しい。”白夜”、”ミッドナイトサン”は素晴らしい。
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白夜・真夜中の太陽 フィンランド
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フィヨルド見物 ノルウェー
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物価高と重い荷物:
北欧の思い出は物価高と重い荷物に尽きる。じっとしていればよかったシベリア鉄道のたびを終え、重い荷物をしょったままひとりで放り出された。一人旅が始まったのだ。バックパックで歩き続けるのが本当に辛かった。先ず、日本で買った新しい靴が足に馴染まず、すぐに買い換えた。日記には荷物を少しでも減らさないと、と何回も書いている。そして、あれは幾ら、これは幾ら、高すぎる、使い過ぎた、仕方ないとかのオンパレード・・・・。この点では、早く北欧を出ないといけないという焦りが、日記から窺える。
日記からもう一つ窺えることは、疲れすぎないことに異様な注意を払っていることだ。夜何時間寝たとか、夜行列車でちゃんと寝たとか、移動中に、景色を見ずに寝たとか、何処かの芝生で何時間寝たとか、そういうことが詳しく書かれている。また、何を何処で食べて、それが幾らだったか、そういうことも詳しい。もちろん、景色がどうだったかということも書いてあるが、日記の中心は、どうやってホテルを見つけたか、食事、睡眠、そして天気など、そういう生活に関する記述が70パーセントぐらいを占めている。
ベルゲン(Bergen)鉄道:
日記に景色のことはあまり書かないといったがたまには書いている。旅に出て丁度1ヶ月たった。7月22日はノルウェーの首都オスロ泊。今朝、8時52分にヴォス(Voss)を出て、オスロに着いたのは午後2時5分。5時間半のベルゲン鉄道のたびであった。ベルゲンへの往路は夜行列車だったので何も見えなかった。帰りは昼間の列車にしてよかった。素晴らしい景色の連続なのだ。一番高いところは海抜1300メートルの高地である。寒々とした山景色だ。平地に降りると線路の両側に、バラエティーに富んだ美しい景色が果てしなく続く。ノルウェーの鉄道の中でも特に有名な風光明媚の線ということであった(下の写真は『旅の車窓から(鉄道ファンの海外旅行)』から借用した)。
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ベルゲン鉄道 車窓に迫る氷河 ヴォス/オスロ間
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朝のヴォスも神秘的で美しかった。湖は山の下の方まで雲がかかって、首都オスロからたった5時間半のところにこんな安らげる場所があるなんて、今では夢のよう。列車はまた空いている。一等車で優雅に座って過ごす。なんと、コーヒー、オレンジジュース、ハムチーズサンドイッチが出てくるではないか。しめて31クローネ(約800円)はするはずだ。切符に含まれたサービスの由。ユーレイルパスで一等に乗って凄く得した気分。こんなサービスははじめての経験であった。
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ヴォスの景観 ノルウェー
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入国ビザの取得 於ストックホルム:
スウェーデンの首都ストックホルムでは、これから行くポーランドとチェコのビザ取りに挑戦した。7月25日先ず、72時間有効のツーリスト・カード(市内交通無料)を買い、地下鉄路線地図を頼りに両国大使館を目指す。
最初にポーランド大使館に行ったが、門は閉ざされている。Reception(受付)のブザーを押して、ビザを取りに来たと告げる。マイクロフォンからはわけのわからない長い返事。 ”I don't understand." と答える。中から、わざわざ女の人が出てきて、ビザは隣の領事館で発行し、今日は休み、明日来るよう指示された。折角意気込んできたのに今日は駄目で、また収穫のない一日になるのかとがっかりしながらチェコ大使館に向かう。
チェコ大使館ではすんなりいった。自分で申請書にタイプし、写真2枚、パスポートを提出すると15分ぐらいでビザを発行してくれた。手数料は160クローネ、5千円弱、高い。滞在期間1週間と書き込んだら7日のビザであった。隣に30DMと書いてある。強制両替のことだと思う。約10ドルに当たる。今日から3ヶ月有効。明日はポーランドのビザを頑張って取得しよう。でも一つうまくいってよかった。自分で大使館へ行ってビザ申請をするのは初めての経験なので、一つ新しい関門を突破した気分。
列車のたび ストックホルム(スウェーデン)/コペンハーゲン(デンマーク):
7月27日、今コペンハーゲンにいる。午後8時半。今朝、駅でパリ行きの座席が手に入り一安心。それから、郵便を出したり、列車内での食糧を仕入れたりと結構忙しかった。午前中だけで20米ドルがなくなった。もう節約が不可能になっている。少し考え直さなければ。
ストックホルムからコペンハーゲンまでは一等のたび。でもはじめて、コンパートメントが6人で埋まっていた。半分ぐらい寝て過ごした。スウェーデンとデンマークは陸続きではなく、列車がそのままフェリーの中に入っていき、約30分海を渡る。乗換えとかパスポート検査とか面倒なことは一切なく、とても楽だった。やっと物価の高いスカンジナビアから出ることができてほっとしている。
夜行列車パリ行き:
コペンハーゲンから17時間半かかって、やっとパリについた。昨日の午前11時にストックホルムを発って、コペンハーゲンで乗換え、長い長いたびだった。疲れた。列車の中では横になってゆっくり寝たが、2時間ぐらいおきに切符のチェックで起された。パスポート検査も途中2回あり、落ち着いて寝ることは出来なかった。それでも00:30から09:30までは寝た。大陸の中に入って、列車から見える風景も随分変わった。山や丘がすごく近くなり、風景が小さくなったような気がする。北欧やシベリアでずっと見てきた木造りの可愛いおうちがなくなり、煉瓦やセメントの家ばかり。屋根の形とかまるで童話の世界みたい。列車内で何もしないでゆっくり休んで、パリについてからのために十分備えたつもりだったが、7月28日(日)14:34、パリ北駅についてからが本当に大変だった。
西ヨーロッパ
パリ:
先ず両替しようと思ったが、今日は日曜日なので駅内の両替所は行列。いやになってやめる。ストックホルムで替えた200フランでやることにする。今度は観光案内所に並び、ホテルを探してもらう。予算を言ったら Youth Accomodation に行けという。その場所がなかなか見つからず、街に出ようとしたら,駅の端っこに行列を発見。このホテルを紹介してもらう。駅から10分といわれ地図を持って歩き始める。途中迷い、20分以上歩いてやっとホテルに辿り着く。列車が駅に着いてからなんと一時間半もリュックを背負って歩き続けたのだ。もう限界。思えば、ユースホステル以外で全くひとりでホテルを見つけるのは初めての経験。それに、パリというあまり気の抜けない都市だけに緊張のしっぱなしであった。ホテルに着いたらもうぐったり。41号室、日本でいえば5階にあたり、狭い階段をリュックを背負い最後の気力を振り絞って部屋に到着。疲れた。
ホテルは古い住宅街の一角。古い建物。一つ星でシングル朝食つきで89フラン(約2,300円)。部屋は狭いけれど、見通しのよくない窓、流し台、鏡、ビデ、机と椅子、箪笥、ふかふかベッドと一応すべて揃っている清潔な部屋だ。トイレは共同、シャワーは別料金で12フラン、お湯も一杯出るし、すごくさっぱりした。洗濯をし、窓を一杯開けて干す。パリは北欧よりもずっと暖かいし、洗濯物も一日で乾きそうだし嬉しい。部屋には備え付けのタオルも付いていた。お湯をもらい、コーヒーを飲みながら日記を書く。夜の9時半、やっと暗くなり始めた。
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パリ 背景のドームはオペラ座
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アイルランド:
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イギリス・アイルランド・北仏要図
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(この図は帝国書院 「エッセンシャルアトラス」 から借用した)
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パリは一泊したのみ。またいつか来るつもりなので何も見ずに、次の日のお昼、再び列車に乗ってルアーブルに向かう。次の目的地アイルランドに行くためだ。ルアーブルから夜行のフェリーに乗って、アイルランドのロスレアーについたのは7月30日の夕方だった。ロスレアーは、右の地図の「セントジョージズ海峡」 の 「海」 という文字の上の引っ込んだところ辺りにある。ここから、アイルランドの東海岸を北上しながら、首都ダブリン、北アイルランドのベルファーストそれから北岸のロンドンデリーを見て南下する。
映画 「ライアンの娘」で焼きついている最果ての風景を見てみたかった。8月というのにアイルランドは風が強く寒かった。
アイルランドは北海道をちょっと小ぶりにした広さの独立国である。現在の人口は約360万人。第二次世界大戦中は連合国、枢軸国のいずれにも加担しない中立国であった。それなのに北アイルランドの6州は英国領である。英国領を可とするユニオニストと統一アイルランドを熱望するナショナリストが熾烈な争いを展開していた。1984年にはIRA(Irish Republican Army) によるサッチャー英國首相暗殺未遂事件があり、1980年代後半は国中が不穏な情勢下にあった。ベルファーストは当時の争いの中心地であるだけに、滞在中とても緊張した。
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ツアーの途中キラニーにて
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リメリック、キラニー、キンセールと旅をした。美しい風景を見るために3回ほど観光バスにも乗った。映画の舞台になったディングル半島にも行った。ディングル半島は上の地図で見るとリメリックのちょっと南、大西洋に突出した小指の先ほどの小さな突起である。コークから北フランスに戻る。コークはセントジョージズ海峡に面する海港である。アイルランド一周の10日間のたびであった。
フランスを後に:
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サンマローの海岸通り
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コークから夜行フェリーでルアーブルに着く。ルアーブルからは列車でモン・サン・ミッシェルを見に行く。モン・サン・ミッシェルは上の地図でノルマンディーという文字の頭よりの湾入にある。その上方、コタンタン半島には良港,シェルブールがある。第二次大戦の末期、連合軍の上陸作戦が行われたのはこのあたり一帯の海岸である。シェルブールは
映画 「シェルブールの雨傘」の舞台である。モン・サン・ミッシェルのすぐ西にはサンマローがある。この町のコンクリートの海沿いの道はフランス映画で何回も見た記憶がある。ああ、ここがあの道かと感激した。夜行列車でパリに戻ったのは8月15日、駅を出ずにそのまま列車を乗り換えて西ドイツに向かった。マンハイムでモスパックで一緒だった女の子、吉田さんを訪ねた。吉田さんはマンハイムで大学の先生をしているお父さんを訪ねてヨーロッパに来たのだった。2人でハイデルベルグを訪ねた。その後1人になって当時の西ドイツの首都だったボン、ケルン、デュッセルドルフと巡り、東ヨーロッパに向かうために西ドイツに入った。
西ベルリン:
8月24日(土)西ベルリンに入る。昨夜、デュッセルドルフを深夜に発った列車は,国境を出てから西ベルリンに入るまで、東ドイツ領内を停車せずに走り抜ける。途中、東ドイツの役人がパスポートチェックに来て、簡単に東ドイツの通過ビザをくれる。無料、紙切れ1枚。パスポートにDDRのスタンプが一つ押される。冷戦の最盛期には、自由世界から西ベルリンに入る地上交通は封鎖された。西側諸国からの航空機による物資の補給で、西ベルリン市民は命を繋いでいたのであった。
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ブランデンブルグ門(正面) ベルリン
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ベルリン動物園 (Berlin Zoo) 駅には午前7時着。2日間有効のツーリストカードを買って(18マルク)観光を開始。バス、地下鉄を自由に乗り継ぎながら、オリンピックスタジアム、ベルリンの壁、ブランデンブルグ門など西ドイツの見所半分ぐらいを見た。西ベルリンの大きさ、近代的な街造りにはただただ驚いた。大きな道路はずっと先までまっすぐに続いているし、とてもじゃないが、歩いての観光は不可能。それでも結構歩いた。バスも乗りまくる。ルートマップも買ったので何処にでもいける。
大日本帝国大使館:
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戦前の日本大使館
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8月25日9時過ぎユースホステルを出発、旧大日本帝国大使館まで歩く。立派な建物ながら空き家のため荒れ放題。玄関の菊の紋章は目立つ。戦前はここが日独枢軸外交の中心だったと思うと感慨深い。中には金網が張ってあり、入れない。外をグルッと回る。本当に今にも崩れそうな廃墟。でも何故か、菊の紋章の上に、きれいな日の丸の旗が風に揺れていたのが印象的だった。旧大日本帝国大使館 (現在はここが完全修復されて日本大使館となっている)、シャーロッテンブルグ宮殿、東西ドイツ国境、ベルリンタワーなど見物。
東ベルリン:
西ベルリンを出たのが8月26日朝10時頃、東ベルリンのフリードリッヒストラッセまではS-Bahnの列車で直ぐだ。パスポートのチェックの列に並び無事一日ビザを取る。外に出たのが30分後。またS-Bahnに乗り、アレキサンダー広場へ。国営旅行社ライゼビューローでホテルを決めるのにまた時間がかかる。結局、他のホテルは満員といわれ、一泊朝食つき140DMの 五つ星ホテルに2泊することになった。ドルで101ドルがあっという間に消えショック。またしても身分不相応の高級ホテルだ。しかもこの物価の安い東欧で・・・。一瞬気分が重くなったがすぐにあきらめた。
物価は本当に安く、博物館の入場料なども1マルク(約80円)を超えることはない。日本までの絵葉書も0.55マルク(約44円)で出せる。でも、何を買うのもちょっとした行列は覚悟。歴史を感じさせる古い、威厳のある建物は、西ベルリンよりはるかにいっぱい残されている。ヨーロッパ風。でも、いたるところにソ連と同じ雰囲気を感じる。ソ連をとてもなつかしく思いだしたことであった。 アレキサンダー広場、ウンターデンリンデン大通り、ベルガモン博物館、ドイツ歴史博物館など散策。
8月27日には東ベルリンからポツダムまで列車で往復した。ポツダムは遠い田舎の小都市。アパートや店のいたるところに東独国旗と赤旗の氾濫。こういう田舎町では、社会主義が浸透している印象をうけた。第二次世界大戦の末期、米英ソの3首脳がここに集まった。戦後の世界秩序について、ポツダム宣言を発表して、歴史の上にこの町の地名を残した。見所、ツェツィリーンホフ宮殿、武器博物館、ブランデンブルグ門、サンスーシー広場など。
東ヨーロッパ
8月28日の夜行列車で東ベルリンからポーランドの首都ワルシャワに向かう。列車内は買出し帰りのポーランド人が荷物をいっぱいかつぎ込み、ドイツ語は全く聞こえてこなくなった。翌早朝、ワルシャワに着く。ワルシャワではあちこちに行く列車の予約をし、ついでに、チェコの首都プラハまでの国際列車の券も買う。みんな一等や一等寝台。豪華にやっても信じられない安さで驚く。こうして私の1ヶ月におよぶ東ヨーロッパのたびが始まった。
グダニスク:
9月1日(日)朝5時50分、グダニスクに着く。早すぎるので30分ぐらい駅にいた。駅を出るとあまりの寒さに我慢できず、通りすがりの教会に飛び込む。驚いた。朝早いのに人がいっぱい。みんな真剣に祈っている。異国民の私が座っても何だかみんなやさしく受け入れてくれる。宗教とは無関係なのに、心の中がじんわり暖かくなった。感動した。
PTTK (国営交通社) までバスで行くために、バス停で待っているおばあさんに、切符を何処で買えばいいかと聞くと、2枚くれる。お金はいらないと受け取らない。みんな本当に親切だ。バスはあっという間に走りすぎ、変なところで下ろされる。人に道を聞き聞き歩いているうちに、門のような、アーケードのようなものをくぐった。目の前の朝もやの中に突然現れたのは、誰も人のいない旧市街の広場だった。まるで自分が映画の中の静かな中世の古都にさまよいこんだみたい。一生忘れることのできない経験であった。旧市街の美しさは、ヨーロッパ中でここが一番だった。ホテルは広場に面していた。8時前にチェックインし、10時まで寝た。寝ながら教会の鐘の音を聞く。夢のようだ。
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グダニスクの旧市街
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ポーランドはローマ法王ヨハネパウロ2世の故郷である。多くの教会に法王の写真が飾ってある。グダニスクの連帯の教会には、法王の銅像まであった。ポーランドに入って何回かミサを覗いたが、なんともいえない迫力というか、人々の狂信的な姿に驚いた。朝7時前から、教会で真剣に祈っている人達を見た。ポーランドは宗教のおかげで、少しは救われているのではないかと思えた。ポーランドの人々を見ていると、幸せなのか不幸なのかわからず、苦しくなる。悪い人は少なく、皆親切で暖かいのだ。
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赤色がポーランド
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ポーランド全図
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グダニスク (Gdansk) は戦前、ダンチヒ (Danzig) とドイツ名で呼ばれた国際聯盟管理下の自由市であった。市の名前がドイツ語であるのも道理、住民の98パーセントはドイツ人であった。主権はあくまでポーランドにあるとされたため、ドイツのナチス政府はダンチヒ市と、ドイツ国内からダンチヒ市に至る細長い土地 (これをダンチヒ回廊と称した) を含めてドイツに割譲することを要求した。この交渉がこじれて、ドイツ軍はポーランドに侵入、英仏両国がドイツに宣戦を布告して、1939年 (昭和14年) 9月1日、第二次世界大戦が勃発した。
グダニスクはいわくつきの都市なのである。戦後はワレサの主導する 「連帯」 発祥の地としても有名である。
東欧遍歴:
印象的だったグダニスクの後、アウシュビッツ、ビルカナウ収容所のあったクラコフを経てチェコのプラハへ。プラチスラバからハンガリーのブタペストに行く。南に行くにしたがってだんだん、息が詰まるような感じがなくなってきた。ブタペストは物が豊富で自由な雰囲気だ。しかし、ルーマニアのブカレストでは、あまりの貧しさにただただ驚いた。美しかったプラハやブダペストから来ると、その甚だしい違いに戸惑う。中央駅には籠を持ったジプシーが、施しを求めて歩き回っている。駅の近くは何処も貧しい人たちの渦だった。チャウシェスク独裁政権のせいだとは当時知らなかった。外国人の私は、ホテルも列車も法外なお金を取られた。いるのが辛かった。
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アンバサダーホテル プラハ チェコスロバキア
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ブダペスト ハンガリー
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ブカレスト中央駅 ルーマニア
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ドブロブニクの俯瞰
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最後は約2週間、開放的なユーゴースラビアで過ごした。ベオグラード、サラエボを見物する。ドブロブニクは ”アドリア海の真珠” と称された美しいリゾート地だ。のんびり海水浴など楽しんだ。ドブロブニクからサラエボに向かう列車の中で、とても美しい町の写真を見た。モスタールという。名前も知らなかったが、あまりの美しさにサラエボ行きはやめてモスタールで降りた。ネレトバ川にかかる有名な石橋のある旧市街、石畳の通り、忘れがたい景色であった。その後の戦争で、市街も、あの橋も破壊された(今は復元されている)。あの長かったユーゴスラビアの、戦争のニュースを見たり聞いたりするたびに、モダンで自由を満喫する人々と、美しかったモスタールの町のことが、いつも思い出された。(注)
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モスタールの石橋
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東欧を出て、開放感と居心地のよさからトルコには2ヶ月以上滞在した。イスタンブールは、ここなら住んでみたいと思える数少ない都市のひとつだった。12月1日、トルコのマルマリスという港からギリシャのロードス島に渡った。アテネからカイロに飛び、アフリカのたびが始まる。その年のクリスマスは、クリスマスとは無縁のルクソール、大晦日とお正月は、アブシンベル宮殿のあるアスワンだった。
注:
1980年ユーゴスラビアの独裁者、チトー大統領が亡くなってからというもの、多民族国家ユーゴスラビアには紛争が絶えなかった。1991年からはついに内戦に発展し、六つの共和国に分裂して、やっと内戦が終息したのは2000年のことであった。
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1989年当時のユーゴスラビア
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6カ国に分裂した現状
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アフリカ
キリマンジャロ登山:
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キリマンジャロ遠望 ダルエスサラーム/モシ間の列車から写す
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1986年2月25日、4泊5日のツアーに参加して、キリマンジャロに登った。ツアー料金は山小屋宿泊費、食費、ポーター、ガイド料こみで200~250米ドルぐらいであったろう。外国人からの観光収入は、タンザニア政府の重要な外貨収入源である。私は、ツアーに参加した英人の口利きで、シリング払いを認められた。国際的には何の価値もないタンザニア・シリングで払えることはすごい特権であった。皆がドルで払っている中、私だけが、ブラックマーケットで交換したシリングで払うのに罪悪感があった。何でこういうことになったのか理由は一切わからない。それでも、この英人に30米ドルのお礼をしたと日記に書いてある。
5000メートル級の山なのに、登るのが大変であったという記憶はない。カメラと防寒着と貴重品だけ入ったデイパックを持って、楽しい散歩をしたという感じであった。いらない荷物はふもとのホテルにおいてきたが、寝袋や洋服の入ったバックパックはポーターが運んだ。彼らは、これらの重い荷物を信じられないぐらい軽々と担いで上がっていった。はだしのポーターも大勢いた。
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海抜4750m 地点から見たキリマンジャロ
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頂上の氷河
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登りはじめは熱帯ジャングルの感じだった。登るにつれて次第に木々の高さは低くなり、3000メートルを超えると、植物は一切なくなった。一泊目はモンダラハット2727メートル。二泊目はホロンボハット3780メートル。一日に5、6時間しか歩かない。三泊目のキボハットは4750メートルで頂上は直ぐそこだ。所々に氷河が見える。
ここまで来ると、ツアーの参加者は皆高山病になった。頭ががんがんして酒を飲み過ぎた酩酊状態になった。高山病にかからないで元気なのは私ひとり。すでにこの山に登った人のアドバイスにより、3ヶ月前から禁煙し、1ヶ月前からは、深呼吸の訓練をした。私は登山の途中、馬鹿みたいに深呼吸を繰り返した。先輩のアドバイスの効果があったのだ。
頂上で朝日を拝むため、深夜に登りはじめる。ガイドの後について、たった1000メートルを6時間かけて上るのだ。ジグザグにゆっくりゆっくり登る。途中、何かに躓いて倒れた。起き上がれない。仲間に助けられてやっと起き上がる。バランス感覚がおかしくなっている。6時に頂上について日の出を見た。やった! という達成感があった。
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キリマンジャロ山頂にて 1986年3月
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頂上は寒い。ギボハットから下山する時間に遅れないよう、30分もいなかった。帰りは明るいし、見晴らしもよくガイドもいない。勝手にギボハットまで降りる。砂の斜面を走りおり、6時間かかって登った山をたった2時間で降りる。これが原因で重い高山病にかかる。ギボハットまで降りると、頭が痛くて起きていられない。寝袋に入って、頂上征服を祝って大騒ぎしている仲間を尻目に、下山時間まで寝る。この頭痛はずっと下に降りてくるまで治らなかった。登るときは楽しかったのに、帰りは苦しかった。下まで降りきって、国立公園を出てやっと頭痛は治った。
サファリ:
マサイマラ国立公園、ケニア
アフリカ観光に来て、サファリをしないで帰る人はいないと思う。初めてのサファリはケニアのマサイマラ国立公園。4泊5日のキャンピングサファリで2150シリング。シリングはナイロビのお土産店で闇両替をしているので、120か130米ドルぐらいだったと思う。ケニアではブラックマーケットのおかげで生活費が安く、結局、生活費の安いところでは長居をしている。
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キャンピングサファリ マサイマラ ケニヤ
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いろんな動物を見たが、覚えているのは、ライオンを探して長い間ドライブをしたこと、それなのに国立公園内のキャンプ場では、ライオンが来たらどうしようと夜、怖かった。ライオンの立場に立つと、得体の知れない動物がうじゃうじゃいるところには、怖くて出てこない。帰りに、ボロジープが国立公園内で故障した。何時間も立往生したが、その間、ツアー客はジープの周りを自由に歩いていた。いくらサファリとはいえ、突然、ライオンが出てきて人を襲うなどということはない。ケニアでは、マサイマラ以外にも、日帰りでいけるところにも行った。私は特に動物好きではないが、見知らぬ人とのキャンプなど楽しかった。これはアフリカ旅行の醍醐味だと思う。
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クルーガー国立公園のキリン 南アフリカ
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セレンゲッティ国立公園、タンザニア
タンザニアでは、キリマンジャロ登山の後、アルーシャという都市に移動、そこから有名なセレンゲッティ国立公園へ行った。3泊4日、米ドル払いのツアーだ。幾らだったか、記録してなくてわからない。私たちよりももっとお金持ちの参加するサファリだ。国立公園内のいいホテルに泊まる。広い!。一つだけ鮮明に覚えていることがある。朝食後、何人かで散歩に行った。しばらく歩いて、ふとホテルのほうを振り返ると、ホテルの背の低い平屋の建物のすぐ横に、大きなキリンが現れた。えっという感じ!。その大きさと、何故こんなところにという思いで圧倒され、感動した。人が近寄っても逃げないのだ。動物園でしか見たことのないキリンが、自分の直ぐ傍で、まるで笑っているかのよう。楽しそうに活き活きとそこに立っているのだ。
クルーガー国立公園、南アフリカ
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象の一家 クルーガー国立公園 南アフリカ
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アフリカ大陸最後のサファリは南アフリカのクルーガー国立公園。これも有名な観光地である。私は、ヨハネスブルグから友達の暮らすダーバンまで、一週間ぐらいのバスツアーに乗った。その途中、クルーガー国立公園で2泊した。ツアーの参加者は10人ぐらいしかいなかったが、乗ったのは超大型観光バスである。こういう大きなバスでサファリをするのはよくない。動物がその大きさや騒音におびえて逃げてしまうのだ。それでも象の大群と遭遇した。目の前で象が何頭も道を横切り、バスは、その群れが通り過ぎるまで止まった。群れの中に2頭ぐらい小さな子どもの象がいた。また別の象のコミューンも見た。草を食べてたり、水浴びしてたり、砂で身体を洗ってたり、大人象から子ども象までさまざま。そのスケールの大きさに圧倒された。ケニアやタンザニアの国立公園は草原で、はるか遠くまで見渡せた。ここクルーガー国立公園は荒々しいブッシュで、見晴らしはあまりよくなかった。
その分、動物探しは難しいのだ。バスのドライバーは目や勘がすぐれていて、よく象の群れを発見して私たちを堪能させてくれた。
バオバブ:
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バオバブの木 セレンゲティ国立公園 タンザニア
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アフリカのサファリで、というかアフリカの風景で忘れられないのがバオバブの木だ。ケニアやタンザニアでよく見た。
『星の王子さま』に出てくるあの木である。はじめて実物を見て感動した。アフリカといえばバオバブの木!と言ってもいい位アフリカらしい風景である。
アフリカ遍歴:
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王家の谷をロバで回る ルクソール エジプト
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プレトリア 南アフリカ共和国の首都
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友だちのいとこ家族の世話になる
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スワジランドにて
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テーブルマウンテン頂上 眼下にケープタウン市街
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リバーホテル ナイロビ ケニア
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このホテルを基地にして周辺国を歩き回った
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北米
ニューヨーク:
アフリカの後、ヨーロッパを3ヶ月ほど旅行して、ロンドンから英国航空でニューヨークに着いた。1986年8月29日だった。この旅をはじめて直ぐのときに、日航機が墜落して多数の死者を出した。1985年8月12日のことであった。羽田を飛び立って伊丹空港に向かう日航機は、群馬県の山中に落ちたのであった。翌日、当時宿泊中のユースホステルで同宿者からこの事件を聞き、早速、街のニュース・スタンドで新聞を買い求めて、熟読した。
それ以来、飛行機が怖くなった。できるだけ飛行機は避けた。しかし大陸間を渡るには、経済性と利便性を考えると飛行機しかない。自分が乗った飛行機が、落ちるかもしれないとはいつも思った。しかし、テロで落ちるかもしれないとは、当時は誰も考えていなかった。考えてみると平和なときだった。あの頃の世の中の争いのニュースは、アパルトヘイト(人種隔離政策)が終わりつつあった南アフリカ共和国に集中していた。ソ連もあったし、ベルリンの壁もあった。イスラエルとアラブの争いもあったのだが、何となく嵐の前の静けさのような静かな時代であった。
この年 (1986年) の4月には、リビア政府がテロを支援しているという理由で、アメリカはリビアのトリポリを爆撃している。ようやくテロ事件が頻発する時代にさしかかりつつあった。余談であるがこの爆撃の報復として、リビアのカダフィ政権は1988年12月、大西洋横断のパンアメリカン機をスコットランド上空で爆発墜落させる。270名の死者が出た。更に余談になるが最近、リビア政府が被害者の家族に賠償金を支払うことでこの事件は解決した。
あの頃のニューヨークは世界で一番危険な都市と呼ばれていた。一人でニューヨークに行くのが怖かった。飛行機で夜到着などとんでもないことであった。もちろん、ちゃんと昼到着する便を選んだ。ホテルはロンドンで、エンパイヤーステートビル近くの、シャワーつきの部屋を予約しておいた。41アメリカドル。痛い出費だが仕方がない。JFKからリムジンバスでマンハッタンへと向かい、ホテルの近くで降りてからは、息もしない勢いでホテルを目指して歩いた。本当に怖かったのを今でも覚えている。このホテルには2泊し、その後はタイムズスクエアの近く、一寸危険と言われていた地域のホテルに移った。1週間で100ドルほどの安ホテルだ。ニューヨークに2泊するうちに、いつものように、何だちゃんとやっていけるではないかと思ったのだろう。
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マンハッタン島遠景
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左ワールドトレードセンター
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中央遠景の尖塔はエンパイヤーステートビルとクライスラービル
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映画 『ラブストーリー』 のマンションにて
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ニューヨークでは、日本で働いていたときの友達にお世話になった。堅山さんは中国人と結婚して、ニューヨークの一等地でタイ・レストランをやっていた。ジョンレノンと小野洋子が住んでいたアパートの直ぐ近くだ。いろいろ世話になった。村田さんは会社の駐在員として、ニューヨークで暮らしていた。奥さんも同じ会社にいたので知っている。
映画 『ラブストーリー』で主人公の実家として使われたマンションに連れて行ってもらった。このときはじめて私はマンションの本当の意味を知ったのだ。それは、内容、外観ともに豪奢で堂々としており、部屋数の多い、アパートや大邸宅のことをいう由である。日本でいうマンションは、ここではアパートメントという。 そういえばロンドンには、マンションハウスという古い大きなビルがあったな。今ではロンドン市長の公邸となっており、市役所の一部も入っているとか。何せ、部屋数は600以上もあるという。
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国連ビル
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マンハッタンは広いがよく歩いた。地下鉄は危険といわれていたので乗りたくなかった。約半月の間、ニューヨーク市中を歩き回った。エンパイヤーステートビル、観光船でマンハッタン一周、国連ビル、ブロードウエイでは CATS や 42ND STREET も見た。ロックフェラーセンター、ワシントンスクエア、グリニッジヴィレッジ、セントラルパークなど、映画で親しんできた世界にももちろん行った。ウォール街の証券取引所にも行った。
近代美術館、メトロポリタン美術館、自由の女神、NBCテレビ局見学。本当に毎日よく歩いた。夜景を楽しむ観光バスにも乗った。また映画でよく見ていたハーレムや、そういうところを巡る観光バスにも乗った。中学生のころから趣味だった映画鑑賞を通して、ニューヨークには本当に親しみがあった。映画でよく見たニューヨークのカフェの朝の風景。私もカフェに座って、ニューヨーカーになったつもりで朝食をとった。行ってみたいところには全部行った。貧乏旅行をしていても、やらなければならないことはやる。後から後悔しても遅いのである。ニューヨークでは毎日が充実していた。
ワールドトレードセンターは、ニューヨークではツインタワーとかタワーと呼ばれていた。あんなに高層ビルの多いマンハッタンで、ツインタワーは抜きん出ていた。タワーの高さの半分ぐらいが、他の高層ビルの上に聳えている感じであった。ダントツの高さである。マンハッタンの何処からでも見える。タワーの展望台は本当に印象的だった。あんなに高いタワーなのに、ガラス越しではなく、外なのである。なおかつ、柵が低く子どもでも乗り越えられる感じなのである。日本なら直ぐに自殺の名所になるのではないか。もっともこれは、日本人だけの発想かもしれない。後に 『9.11』 と題する、フランス人の撮ったドキュメンタリー映画を見た。火災に追い詰められて、タワーの高層階から人が飛び降りる。その着地するときの不気味な音を聞いて、あの時、自殺の名所になってしまうと心配になったことを思い出した。9.11では数千名の犠牲者が出て、建物は影も形もなくなった。
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ワールドトレードセンター屋上にて ニューヨーク
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ニューヨークを出てボストン、ナイヤガラの滝、ワシントン、チャールストン、ナッシュビル、ニューオーリンズ、フロリダ半島と20日間駆け足で、アメリカ東部をバスで南下した。物価高でホテル代を節約するため20日間で7回も夜行バスに乗った。旅をはじめてから、夜行列車や夜行バスで寝るのは得意であった。アメリカのバスターミナルなども映画で親しんできた世界である。訪れた場所は、いずれも映画で頭に刻み込まれた風景に限った。アメリカはのんびり巡るには、もう一つ魅力を感じなかった。それに物価高である。早々におさらばしたい。アメリカを南下しながら、心はすでに次の国メキシコや、南米大陸に飛んでいた。
中米
キューバンホリデイ:
マイアミからメキシコはユカタン半島の州都メリダへ行くにはメヒカーナ航空である。この線はユカタン沖のリゾート地コスメル島でストップオーバーする。マイアミからコスメル島にわたったのは1986年10月3日であった。いよいよスペイン語圏での日々が始まった。コスメル島には5泊して、毎日レンタサイクルで島を回ったり海水浴をした。たった一人でリゾート地にいるのはつまらなかった。
私は旅をしながらずっとキューバに行ってみたいと思っていた。しかし、行けると思ったことは一度もなかった。旅先で知り合う外国人や日本の旅行者と情報交換をしても、キューバに行ったという人には出会わなかった。コスメル島からユカタンの州都メリダに着いたとき、矢張りキューバのことが頭にあって、旅行代理店を訪れた。そこで、メキシコ人用のキューバ8日間観光旅行があることを知った。往復飛行機、ホテル、一日2食、一回観光、トランスポートなどすべてを含め、200ドルとちょっとだった。破格の安さである。直ぐに申し込む。最初、日本人は行けるかどうかわからないといっていたが、1日待って日本人もOKという。申し込んで2日後にはハバナ行きの飛行機の中にいた。
ツアーは13人。若者ばかりだ。ほとんどはメキシコ人で、何人かアルゼンチン人がいた。8日間ハバナにいて、何回か郊外に行くツアーにも参加した。あんなに行きたかったところなのに、自分で歩いたハバナと自分でローカルバスに乗って何処かのビーチに海水浴に行ったこと、そしてホテルやホテル周辺ぐらいしか覚えていない。私の旅の特徴として、苦労しなかったところや大して何もしなかったところの記憶は薄いのである。
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ホテル・ドービル ハバナ
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ホテルはホテル・ドウビル(Hotel Deauville)といってハバナの旧市街にあった。夜着いて大きな川の前だと思っていたら、朝起きて窓を開けるとハバナ湾だった。ホテルの造りも、食事も何となくソ連を思い出させた。私はメキシコ人の女性ロサと一緒の部屋だった。彼女は空港からホテルについた途端にいなくなり、毎日、夜中か朝帰りであった。私が寝ているときに部屋のドアをどんどん叩くので、何日かして文句を言った。彼女の答えはこうだった。
彼女は、文通相手のキューバ人のフィアンセと結婚するためにハバナに来た。フィアンセとは一度も会ったことがなく、写真だけで婚約した。彼は、空港に迎えに来ていたが、一目見て、自分が間違っていなかったことがわかった。そして直ぐに結婚した。キューバ人と結婚するためには外貨(米ドル)が必要で、一応用意してきたが、足りないので実家に頼み、実家からお金が届くのを待っているところという。メキシコ人にとって米ドルを手に入れることは大変なことなのだ。ロサも一生懸命働いてやっとためたに違いない。日本人は1ドルでも10ドルでも簡単に手に入れることができるが、メキシコ人にとっては一生懸命働いた上、苦労してやっと手に入れるものなのだ。ツアーのメキシコ人から少し借り、残りは実家がかき集めて金策の目処がついたという。同情してしまった。自分がいっぱい持っているドルの性質が余りにも軽すぎるような気がしたが、目処がついたといっているので、私は手助けをしなかった。
これを話してからもうロサはホテルに戻ってこなかった。彼女は一度も会ったことのない男と結婚するために、はじめて外国であるキューバに来たのである。家族や親戚に祝ってもらうこともなく、たった一人で結婚しに来たのである。メリダとキューバは飛行機でたった1時間しか離れていない。しかし、隔てられているものはあまりに大きい。切ない気持ちになった。帰りの飛行機の中で彼女はずっと泣いていた。少し話をした。結婚してキューバに住むことは、彼女の選択肢のうちにはなかった。夫をキューバから連れ出したいのである。夫は大学を出てエンジニアである。普通の世界ではエリートである。しかし、キューバでは掃除人と給料は全く同じという。暮らしは貧しい。2人でメキシコで暮らしたいと切々と語った。夢がかなっていることを祈りたい。
私のキューバの印象:ハバナは大きくて美しいヨーロッパ風の歴史を感じさせる街である。しかし、建物がとにかく古い。古いというよりぼろぼろなのだ。古くてもちゃんとメンテナンスをすればいいのであるが、そういうことに回すお金がないことは直ぐにわかった。街を歩いていると、白人と黒人が同じ身分で共存していることが感じられる。金持ちと貧乏人の区別もつかない。人種差別も身分差別もないのだ。みんなおんなじに見える。これが街を歩く人々から受けた印象だった。アメリカやアフリカや他の国々で味わったものがここにはなかった。しかし、みんな同じで幸せなのかはよくわからない。
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ハバナ市街
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ツアーの仲間のメキシコ人たちは、ブラックマーケットでお金を替え、言葉も見た目も同じなので楽しんでいた。私は外国人旅行者と一目でわかるためそういうチャンスには恵まれなかった。メキシコ人たちが同情して、私の米ドルを闇でペソに替えてくれた。いざお金をいっぱい持って街に出ると、買うものがない。とにかく物がないのだ。店もなければレストランなどもない。一体どうなってるの?という感じだった。ついドル専用の店インツール (INTUR) に入ってしまう。外国人用のお土産屋ではゲバラのグッズが沢山並んでいた。カストロ将軍はカストロではなく、フィデルの名で呼ばれている。たぶん神様のような存在なのだろう。どうやってお金を使っていいかわからず、映画館に入る。映画館でキューバ映画を見たと日記には書いてあるが、内容は全然覚えていない。
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フィデル・カストロと私
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一人で街を歩いていると、自分が人々の興味の対象になっていることがよくわかった。遠回りしながら後を付けてくる。私はいつも近寄って、来てくれるのを待っていた。キューバに来て、ハバナを一人で歩いているのに、まだキューバ人の誰とも話ができないでいる。何回か私の目の前まで来て、話をしだしたりする人がいた。外国人に対する興味か、ドル欲しさのどちらかだろう。おそらくドル欲しさのためである。キューバのペソは国際的には何の価値もない。キューバ人にとって、ドルショップで買い物ができることが重要なのだ。しかし、お巡りさんや兵隊の姿を見るとあっという間に何処かに消えてしまう。お巡りさんや兵隊さんは、街中いたるところにいるのである。たぶん外国人と話していると、闇両替や密出国の容疑者と見られるのであろう。
そんなわけで10日もキューバにいながら、ひとりのキューバ人の友達もできなかった。ツアーのメキシコ人と仲良くなっただけであった。そうはいっても、メキシコ人の友人たちは決して私と一緒には行動してくれなかった。彼らは、キューバ人に成りすまして、ブラックマーケットで交換したペソや米ドルで安いホリデイを楽しむのである。何をしているのかはわからないが、彼らは本当に楽しそうだった。そんな彼らにとって外国人の私は邪魔なのだ。彼らは私が一緒にいると何もできなくなってしまうのだ。ホテルの中で仲良くしてくれるだけであった。私は一人ぽっちでハバナ湾の海岸通を何回も歩いた。夕日が本当にきれいであった。多くのキューバ人が、小さなボートに乗ってここからアメリカを目指すのか。
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ハバナ海岸通り (Malecom Avenue) ホテルの部屋から
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帰途、ツアーのメキシコ人の男性はロシア語で書かれた本をいっぱい持っていた。ロシア語の本を買いにハバナに来たという。何でも学生時代、ソ連に留学していたという。へー! 日本人はアメリカやイギリスに留学するけど、メキシコ人はソ連に留学するのかと驚いた。ロシア語の本を安く手に入れてご満悦だった。メリダに帰って来たのは1986年10月19日の真夜中だった。こうして私のキューバへの旅は終わった。
メキシコーグアテマラ:
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中米全図
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(この図は帝国書院 「エッセンシャルアトラス」 から借用した)
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メキシコのユカタン半島は大学時代の旅行でも長く逗留した。州都のメリダは大好きな町だ。ユカタンの空気は私にあっていた。ユカタンを離れ、バスでメキシコシティーに向かう途中、パレンケのマヤ遺跡を見に行く。ジャングルの中の遺跡を目指して、パレンケ村から8キロを頑張って歩いた。途中、豚の親子とすれ違った。暑い。帰りはアメリカ人のキャンピングカーに拾われすんなり村に戻る。
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パレンケのマヤ遺跡
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メキシコシティー周辺に10日ほどいて11月3日、グアテマラを目指してバスで南下を始める。インディオの町、サンクリストバル・デ・ラスカサスに3泊、周りは山に囲まれ、夜はすごく寒くなる。郊外のインディオの村、シナカンタン村の小さな博物館で、アメリカ人の学生クリスと会った。外国人など絶対にいないと思っていたのでビックリした。このクリスとの出会いは前述 「出会いと再会」 の中で詳述したのでここでは省く。
国境の町コミタンからグアテマラに入った。グアテマラはメキシコよりもぐっと素朴で、昔から変わらないインディオの生活に近くで触れることができる。グアテマラには1ヵ月あまりいた。山国で景色はきれいだし、治安は良く、人々も素朴で親切、おまけに物価がとても安い。そのため予想外の長居となった。治安は良いのだが、ここから南米にかけては、外国人のデイパックがナイフで切られ、中のものを取られるという噂が拡がっている。そこでデイパックは子どもを抱っこするように前で抱えるかたちにした。
湖に行ったり、山に行ったり、美しいグアテマラをバスで旅行する。大きなリュックは大体バスの屋根に載せられる。ジャングルの中の有名なティカルのマヤ遺跡にも行った。グアテマラでの日々は、いよいよ南米に向かう緊張感や不安をやわらげてくれるのんびりした平和なものとなった。12月11日、グアテマラシティーからコロンビア領のリゾート島サンアンドレスに飛んだ。
自由
”フィレンツェには行くけどアッシジには行かないの?”
旅の途中であるがここらで私の旅行哲学、哲学というのは大袈裟だが、世界一周旅行に志した経緯や関心について語っておきたい。そもそも一人旅を始めたのは15歳、高校2年のときからであった。旅行費用を稼ぐためにアルバイトをやった。ほとんどやっていないときはないぐらいやった。勉強は、はっきり言ってどうでもよかった。周遊券を買って、ユースホステルに泊まりながら、日本国中を旅行した。
大学3年のときに初めてヨーロッパに行く計画を立てた。夢や計画が心の中を駆け巡る。しかし、どうしても打ち勝てなかったのが”怖い!”という思いであった。この”怖さ”がどうしようもなく心にのしかかってきた。怖さと不安で1ヶ月ぐらいの学生向けパッケージツアーにしようと思った。
パッケージツアーの問題点は、自分の行きたいところに行けないことである。このツアーも、フィレンツェ (Firenze または Florence)には行くけど、私がどうしても行きたいアッシジ (Assisi) には行かないのである。一生に一度のヨーロッパかもしれないのに、アッシジに行かなければ一生後悔する。そんなふうにツアーの日程には含まれていないけど、どうしても行きたいところが数箇所あった。結局、そのころはやりだしたダイアモンドツアーの行きと帰りだけ団体に参加するという40日のツアーにした。
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フィレンツェ市街
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アッシジ市街
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注:
フィレンツェ 中世の都市国家フィレンツェはルネサンス時代、メディティ家が支配していた。写真右上方、ドームと鐘楼を含む一角は 「花のサンタマリア大聖堂」 である。ドームは彫刻家ブルネレスキーの設計になる。13世紀から14世紀にかけての140年を費やして完成したという。石積みのドームとしては、現在まで世界最大のものといわれている。
アッシジ 13世紀に建てられたサン・フランチェスコ聖堂がある。聖堂内の初期ルネサンスの画家ジョットのフレスコ画が有名である。写真に見える塔は、聖堂付属の鐘楼である。
ロンドンで3泊をツアーの仲間と過ごし、その後ばらばらになり、パリで再び落ちあうのである。ツアーの中に、私と同じ不安な気持ちで旅行に参加していた山脇さんがいた。彼女と一緒に自由旅行をすることにした。しかし、旅をはじめてみると案外できる。言葉がわからなくても何となくできる。お互いに自信をつけてきて、これなら一人でも大丈夫と思うようになった。異国での一人旅がここから始まった。山脇さんはこのツアーで生涯の伴侶を見つけ、その後結婚して犬塚さんになった。
次の年、今度はアメリカ旅行を計画した。しかし、やっぱり怖い。そういう不安と恐怖から逃れられなかった。そこでまた、ツアーの行き帰りだけ団体旅行を申し込んだ。今度は山脇さんのような女性を見つけられなかった。怖いけど自由な日々の一人旅だ。サンフランシスコでみんなと別れ、私はアメリカをすっ飛ばし、旅行の目的地メキシコにバスで向かった。自由な日々をすべてメキシコで過ごした。今度も案外大丈夫だったのだ。1ヵ月後、みんなとロスで再会し、帰りにハワイを楽しんだ。
こうして異国での一人旅の恐怖心を克服すると、好奇心のほうが大きくなった。就職してからは、休みを利用して、香港や韓国やフィリピンなどいろいろなところへ行った。そしてついに世界一周旅行を計画するときが来た。やっぱり怖かったし、不安は大きかった。自由な旅行だ。フィレンツェには行くけどアッシジには行かないということのないようにしよう。2年という長い日々を利用して、行きたいところにはどんな辺鄙なところでも行こう。目的地の選択と経路の検討には長い時間がかかった。
2年間の自由な旅行といってもそれなりに計画は立てていたのだ。ソ連、北欧、アイルランド、ドイツから東欧、トルコ、ギリシャを巡ってからアフリカに入る。すべて計画したコースどおりに廻っている。しかしトルコには2ヶ月いた。東欧を出たことによる開放感と、物価の安さ、人の良さ、治安の良さ、トルコは素晴らしかった。イスタンブールは美しい都市だった。トルコの地方もいろいろ旅行した。私は昔見た映画
『ミッドナイト エキスプレス』で、トルコには悪い先入観を持っていた。トルコはとんでもないところだと思っていた。映画で見るのと、実際に来て見るのは大違いだった。
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アヤソフィア教会 イスタンブール
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この頃から、居心地のいいところで長居する傾向が始まった。エジプトには1ヶ月間、ケニヤ・タンザニアエリアには約3ヶ月、南アフリカにも1ヵ月半、結局、約半年をアフリカで過ごした。長くいると日本人でも外国人でも友達ができる。彼らと一緒に、楽しくあっちに行ったり、こっちに行ったりした。それは長居の良い点でもあり、また悪い点でもあった。それでもまあ、やりたいことをやりたいようにやってきた。友達と一緒に行くのがいやになったり、飽きてきたり、出発の時期が来たと思えばまた一人旅を始めるのだ。
帰る日まで後何日しかない、と指折り数える必要がなかった。私のたびはさしあたって帰らなくてもいいのだ。親の保護や、日本にいたらあるいろんな締め付けやプレッシャーから完全に開放されたのだ。少なくとも日本に帰るまでは、お嫁に行きそびれているとか、将来の不安とか考えないでよい。最低限の生活必需品を背中に背負い、毎日のねぐらを探しながら、そして世界を見ながら、一人で歩く。私の長年の夢はついに実現した。夢が実現するまでには長いプロセスがあった。プロセスが長かっただけに、夢が実現した今の開放感はひとしおであった。
南米
南米の太平洋岸を南下:
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赤道を跨いで キトー エクアドル
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リゾート気分のサンアンドレス島から首都のボゴタに飛んだのは12月20日。この当時、コロンビアは怖いところといわれていた。怖いといわれれば一人旅の私は本当に怖い。怖いボゴタに3泊、緊張して過ごした。いよいよ長い間夢見た南米のたびが始まる。この怖いコロンビアを陸路バスで一人旅なんて考えられず、エクアドルの首都キトーにも飛んでしまった。ここから陸路南米大陸を南下するたびが始まる。この年のクリスマスはキトーで過ごし、お正月はキトーからバスで3時間半はなれたバーニョスという温泉地で迎えた。それから陸路ペルーに入り、小さな村に泊まりながら南下した。首都リマでは半月ほど便利快適な生活をした。ナスカでは有名な地上絵を観光飛行機から見た。その後アレキーパを通ってチリに入る。
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サンチャゴ チリ
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ピノチェト政権下のチリの首都サンチャゴはアンデス山脈のふもとのヨーロッパ風の美しい都会だった。アンデス山脈の5000メートル級の山々が遠く、でもそんなに遠くでもなくよく見える。本当に美しいのだ。そして治安がとてもよかった。またすべてが近代的だった。物もいっぱいあった。
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サンチャゴ市街
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その便利さと平和なところ、快適に暮らせる都市、そしてなんといってもアンデスの山並みが都会の真ん中で見渡せるところ。サンチャゴは今度の世界旅行でトルコのイスタンブールと並んで、ここなら一生暮らせそうと思えたたったふたつの都市のひとつだった。旅行中、沢山の国や都市を訪れたが、旅行するのと暮らすのとは違う。暮らすためにはいろいろな条件がすべて整っている必要がある。私のそのきびしい条件をすべてパスしたところがイスタンブールとサンチャゴであった。
アンデス越え:
サンチャゴからパタゴニアを経て、このたびの最終目的地である南米南端のフエゴ島にいくには二つの経路がある。まず南緯42度線にあるチリ領プエルトバラスから、アンデスを超えてアルゼンチンの保養地バリローチェ (San Carlos De Bariloche) にいたる。ここから陸路南下するのである。もう一つは、チリのプエルトモントから直線で600キロ南にあるアルゼンチンのペリートモレーノ(Perito Moreno) まで船便を乗り継ぎながら南下する方法である。チリのチロエ島以南はフィヨルドで道がなくなる。チリ領を陸路南下する方法はないのである。
1987年2月5日、夜行列車でサンチャゴから南のペルトバラスに向かう。クラシックスタイルの寝台車。ヨーロッパではこんな旧式な列車はもう走っていない。映画オリエント急行の世界である。プエルトバラスからは船やバスを乗り継ぎ、徒歩も加えて150キロ東にあるアンデスの保養地バリローチェを目指す。プエラ (Puella) という町からプエルトフリアスまでの30キロは、重い荷物を背負い9時間かけてアンデスを越えた。プエルトフリアスでは馬小屋で野宿。アンデスの山中にプエルト (port 港) とは不思議だが、ここには大きな湖があって次の宿場の港まで舟行するのである。このアンデス越えは、南下のたびで仲良しになったイギリス人カップル、キムとケビンと一緒であった。彼らと一緒でなければ、徒歩のアンデス越えも、テントでの野宿もできなかっただろう。結局、4日もかかってアンデスを越えてやっとバリローチェに着いた。苦しかったが彼らと一緒で楽しい4日を過ごすことができた。
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バリローチェ途中の湖 プエルト ブレストにて
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観光地バリローチェ:
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やっとバリローチェ到着
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バリローチェはものすごい観光地で都会だった。バンガロー風のしゃれたホテルが並んでいるのを見て、ここに来るために今まで苦労したのかとがっかりする。一人で泊まった部屋にはベッドが3つもあった。ホテルに落ち着いてから街を散策する。途中ばったりキムとケビンに逢う。私のホテルの部屋にはベッドが3つもあるのだから、彼らを泊めてあげることにする。突然、ホテルの主人が部屋にやってきた。あせった私は彼らを洋服ダンスの中に押し込んだ。私が恐れたのは勝手に2人を泊めていることだけではない。ここはアルゼンチンなのだ。アルゼンチンとイギリスは、フォークランド諸島の領有をめぐって戦争をしたばかりである。両国は敵対関係にあるのだ(注)。キムとケビンによれば旅行は許されているとのこと。しかし彼ら自身も不安に思いながら、アルゼンチン国内の旅を続けているのであった。
注、フォークランド紛争:
フォークランド諸島の領有権をめぐってはかねてから宗主国、英国とアルゼンチンの間で外交交渉が続いていた。アルゼンチンの軍事政権は功をあせって1982年4月、突然、陸兵4000人を上陸させて同諸島を軍事占領した。英国のサッチャー首相はただちに艦隊を派遣して奪還作戦を開始、ここにフォークランド戦争が勃発した。アルゼンチン空軍は善戦して、英艦艇6隻を撃沈したが、戦闘慣れした英軍に敵し難く、6月、上陸軍が英軍に降伏して戦闘は終結した。娘ひろ子がアルゼンチンを訪れた1987年当時は、講和条件の交渉が行われていた。いわば戦争中で、両国関係は険悪なままであった。講和条約が締結されて国交が回復するのは1989年10月であった。
理由はわからないが、家主は私の部屋に居座って、しばらく私としゃべっていった。その間2人は洋服ダンスの中にいたのである。本当にビックリする体験であった。彼らには心から感謝された。翌朝7時前、彼らは出発した。彼らはアルゼンチンサイドをフェゴ島までヒッチハイクで行くのであった。2人を見送って部屋に戻ったら急に部屋が広く感じられ寂しくなってしまった。また1人で頑張るぞ。机の上にキムのメッセージと4アウストラルがおいてあった (ホテルは一泊6アウストラル、約3.7アメリカドル)。こんなことをしてくれなくてもいいのに。私だってテントに寝かせてもらったり、スパゲッティとスープを食べさせてもらったり、いろいろ世話になったのに。
1987年2月12日朝08:15の直通バスでバリローチェ発チリのプエルトモントに向かう。バリローチェの都会ぶりにがっかりした私は,アルゼンチンを陸路南下する普通のコースをやめて、チリ側を舟行するもう一つのコースをとることに決めた。行きは4日もかかったアンデス越えも、帰りは9時間のバスのたびであった。プエルトモントからチロエ島に渡り、ここからは船とバスとヒッチハイク、時に野宿しながら南パタゴニアのアルゼンチン領ペリートモレーノに向かって南下する。一週間かかってペリートモレーノに着いたのは1987年2月20日であった。ここで4日間休んで苛酷なたびの疲れを癒し、チリ領南パタゴニアのカラファテに飛ぶ。
ヒロとオルガ その一:
プエルトモントからペリートモレーノへの舟行の途中、ケジョンというところから乗った船の中で、サンパウロに住む日系ブラジル人夫婦のヒロとオルガに会う。日本語で話せることで、あっという間に仲良しになった。二人はハネムーンでここにいるのであった。ヒロは私と同じぐらいの歳、日本に行ったことがないのに日本語はぺらぺらだった。しかも、日本で今はあまり使われていないような丁寧な日本語であった。オルガは全く日本語が話せない。彼女は私にポルトガル語で話し、私はスペイン語で話す。彼女は私のスペイン語は理解できるという。彼女ともたちまち仲良しになった。彼らはこもごも、サンパウロに来たら彼らの家に泊まれという。サンパウロでの宿を提供するというのである。私は感謝しながらそうすると答える。フエゴ島を目指す彼らとモレーノ氷河を見る私は途中で別れる。
パタゴニア遍歴:
コロラド川を境とする南緯40度以南の南米大陸をパタゴニア地方と呼ぶ。年間を通じて気温が低く、嵐の吹き荒れる苛烈な気候が特色である。この中にモレーノ氷河はある。氷河の進行速度は1日あたり2メートルと早く、氷河の崩落を観察しやすいことで有名である。
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ペリートモレーノ氷河 アルゼンチン
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このパタゴニア地方を夏季の比較的気候の良い時期に見るというのが当初からの旅行計画であった。この辺りチリ領とアルゼンチン領を行ったり来たりしたがずっとヒッチハイクだった。モレーノ氷河も見た。だがここを抜け出す方法がない。ついにペリートモレーノからカラファテという町まで飛行機で行くことになる。空港ビルなんてない。ただのだだっ広い空き地だ。滑走路も小石だらけの未舗装である。飛んできたのはアルゼンチン空軍の飛行機だった。機内サービスは軍服を着た女性だ。たぶん空軍のお小遣い稼ぎだったのだろう。カラファテ (Calafate) は、世界地図で南緯50度線のちょっと南にある南パタゴニアの町である。このあたりずっとイスラエル人の一行と一緒だった (今はカラファテの町までバスが通じているという)。
アルゼンチン領のモレーノ氷河からチリに戻り、9泊10日でトーレス・デル・パイネ国立公園をトレッキングする。この国立公園はパタゴニアの最南端に位し、プエルトナタレスに近いチリ領にある。世界地図で見ると丁度南米大陸南端の細くなったところである。ここでもイスラエル人の一行と行動をともにした。しかし、前途に聳え立つトーレス・デル・パイネを目指すイスラエル人についていけず、山の途中で私はリタイアした。トーレスとはスペイン語で塔のことで、屹立する三つの峰を塔に見立ててこの称がある 。
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トーレス・デル・パイネ峰 チリ
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トーレス・デル・パイネ国立公園の氷河 チリ
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彼らは登った後、迎えに来るからと言い残して行ってしまった。それまで歩き続けて暑かったのに止まった途端、凍えるような寒さを味わった。ひとりになったのを後悔したが私はもう歩けない。どうしていいかわからず、ただひとり山の中腹で煙草を吸うことしかできなかった。これで人生は終わりだと本当に思った。凍え死ぬんだろうかとかいろいろ考えてしまった。何時間そうやって絶望のうちに座っていたであろうか。あたりが暗くなりかけた頃、イスラエル人の女の子ヴィヴィと男の子イドが迎えにきてくれた。死ななくてすんだと思うと嬉しかった。英語のTRUSTとは何であるかを学んだような気がした。日本語では信頼というが、それでは当時の私の気持ちに当てはまらない。彼らは、何日も一緒にいた仲間と深くて厚い友情で結ばれていたのだ。
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イド 私 ヴィヴィ
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みんな朝食を軽く食べたきりでおなかがすいていた。私も彼らに会って安心したためか、急におなかがすいてきた。ヴィヴィとイドが彼らのデイパックに入っていた食料でサンドイッチを作ってくれた。足手まといになっている私の面倒を見てくれるのだ。私たちはこれから山を降りなければいけない。体力と気力をつけるためガツガツとサンドイッチを食べた。
下山は半分暗かった。私は地形や風景を覚えておいて、磁石を使わずにもと来た道を戻ったりすることが得意だった。一人旅で得た力だった。何回も迷子になりかけたが、一行は私の道案内によって無事山小屋に戻った。少しはみなの役に立ったかと思うと気が軽くなった。山小屋に着くとすぐそのまま寝袋に入って何も考えずに寝た。一生忘れられない出来事であった。
フエゴ島:
正式にはスペイン語で Tierra del Fuego という。英訳すると Land of Fire である。”火の國”というわけだ。南米大陸の南端に横たわる大きな島である。面積は48千平方キロというから37千平方キロのわが九州を3割り増しに膨らませたぐらいの大きさである。日本人の地理の概念からすると島とはいえないのであるが、南米大陸の面積から比較すれば、島以外の何者でもない。1520年10月から11月にかけて
ポルトガル人マゼランの率いる艦隊が、この島と南米大陸の間の海峡を通った。以来、マゼラン海峡と名付けられて今日にいたっている。マゼランの艦隊はこの海峡を通過するときに、左手の陸地、すなはちこの島のあちこちに焚き火の火を見かけた。 "火の國” という地名はそれにちなんだという。のちにこの火は原住民が暖をとるための焚き火とわかる。
余談であるが、マゼランはこの海峡を西に通過して、波静かな海洋に出た。これに平和の海と名付けた。Pacific Ocean 太平洋の命名の起源である。
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緑色がフエゴ島
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島は南北に引かれた直線で東西に二分される。東側はアルゼンチン領、西側はチリ領である。アルゼンチン領にあるウスアイア(Ushuaia) はこの島最大の都市で人口は約4万人、普通の旅行者が普通に旅行して行き着くことのできる地球上の最南端の都市である。この最果ての地が私の世界一周旅行の最終目的地であった。この島に行き着くために、私は少しずつ世界を進んできたのだ。ここから南に行くと南極大陸はそんなに遠くない。ウスアイアからは定期的に南極観光船が出ている。
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フエゴ島に入る 1987年3月14日
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ウスアイア風景
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フエゴ島は最果てのなにもないイメージを持っていたが、イメージは外れた。国境のサンセバスチャンからウスアイアまで大型トラックをヒッチハイクした。このトラックから見たものは、大きくて近代的な工場ばかりである。日本の工場もいっぱいあった。みんな新しくてきれいだ。ここには資源がある。石油・天然ガスの宝庫である。牧畜も盛んだ。それにウスアイアは Duty Free City だった。世界の国々がここに経済進出している。想像でウスアイアを文化果つる僻村と考えていたのは大間違い。実は洗練された都市だった。物価もすごく高い。何処から来たのか私たちとは違う金持ちの観光客が大勢いて驚いた。ここは私の居場所ではないと直感する。ウスアイアに4日ぐらいいて氷河を見に行った以外は、ただ町をぶらぶらして過ごした。
フエゴ島雑感:
私がここフエゴ島に足跡を印したのは1987年3月14日、私の29歳の誕生日だった。思えば昨年12月22日、コロンビアの首都ボゴタから南米のたびをはじめて4ヶ月たった。この4ヶ月はチャレンジと冒険に満ち溢れ、自分がどんどん強くなっていくのがわかった。いろいろな思い出の中で、今も身体が覚えているのは寒さであった。南極から吹いてくる風は針のように痛く、どんなに厚着をしていても身体の中に入ってくる。そんな風の中で、何時間も車が止まってくれるのを待ったヒッチハイク。忘れられない。この南米大陸で味わったことが、私の今回の世界一周のたびの真髄であった。ここで目標を急に失ったような気がして当初の計画を変更した。当初の計画ではフエゴ島からパタゴニアを陸路北上して、バルデス半島で動物を見ることであった。目標を失った空虚感の中で、3月19日、ウスアイア国際空港からアルゼンチンの首都、ブエノスアイレスに飛んた。
イグアスの滝:
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イグアスの滝 ブラジル側から
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イグアスの滝 ブラジル側空中から
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世界の最果ての島から来るとブエノスアイレスはあまりに大都会でひるんだ。でもパリみたいで居心地のよさそうな都市だ。でも長居をせず直ぐイグアスの滝に向かった。夜行列車でポサーダス (Posadas) まで北上し、ここからはバスで7時間、プエルト・イグアスまで行く。ここがアルゼンチン側のイグアスの滝観光基地である。イグアスの滝はブラジルとアルゼンチン両国の境にある。まずブラジル側から見て、次にアルゼンチン側から見る。パラグアイもとても近い。どんな感じかちょっとよってみる。パスポートチェックはないが通貨は変わる。ブラジルはこのたびが初体験、ポルトガル語はできない。ポルトガル語で滝を意味するカタラータス(Cataratas) と人に聞き続けてやっと滝についた。長時間、暑い中でバスを待った記憶がある。イグアスの滝国立公園の入場料は4クルザード、ブラジルに入ったので1ドルだけ替えたら27クルザードだった。見学料はただも同然だ。大枚25ドルを払ってたった5分間ヘリコプターに乗った。滝も見たかったがヘリコプターにも乗ってみたかった。
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遊歩道からイグアスの滝を見る アルゼンチン
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アルゼンチン側からイグアスの滝を見学。入場料は2アウトストラーレス (1ドルは1.7アウトストラーレス) こちらはブラジルに比べ高い。お金の感覚がだいぶ違うようだ。昨日ブラジル側で遠くのほうから眺めた滝を、今日は遊歩道を歩きながら近くから見る。ブラジル側から見た景色と違った趣があり飽きない。
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”悪魔の喉”1 アルゼンチン
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”悪魔の喉”2 アルゼンチン
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最後はプエルト・カノアスからイグアス川にかかる遊歩道を1キロ歩き、Garganta del Diablo 英語で Throat of Devil (悪魔の喉) を直ぐ近くから見る。ものすごい。水しぶきがすごくて、雨の中ぬれながら写真を撮る。イグアスの滝もやっぱり素晴らしい。来てよかった。
イグアスの滝そしてこのあたりの思い出は、赤い色の大地、熱帯ジャングル、暑さ、そして蚊。蚊は本当に多かった。あつさと蚊で夜は眠れなかった。プエルト・イグアスに4泊し、滝を満喫してもと来た道を引き返す。バスで7時間、夜行列車に20時間乗ってブエノスアイレスに戻った。アルゼンチンは広くて大きい。
ブエノスアイレス (アルゼンチン) - モンテビデオ (ウルグアイ):
イグアスの滝からブエノスアイレスに帰って、市内散策、手紙書き、映画館めぐりなどに数日を過ごす。『ミッション』 もここで見た。ブエノスアイレスとモンテビデオはラプラタ川河口の右岸と左岸に位置する。1987年4月4日、船でアルゼンチンを出てウルグアイに入国。モンテビデオのユースホステルでは宿泊客はたった4人、私、オーストラリア人2人、ドイツ人1人すべて女性である。街を歩いていてばったりレアンと逢う。彼女とはグアテマラのトードスサントスで会って以来5ヶ月ぶりの再会である。びっくり。こんなこともあるんだな。夜はホテルの食堂でお茶を飲みながらレアンと話し込む。のんびりした夜。
モンテビデオ (ウルグアイ)- ポルトアレグレ(ブラジル)- サンパウロ(ブラジル):
モンテビデオからはバスを乗り継いでサンパウロに向かう。ブラジルに入った途端、大地は真っ平ら、道は真っ直ぐ、木まで真っ直ぐに立っている。アレグレまでは大草原地帯である。空の雲はまるで油絵の具で描いたように鮮やか。広い風景だ。ポルトアレグレには夕方5時前に着いた。モンテビデオからポルトアレグレまで直通バスで来ると、安いので23ドルもする。私はバスを乗り継いで10.8ドルできたわけで随分節約できた。ポルトアレグレは近代的な都会、黒人も多く、ああここはブラジルなんだなと思う。バスターミナルでは泥棒が多いらしい。バスに乗っているとき以外は緊張感で心が引き締まる。サンパウロ行きの切符を買う。350クルザード、夜9時10分発。サンパウロには明日の午後3時着、18時間もかかるのか、長いなあ・・・。午後6時半発もあったけどそれはレイト(Leito) と呼ばれるサロンカー。運賃は倍の700クルザード以上でちょっと手が出ない。安い普通バスにする。朝両替した20ドルが残り少なくなったので50ドル両替する。何処で聞いても1ドルはCr(クルザード)28とか、Cr27とか言う。街まで行って中国人経営の毛糸屋でCr29で替えてもらった。Cr29なら問題ない。スペイン語からポルトガル語になり言葉が少し不自由。スペイン語のように言いたいことが言えないのが残念。
ヒロとオルガ その二:
サンパウロのバスターミナルには、南パタゴニアで意気投合した日系人夫婦の夫のほう、ヒロが迎えにきてくれていた。南米の最果ての地で仲良くなった彼ら夫婦は、サンパウロに来たら宿を提供するから是非来てくれと熱心に勧めてくれた。ポルトアレグレでのバスの待ち時間に、彼らのあらかじめの指示にしたがい、コレクトコールで午後3時にバスターミナルに迎えに来てくれるよう電話しておいた。しかし、バスは遅れに遅れ何と2時間遅れでバスターミナルに着いたのだ。私は出迎えについてはあきらめていた。南米のニューヨークといってもいいくらいの大都市に、ひとりで降り立って、どうやってヒロとオルガの家に辿り着けばいいのか。バスの中でそのことばかりが気にかかって、不安であった。
午後5時過ぎ、バスはとてつもなく大きなバスターミナルに着いた。バスの中からヒロの姿を見たときには感激した。ヒロはなかなか来ないバスを到着予定の場所に立ってじっと待ってくれていたのだ。ヒロによればブラジルでは3時間とか4時間遅れるのは普通なのだそうだ。それ位かかるかもしれないと思っていたと言われた。本当に有難かった。
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私 オルガ ヒロ
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ブラジルに滞在した1ヶ月あまりのうち、あちこちに行きながら何回かサンパウロに戻り、合計2週間ほど彼らの家で過ごした。親身の世話を受けた。アーティストのヒロ、デザイナーの卵で裁縫をするオルガ。若夫婦は金持ちではないが、堅実な家庭を営んでいる。彼らの家に滞在中、2人は私を無二の友達、そして大切な客として接してくれた。時々私は、私がいることで経済的に大きな負担を強いているのではないか、また新婚旅行から帰ったばかりなのに、迷惑を掛けているのではないかと気を使った。しかし2人は私がいることを本当に喜んでくれていた。両親の家にも行った。兄弟と会ったり、友達の家にも連れて行ってくれた。彼らのおかげで、私はブラジルの日系社会をちょっとだけ覗くことができた。また通り過ぎるだけのつもりであったブラジルをじっくり見ることが出来た。思い出は深く、懐かしさは尽きない。
ブラジル遍歴:
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コルコバードの丘(704m)
リオデジャネイロ ブラジル
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サンパウロのヒロとオルガの家から半月のブラジル旅行に出かけた。リオデジャネイロまではバスで6時間、コルコバードの丘、Pao de acucar の丘(英語では Sugar Loaf、日本語で棒砂糖)、イバネバビーチ、コパカバーナビーチなど観光地を巡る。ブラジルを代表するような景色が、像が目の前にあった。鮮やかだ。
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Pao de Acucar(390m)の丘から リオデジャネイロ ブラジル
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左手遠景のドーム状の小山はコルコバードの丘 、下方はリオ市街
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コルコバードの丘から 右手前方のドーム状の小山はPao de Acucar の丘
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盗難:
リオからサルバドールに北上、バスで27時間もかかった。ここも大都会だった。ホテルで旅行をはじめてから3回目の盗難に遭う。被害はお財布の中の230クルザード(8米ドル)、カメラのストロボ(上等品),電卓。あきらめのつく物ばかりだ。部屋に鍵をかけ、すべての身の回り品をおいて、10分ほど外出したときの出来事だ。何と全現金入りの腹巻とデイパックの上段に入っていたカメラは無事だった。とられたものはすべてデイパックの下段に入れたものばかりだ。腹巻は食べ物の入ったショッピングバッグの下になって、ベッドに無造作に置かれていたのである。これが無くなったら旅行は即中止だった。一体どういう泥棒なのか。自分の幸運に感謝する。警察で盗難証明をもらうためにまた数日過ごすがホテルは変えた。
ブラジル遍歴続き:
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ブラジリア ブラジル
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ブラジルの内陸も見てみたくて首都のブラジリアに行くことにした。ベロオリゾンテまで、もと来た道を南下してから西に向かいブラジリアまでは22時間。バスは茅葺小屋の横で止まり,みんな降ろされ何かの注射をやっている。蚊の絵が書いてあったのでどうやらマラリアの予防注射らしい。ツベルクリンと同じ、はんこのように押す注射。消毒もせずにみんな並んで受けている。義務といわれたが、マラリアもイエローフィーバーもやっているといって逃げる。気持ち悪いし、それに肝炎とかエイズとかも心配だった。首都に入るだけなのに、こんな予防注射があるなんて驚く。ブラジリアは海抜1100メートルの高原に作られた計画都市である。歴史の全く感じられない学園都市のようなところだった。
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オーロプレット ブラジル
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ブラジリアからまたベロオリゾンテまで戻り、そこから北に200キロほどの田舎、ディアマンチーノに行った。5時間半かかる。最後の1時間半ぐらいの景色はすごかった。緑ゆたかなパタゴニアといった雄大な景色だ。後に見たブラジル映画の傑作
『セントラルステーション』で似たような風景を見てとても懐かしかった。ディアマンチーノからベロオリゾンテを経由して、山の中の小さな観光地オーロプレットによってからサンパウロに戻った。サンパウロから南部のクリチーバやパラナグアへも小旅行した。ブラジルは国が大きく、バスに乗っている時間が本当に長かった。何処へ行くのもベロオリゾンテを経由して行ったり来たりだった。ブラジルを陸路で行く旅は、時間に制限があったら難しいと思う。ブラジルはスペイン語圏ではないので、最初の予定では、サンパウロとリオだけで通り過ぎるはずであった。ヒロとオルガに会ったおかげで予想外の長い滞在となり、ブラジルの雄大さに堪能した。
パラグアイ:
1987年5月13日、サンパウロを出発、イグアスの滝の村でブラジルを出国、22時間のバスのたびの後やっとパラグアイの首都アスンシオンに着いた。ここでブラジルのオーロプレットで会ったイギリス人のアンと再会、一緒にアスンシオン見物。物価は安くとても安全だ。夕方1人で次の週の川登りの下見のため港に行く。ここでスイス人、ロルフとばったり会う。彼とはアルゼンチン、モレーノ氷河のキャンプ場で会ってから、チリのトーレス・デル・パイネ、プンタアレーナス、フエゴ島と何度も会っている。旧知に会い、苦労して旅をしたパタゴニアの日々が鮮やかに甦り、懐かしさも一入であった。1ヵ月後にはブエノスアイレスから貨物船でヨーロッパに帰るという。
今日は日曜日、ほとんどの店は閉まっている。閑散としたセントロを1人で歩いていて、政府要人であろう一行が街を通り過ぎるのを見た。先ず、2台のバイクに乗った兵士がサイレンを鳴らしながら行く。次にいい車、最後は小型バスのようなトラックのような車。座席は皆兵士で埋まり、ライフルを窓の外に突き出して、いつでも撃てるような体勢。1人で目の前でそれを見送るのは薄気味悪い。軍部独裁政権はなんとも物々しい。日本人はこういう光景に慣れていない。恐ろしい。
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川登りの船 コンセプシオン
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週末と祝日に重なり、アスンシオンには予定外の6泊となった。その後24時間かけて、貨物船のような船で川登りをしてコンセプシオンに行った。地面は何処も赤茶色、荷物の運搬は馬車、時代を何年もさかのぼったような感じ。港からバスターミナルまで10ブロック以上歩いた。メインストリートを抜けると舗装道路はない。途中、私のリュックを見て女の子が何を売っているの?と聞いてきた。人は皆素朴で、異邦人に親切、ここも安全な町だ。
バスターミナルでコルンバ行きのバスの券を買うつもりだった。雨季で大雨のため、何処に行くバスも道が破壊されてキャンセルになる。再開のめどは立っていないという。直ぐに港にまた歩いて戻る。こういう困難に遭うとショックを受けて座り込むのが普通であるが、私は直ぐに次のことを考えて行動に移す。これが長い一人旅で得た私の行動原則であった。翌日のアスンシオンに戻る船には、二等キャビンに空きがなく、シャワー・トイレつきの一等の券を買った。
計画ではコンセプシオンから500キロ真北にあるコルンバに陸路行ってから、西を目指しボリビアのサンタクルスに行く予定だった。これが雨季の大雨で不可能となり、アスンシオンからサンタクルスに飛行機で飛んだ。
パラグアイの物価:
パラグアイの通貨グアラニーは1アメリカドルに対し、780グアラニー。食事は500グアラニー、コーヒーは200、ホテルは2400グアラニー、3ドルだ。315キロを24時間かけての川登りの船旅は5人部屋の2等キャビンで3500、シャワー・トイレつきの1等は4900グアラニー(6.3ドル)だった。安い。ブラジルからキャンピングガスを持ち込んで自炊を始める。たまねぎ2個で50グアラニー、たった6セント、バナナ12本で150グアラニー、20セント以下だった。空港の入口で空港税を取られる。50グアラニー(6セント)、けち臭い。空港で荷物の重さを量る。16キロ。出国税は1200グアラニー、1.5ドル。めちゃくちゃ安い。日本では昔3000円ぐらい空港使用料を払っていた。
ボリビア入国時の全財産は次のとおりであった。ほとんどは腹巻の中に入っている。
日本円 現金9万円
米ドル 現金546ドル
米ドル・トラベラーズチェック 2290ドル
アルゼンチン 87.5アウストラル(50ドル弱)
ペルー 50インティー(2.5ドル)
チリ 12217ペソ(57ドル)
AMEXカード
サンタクルス(ボリビア) - コチャバンバ(ボリビア):
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道路崩壊
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サンタクルスは海抜516メートル、すぐ500キロ西の海抜2558メートルのコチャバンバを目指してバス旅行。道は山道に入り狭く、土を固めただけだ。がたがた揺れがすごい。途中土砂崩れで立ち往生、落ちたら死ぬという場所の連続、危ない。14時間あまりもかかってコチャバンバに着く。数日休んで今度は首都のラパス行きバスに乗る。またバスが止まる。山の中なのにすごい人、農民が一斉蜂起しているのだ。立ち往生している間にも人がどんどん増えてくる。止まっているバスの中に2時間ほどいて様子を見る。まずい。反対側のバスに乗り替えてコチャバンバに戻る。数日足止めされたが、今度は鉄道でなんとかラパスに着く。この間、列車は4000メートルぐらいの高地を走った。喉が痛く頭もふらふら。野生のリャマやアルパカも見た。
ラパス(ボリビア):
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ラパス市内
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ホテルの部屋から 1
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ラパスは世界で一番高いところにある首都である。空港は4000メートルを越えるところにある。上のほうには貧しい人たちが住み、下に行くにつれて暮らし向きはよくなる。高級住宅街は谷底である。標高差は700メートルもある。ホテルのある旧市街は一番上からちょっと降りたところ。山の斜面が街になっているのだ。降りるのはいいが、登るのは大変。すぐ疲れる。
これだけ高いと色がすごい。青い空と白い雲。近くの山。とにかく何もかも鮮やかだ。ホテルのあたりはインディオの人たちの商売の場所となっている。昔ながらの彼らの生活に触れることができる。南米らしい風物がいっぱいの、アンデス山中の喧騒の都市ラパスは私の大好きな町だ。ここからクスコへは2回往復し、ラパスには合計3回も滞在した。
昔見た
『明日に向かって撃て』という映画のラストシーンに、周りを包囲されて逃げ場を失った主人公のポールニューマンとロバートレッドフォードが,次はボリビアに行こうと話し合う場面があった。この映画を見た日からボリビアにずっと行きたかった。心の中でボリビアはどんなところだろうかと思い続けていたのだ。
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ホテルの部屋から 2
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ここに滞在している間に、南米の民俗音楽フォルクローレを何回も聞きに行った。有名なバンド、
カルカスのコンサートにも行った。ここでパタゴニアで一緒にトレッキングをしたイスラエル人のヴィヴィとばったり出会う(感動)。彼女と一緒にラパスからボンネットバスに揺られて小旅行に行ったりもした。彼女から
バルデス半島(アルゼンチン)に行こうと誘われたが、9月の母とのニュージーランドでの再会をひかえ、時間がないのであきらめた。バルデス半島はとても行きたかった場所だったので残念だった。
チチカカ湖(ボリビア、ペルー):
チチカカ湖はボリビアとペルーの国境にまたがる海抜3841メートルの高地にある大きな湖である。面積はびわ湖の約13倍というから大きさも想像できようというものである。湖面の約60%はペルー領、約40%がボリビア領である。首都のラパスからは158キロのバスのたび。途中ティキナ海峡をランチャで渡り、コパカバーナから太陽の島 (Isla del Sol) に行った。高地に海峡とは奇妙だが、大きな湖と小さな湖の間の狭くなった海面をこう呼んでいる。島の一番高いところからの景観は素晴らしい。どこまでも濃い湖の青と鮮やかな茶色の山々の対照。遠くには雪をかぶったアンデスの山並みが見える。静かで平和だ。
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チチカカ湖要図
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コパカバーナでボリビアを出国し、ペルーに入り大きな街プーノ (puno) に移る。タキーレ島 (Taquile) にランチャで行く。途中、葦の葉で作られた有名な浮島ウーロス島 による。歩くとふわふわ動き不思議な感じ。ところどころ、ずぼっと水の中にはまるところがあり、靴の中に水が入ってしまった。タキーレ島まではランチャで4時間かかった。民宿に泊まる。日干し煉瓦(アドべ)の素朴な部屋。トイレは外でドアのないアドべのトイレ。もちろん電気はない。アンデスの冬は本当に寒い。寝袋が欠かせなかった。タキーレ島からプーノに戻ったところで、長い間の憧れであったチチカカ湖のたびも終わった。
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タキーレ島にランチャでわたる
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葦の葉の浮島ウーロス島
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プーノ/クスコ間高山鉄道:
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高山鉄道 プーノ ペルー
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7ヶ月ぶりのクリスと高山鉄道の車中で会う ペルー
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1987年6月8日から15日までクスコとその周辺で過ごした。プーノからクスコまで11時間かかる有名な高山鉄道に乗ることも、ずっと長い間の憧れだった。景色はもちろんいいが、ラパスからチチカカ湖にかけてずっとアンデスの雄大な景色を見続けてきたわけで、とくに感激することもない。ここで一緒に過ごした仲間は次のとおりである。
コパカバーナから行動をともにしてきたドイツ女性、エルケ
この列車の中で7ヶ月ぶりに再会した米男性、クリス
私たちの前に座っていたペルー女性旅行者、ルイサとコティ
私とエルケ以外は別々のホテルに泊まったが、いつも一緒に行動して忽ち仲良くなった。有名なインカの遺跡マチュピチュにも一緒に行った。帰途はクスコには直接戻らず、小さな村々に各駅停車して、アンデスの奥深い山の中を探索した。インディオたちの生活に触れたり、小さなインカの遺跡を見たりした。6月15日はみんなで過ごす最後の日、5人全員で夕食をとった。16日朝、アレキーパに飛ぶエルケをクリスと私で空港で見送った。私は17日の夜行バスでプーノに戻る。クリスが見送ってくれた。
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クスコ全景 ペルー
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サクサイワマン遺跡 クスコ郊外 ペルー
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ワイナピチュ山頂に立ってマチュピチュ遺跡を眺める
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ルイサ クリス コティ 私 於クスコ
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インティライミー(インカのお祭り) クスコ郊外の村:
私の計画では、プーノからラパスに戻り、陸路南米の最終地チリのサンチャゴに向かうはずであった。具体的に言うと、ラパスからアンデス山脈に沿って南下する。ポトシを経由してアルゼンチンに入り、更に南下。南米で一番高い山、アコンカグアのふもとの観光地メンドーサから、サンチャゴに辿り着くというものだ。われながら夢のような壮大な計画であった。アンデス山脈のなかのいかにも交通不便そうな道々こそ、南米の最後を飾るに相応しい経路であると考えたものだった。
しかし、クスコを離れたとたんにインカトレイル(トレッキング)をやらなかったことを後悔した。また6月24日に、クスコのサクサイワマンの遺跡では一年に一度のインカの大きな祭りインティライミーが開かれる。アンデスにいながら、これを見ないで南米を離れるのは心残りであった。そこでラパスに3泊した後、夜行バスでクスコに戻った。陸路サンチャゴまで南下する計画はあきらめた。
6月24日朝、中央広場プラザデアルマスで行われたインティライミーの儀式を見る。その後11時ごろサクサイワマンに登る。遺跡と反対側の山、舞台に面した山の中腹に席を確保。いつもは閑散としているこの遺跡、いったい何人の人がいるのだろう。人がいっぱいの風景を見ているだけで飽きない。すごい迫力だ。パフォーマンスは2時に始まって1時間半続いた。隣にいたペルー人の女の子が儀式の説明をずっとしてくれた。以前テレビで見たことはあったが、その中に自分が実際にいるのだ。クスコ最大の祭りの現場に居合わせたことは、南米の最後を飾るに相応しい体験であった。来てよかった。
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お祭り1 クスコ
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お祭り2 クスコ
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インカトレイル(インカ道のトレッキング):
6月25日、クスコからKM88という地点まで列車で行き、そこから歩きはじめる。終着点はマチュピチュの遺跡である。3泊4日の行程。ホテルで仲良くなったドイツ女性ウテとエリー、オーストラリア女性アン、ずっとクスコに残っていたクリスと、アメリカから休暇を利用してクリスに会いに来ているガールフレンドのシンディー、その他合計9人のトレッキングであった。大雨で出発を数時間見合わせ。雨がやむのを待って出発。
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インカトレイル 出発
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背後の看板には 「インカトレイルにようこそ」 と書いてある
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高い山を3回ぐらい越える。最初の山 (4200m) はさすがに辛かった。2日目の夜は雨に降られた。テントの中に雨が入り、羽毛の寝袋が雨にぬれてぺちゃんこになり、凍えるような寒さを味わった。これは本当に苦しかった。3日目からは今までの悪天候が嘘のようにきれいに晴れる。3日目の朝、出発までに寝袋を乾かす。しかし身体は凍りついたままで回復せず、ウテが私を抱いて体温で暖めてくれた。友情によってこの難関を克服。それでも日記には、パタゴニアのトーレス・デル・パイネを歩いたときの寒さに比べると我慢の範囲、と書いてある。
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インカトレイル 仲間と
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インカトレイル マチュピチュ
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3日目、4日目はいいお天気で山景色を楽しみながら歩く。最後のマチュピチュ遺跡までは簡単な道である。食べ物も減って荷物も軽くなっていたので、走るようにして歩いた。4日目のお昼頃マチュピチュに到着。いつもなら山の下から遺跡を目指して登るのに、今回は遺跡を見下ろしながら遺跡に入る。遺跡が見えたところでみんなで記念写真をとった。のんびり遺跡を歩くみんなを残し、遺跡の後ろに聳えるワイナピチュにウテと登る。ワイナピチュに登るのも今回で3回目である。3年前にはじめて登ったときは辛かったが、2回目はそうでもなかった。今回も急な山道なのに40分ぐらいであっという間に登ってしまった。自分が本当に強くなったと感じる。この山に登るといつも、自分が世界の一番頂上にいるような気になる。
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インカトレイル マチュピチュ到着
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左から私、シンディー、アン、ウテ、エリー、クリス
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南米最後の日々:
マチュピチュのふもとの村、アグアスカリエンテスに1泊してクスコに戻る。クスコまで2等の列車は超満員で、4時間半以上立ちっぱなしで疲れた。日記によると、ジーパン、セーター、トレーナーを洗濯に出した。ジーパンはサンパウロ以来2ヶ月ぶりの洗濯と書いてある。冬のアンデスではジーパンを氷のように冷たい水で手で洗うことができなかったのだ。
クスコに5泊、その間にプーノに発つウテとエリーを見送る。仲良くなった友人を何度も見送っているが、そのたびに寂しくなる。ウテとはとくに気が合った。彼女のキャンピング用品の中から、水色の小さなプラスティックの器をもらった。20年たった今でも卵を溶いたりして、現役でオーストラリアの我が家で活躍している。何ということもない入れ物に、こんな素晴らしい私の思い出が刻まれている。
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マチュピチュのふもと、アグアスカリエンテス駅にて
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左からアン、ウテ、私
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初めてラパスを出てクスコに向かってから1ヶ月以上が経った。チチカカ湖、クスコ、インディオの村々、インティライミー、インカトレイルと素晴らしい経験の連続、友人にも恵まれた。クリスとも再会できた。素敵な思い出がいっぱいのクスコを出たのは7月4日、インカトレイルを一緒に歩いたアンとともに、再び列車でプーノに行った。ラパスに行く途中、コパカバーナでウテとエリーに再会、彼女らはラパスからプーノに戻るところだった。
ラパスへの途中、2週間前には全くなかった雪を諸所で見た。コパカバーナを出てからは山や丘がうっすらと雪化粧、チチカカ湖の景色も今までになくきれいだった。2週間ぶりのラパスは前より一層寒く、足が氷のようになった。
ラパスのホテルでイスラエル女性ヴィヴィと再会した。4ヶ月ぶりだ。彼女たちと一緒に10日間にわたってトレッキングした、南パタゴニアのトーレス・デル・パイネ国立公園のたびが懐かしい。彼女と3泊4日でチュルマーニとイルパナに小旅行をした。4850メートルからたった4時間で2000メートル弱まで降りる。大きなバナナの木が生い茂っているトロピカルな感じのところだった。
10日間ほどラパスに滞在して、1987年7月16日にラパス・エルアルト空港からサンチャゴに飛んだ。天気がよく、4千、5千メートル級のアンデス山脈の上を飛んでいるので、気分的には低空飛行をしている感じ。飛行機は途中から雲の中に入る。雲から出たらあっという間にサンチャゴだった。周りのアンデスの山々は真っ白だ。今まで見てきたアンデスとは全く違う。スイスに来た気分と日記には書いている。サンチャゴはラパスよりずっと低いので暖かいだろうと思っていたところ完全な真冬だ。市街はセピア色に包まれ、古いヨーロッパの町にいるような感じだった。飛行機の予約とかいろいろ雑用をしながら10日間、大好きなサンチャゴで過ごす。
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アコンカグア(6960m) メンドーサ アルゼンチン
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昨年12月21日にコロンビアのボゴタからはじめた南米大陸のたびも、これで終わりを迎えた。この7ヶ月を長い間憧れ続けて来た夢の大陸で過ごした。南米大陸の旅は私の世界一周旅行の文句なしのハイライトとなった。1987年7月26日、寒いサンチャゴから冬でも暑いイースター島に向かった。離陸時にアコンカグアが見える席をもらったが、あいにく雲が低く近くの山しか見えなかった。アコンカグアの近くにいけなかったことは、この南米のたびの心残りの一つとなった。印象的な雪山のアンデスに心の中で別れを告げながら、飛行機はイースター島に向かって飛び続ける。あまりの南米への愛着から、ランチリ航空の毛布とスプーンとフォークを思い出にもらうことにした。スプーンとフォークは今でも私が会社に持っていく必需品となっている。
南太平洋、オセアニア
イースター島:
サンチャゴからイースター島までは空路5時間20分。この島は面積163平方キロというからわが国ではさしあたり北海道の利尻島ぐらいの大きさである。物価が高い。何でもサンチャゴの2倍かそれ以上。サンチャゴで1キロ買えたたまねぎが、同じ値段で1個しか買えない。蚊が多い。蚊取り線香が必要。雨もよく降る。
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遠景はモアイの列 イースター島 チリ
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島に散らばっているモアイの遺跡を見るのにも路線バスというようなものはない。あるのは団体旅行の観光バスぐらいだ。どこに行くのも歩く。道と草原の区別が難しくすぐに迷子になる。迷子になってもかまわず草原を真っ直ぐに進む。空港のあるハンガロアを基地にして見所を往復するのは、片道だけ無駄だ。無駄を省くために2泊3日で、周回60キロメートルの島を歩いて一周することにする。一日目はハンガロアからラノララク火山まで、二日目はラノララクにあるモアイ像を見物してアナケナまで歩く。2日とも国立公園の管理人の小屋に泊めてもらった。私のように歩いてくる旅行者は珍しく、どこに行っても歓迎される。
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モアイ群像 イースター島 チリ
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モアイ像 イースター島 チリ
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写真で有名なモアイだけでなく、名もなく忘れ去られている遺跡をくまなく見る。そういうところは観光客など来ないので、人と誰にも会うことはない。遺跡と草原と海と私だけ。やることはすべてやりつくし、1週間後にタヒチに向けて飛んだ。村人からもらった石のモアイは4キロもあった。タヒチまでは持っていたがその後どうなったか覚えていない。イースター島の空港で手紙を何通も頼まれた。イースター島とタヒチの間には郵便がないそうだ。普通なら断るがみんな引き受けた。イースター島は本当にどこからも孤立した島だった。
南米を出てからは南米の思い出を引きずって旅を続ける。イスラエル人の友だちヴィヴィにもらって、ウォークマンで聞いていたキューバのシンガーソングライター、
シルヴィオロドリーゲスのテープを四六時中聴きながら旅を続けた。
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孤独 イースター島 チリ
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注:
フリー百科事典 『ウィキペディア』 によると、「イースター島は徒歩でも観光できると思われるが、比較的大きな島で、不可能ではないにしろ、徒歩で観光するには相当の体力をようする」 とある。娘は周回60キロのこの島を、16キロもあるリュックを担いで歩いて回ったのだ。娘は旅行のこの時期には 「相当の体力」 を持っていたのだろう。
タヒチ島:
フランス領ポリネシアのタヒチ。南太平洋有数のリゾート地。画家のゴーギャンが晩年移り住んだところとしても知られている。8泊する。首都のパペーテの空港から町にバスで行き、ホテル探しをするがあまりの物価高に大きなショックを受ける。おまけにホテルが見つからない。夜になってしまう。警察に助けを求め、安いホテルを教えてもらったが、行ってみたら閉まっていた。完全に運にも見放され、空港で寝ようと決めバスで空港に戻った。そこであった白人のおばさんが何と民間ユースホステルのおばさんで、車で連れて行ってくれた。午後4時半にパペーテの空港について、宿に着いたのは8時過ぎ。おそらくパペーテで一番安い宿に来たわけだ。それでも高いと日記には書いてある。宿代1200フラン(1700円)、カフェでコーラ350フラン(490円)タバコ322フラン(450円)。8泊9日を日本円2万円(14000フラン)でやる予定にしているのでショックが大きい。
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モーレア島 フランス領ポリネシア
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パペーテから貨物と人で超満員の貨物船に7時間乗ってフアヒネ島に行く。1100フラン(1500円)。4泊する。ホステルは800フラン(1150円)。物価高で外食は不可能。一日3食ホステルで自炊する。レンタサイクルで島を回る。帰りも貨物船でパペーテに戻る。遅れに遅れ10時間かかり、真夜中にパペーテに着いた。日記には町に向かって歩くとある。夜中に歩けるということは治安がすこぶる良かったのだと思う。しかしトラックが止まってくれて荷台に乗って町に入る。パペーテから有名なモーレア島にも日帰りで行った。フアヒネ島もモーレア島も、美しい山並みとブルーのラグーンが観光の目玉である。南米から来ると物価高は衝撃的であったが、何とか予算の2万円でやった。しかしそれには努力が必要で、外では1回も食べず、すべて自炊でまかなった。スーパーで日本のインスタントラーメンを見つけ、我慢できず買った。60フラン(85円)。
ニュージーランド・オーストラリア:
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マウントクック(3754m) ニュージーランド南島
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1987年8月10日、タヒチ島のパペーテからニュージーランドのオークランドに飛ぶ。3泊してすぐに南島に向かう。8月末、オークランドに日本から母が来る。それまで約2週間を南島で過ごす。ニュージーランドで一番高い山マウントクックを見ても、泥で汚れた汚い氷河を見ても、そのたびに南米の景色を思い出してしまう。美しいといわれているニュージーランドの自然を素直に評価するのが難しかった。きれいだけど、自然のスケールが南米に比べるとはるかに小さい。ハイキングコースなどもきちっと整備されていて簡単だった。簡単だと物足りなく感じる。宿泊はすべてユースホステル。日本人の若者がどこでもいっぱい滞在している。ここでも自炊を続けるが、メニュはいつもビーフステーキだった。安くて大きくてやわらかい。肉じゃがもよく作った。
1987年8月29日、ニュージーランド北島のオークランド空港で、日本から飛来した母親と落ち合った。
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母と娘 ニュージーランド北島 ロトルア 1987年9月
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ツアーでの贅沢な旅行に慣れている母にとって、何ごとも自分の責任で決めて、実行しなければならない個人旅行は、随分神経を使う、つかれる旅であった。9月1日、ロトルアでゴンドラに乗るためにタクシーで行ったものの、帰りはバスもタクシーも何もなく、母を連れて初めてのヒッチハイクをやった。10分ぐらいで止まってくれた。
毎日そんなに歩いてないのに、ホテルに着いた後や夜は2人ともすごく疲れた。まだ午後9時半だというのに、母はもういびきをかいて眠っている。重いスーツケースはできるだけ私が運ぶようにした。母は他にも一つデイパックを背負っていて、重い貴重品ハンドバッグをたすき掛けにしている。新しい土地に着いても、ホテルを決めるまではこの格好でうろうろしなければならない。至れり尽くせりのパッケージツアーしかしたことのない母にとっては疲れるたびに違いない。ウエリントンで2泊した後、北島の東海岸を北上して再びオークランドへ。オークランド港には環境問題で有名なグリーンピースの船が泊まっていた。
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オークランド港 ニュージーランド北島
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オークランドからシドニーへ飛ぶ。オーストラリアではシドニー、ブルーマウンテン、キャンベラ、メルボルンを見る。母の希望でオーストラリアでは、観光バスを利用してのんびり滞在型のたびをした。9月20日、シドニー空港から母は帰国し、私はオーストラリアのたびを続ける。
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シドニー空港から母帰国 オーストラリア
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コアラを抱く 今は禁止されている シドニー
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エアーズロック オーストラリア
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まとめ
旅行ガイドブック:
旅行ガイドブックとしては、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカでは日本語のガイドブックを使った。そのためにこれらの地域では日本人に会い、日本人と行動することも多かった。中米、南米では英語のガイドブックを使った。そのためにこれらの地域では外国人に会い外国人と行動を共にすることが多くなった。
日本人の旅行者は世界中を経巡っているので、どこに行っても会うことは会うが、中米、南米では少なくなった。これらの地方で会う日本人は滞在型の人が少なくない。好奇心と冒険心の旺盛な私は、お金をかけずに冒険を楽しめる白人型の旅行に惹かれた。いきおい白人の旅行者と行動を共にすることが多くなる。彼らのおかげで絶対にできないと思っていたこともできたし、多くの外人の友人を得た。出会いの楽しみ、別れの寂しさ、そして別の土地でばったり再会したときの感激。これらの経験は私の終生の財産である。一人旅は基本的にはいつも一人である。独りで決めて行動し、誰にも相談できない。それだけに気の会う旅行者と一緒に過ごせる時間はとても貴重で、楽しいときであった。
何歳ですか:
そんな白人旅行者の友だちや、新しい土地で知り合う地元の人たちが、いつも私に同じ質問をしてきた。私が何歳かと聞くのである。日本では婚期を逃し、一般常識から脱線することを恐れていた。。自分は別にいいのだが、周りが何となくそんな風に思っている。そんな時代だった。日本では、外人は女性に絶対に年齢を聞かない、女性に歳を聞くのは失礼なことだと聞いていた。ということは旅行に出れば自分の歳を気にしなくていいことになる。年齢の悩みから開放されるのだ。それがすごく楽しみだった。ところがどこに行っても、誰に会っても、幾つ?、幾つ?と聞かれ続けたのだ。理由は子どもの私が何故壮大な世界一周旅行をしているのか不思議に思うからであった。私は、誰から見ても12歳から17歳ぐらいにしか見えないようであった。女性に歳を聞くのは失礼でも、子どもに歳を聞くのはオーケーなのである。
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これで17歳に見られた 於バーニー ガイドフォールズ 1988年3月写す
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また同じような理由から、どうやって2年半も自宅に帰ることなく世界を回れるのか、といつも聞かれた。子どもが何でまた、どうやって2年半も世界を放浪できるのかというわけである。親が金持ちだと思う人が一番多かった。この2つの質問を2年半にわたって毎日訊かれつづけ、結局、外国に行っても自分の年齢から解放されることはなかった。白人の旅行者も長く旅行をしている人はいるのだが、私ほど長く、世界中を回っている人はいなかった。私の行動は、自由な発想を持つ白人たちをも驚かせた。
南アのアパルトヘイト (人種隔離政策):
もう一つ白人の旅行者によく聞かれた問題がある。それは南アフリカのたびの印象がどうだったか、ということだ。あの当時、南アは過渡期ではあるが未だアパルトヘイトの政策が続いていた。新聞やテレビでは毎日のように南アの暴動やら爆発やら、そんなニュースが見られた。したがって、南アには怖くて行けないという人が多かったのである。そんな旅行者は皆ジンバブエどまりだった。私は3年前のペルー旅行で知りあった南アの友達を頼って、怖いけれど行ってしまった。しかも1ヵ月半も滞在した。怖い思いはしなかったが、白人の住宅には必ず大きな犬がいて家を守っていた。また外国からの旅行者には全く会わなかった。
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椅子の背もたれには白人専用と書いてある ケープタウン
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南アの人たちは皆親切で、はるばるやってきた私を本当に歓迎してくれた。バスの中でも街の中でも、来てくれて有難うと何度も言われた。知らない人が話しかけてきて私に有難うと言うのである。南アを出てからの旅行中、私に南アの事を聞いてくる人たちの中には、私が南アの人たちがどんなに素晴らしかったか説明すると、怒りだしてしまう人もいた。南アの白人は皆悪者だと思っているのである。何歳?、何故2年半も旅行できるの?、南アはどうだった?、この三つの質問は毎日のように聞かれていたので、どうやって答えるか頭の中で準備ができており、いつもテープを流すように答えていた。
広島 :
わたしのパスポートの本籍は広島だった。広島は父の出身県であった。どんなところへ行っても、入国出国などで私のパスポートを見る人は広島のことを知っていた。アフリカの小さな国とか、中米の国々とか、どんな僻地でも広島は有名であった。大学出の学問のある人の話ではない。日本がどこにあるかわからないようなおじさん、おばさんが広島を知っているのである。本当に驚いた。父の生まれ故郷に過ぎないのだが、私はいつも広島から来たと言っていた。何処かの博物館か美術館で、私が広島から来たことを知ると、入場料をただにしてくれた。何回かそういうことがあった。頭をなでられたこともあった。原爆の広島から、はるばるとよく来たという感じなのである。もちろん、出あう白人の旅行者は全員広島のことを知っていた。長崎を知っている人も多かった。広い世界でただ2箇所、原子爆弾を浴びていることの重さを思い知らされた。旅行中の意外な発見であった。
辛かった食事:
一人旅で一番つらかったのは食事である。とくに、ヨーロッパではレストランなどは一人ではいるところではない。誰かと一緒に行って楽しく食事をしながら過ごすところである。お金はあるのに、レストランの前を何度も何度も行ったり来たりして、結局入れない。きっと、入っても一人ぽっちで惨めな気持ちで食事をするに違いない。ヨーロッパでマクドナルドなどを見ると、ああこれで食べることが出来るとほっとしたものだ。この問題は旅行中ずっと続いた。私には本当につらかった。誰かと一緒に行動しているときには、ああこれで食事の心配はないと安心した。南米からは自炊を始めた。これでやっと食べることが楽になった。荷物は重くなったが、地元のスーパーやインディオのメルカード (市場) などに行く楽しみも増えた。
洗濯:
洗濯はすべて手洗いだった。身体を洗う石鹸で自分で洗って、自分で絞って、部屋にロープを張ったりして乾かした。ほころびたり、穴の開いた洋服は下着にいたるまで針と糸で縫い、ぼろぼろになるまで着続けた。靴は何足も履きつぶし、何回となく新しいものを買った。そのたびに新しい靴に慣れるまで苦労したことを覚えている。
旅行の記録:
日本の家には二日に一度を目標に絵葉書を出した。350通は出している。将来自分の思い出としようと思ってのことであった。しかし、この20年の間に、引越しなどでほとんどなくなってしまった。私に残っているのは、ずっと書き続けた日記、月別スケジュール表そして旅の間ずっと続けていたスクラップブックである。乗り物の切符やガムの包み紙や使い残したきれいな紙幣やコインにいたるまで、スクラップブックに貼り付け、値段とか日時とか簡単に書き入れていた。6冊ある。出来上がるたびに日本に送っていた。今はもうのりが乾ききっている。スクラップブックを開けると、貼ったものがみんな剥がれ落ちてくるので、あまり開けないようにしている。いつか暇になったらきちっと貼りなおしたい。写真もある。撮るたびに日にちと場所を記録していた。将来ちゃんとしたアルバムを作る予定だった。しかしその紙切れの束もどこかにいってしまい、一応順番どおりアルバムに入ってはいるものの、どこだかわからないもののほうが多い。残念だ。
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旅行中に作ったスクラップブック
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今回の旅行記ではこれらの資料を参考にした。しかし一番役に立ったのは日記だった。一人旅の寂しさを紛らわすために、また記録として残すためにかなり詳しく書いていた。ほとんど毎日つけている。お小遣い帳もかねていた。文章を書かなかった日も、必ず日付と土地の名前、天気と出費の記録だけは欠かさなかった。文章がない日は驚くほど少ない。数えるほどしかない。毎日、何をやって何を感じたか、そういうことを詳しく書いていた。20年以上経って忘れていたことも、日記を読むと驚くほど鮮明にいろんなことを思い出した。
結び:
毎日働いているので忙しく、旅行記を入力して、イーメールで父宛に送信するのも大儀で面倒な仕事であった。自分にとってはまだ過去を振り返るときではないと思っていた。最後の親孝行をしようと、いやいやながらやり続けたのであった。しかしこれをやったおかげで、今まで忘れていた、見知らぬ土地に行って見たい、新しいものを見てみたいという感情が再び甦ってきた。書きながらすぐ脱線し、インターネットで南米の情報など調べ始めるのであった。やり始めると止まらず、夜遅くまでコンピューターの前で過ごす。一年に4週間ある休みでどうやって南米に行くか、リュックを背負ってではなく、スーツケースをガラガラ引きずってどんなたびができるか。そんなことを考えはじめると止まらなくなってしまい、書いている時間よりも、コンピューターで旅をしている時間のほうが長くなった。主人と2年後には南米に行こうという目標を決めた。スペイン語もまた始めなければいけない。これからはホリデーに行くために働きたい。
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自宅での結婚式、両親と
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新婚旅行 ホバート州立植物園にて
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1988年1月、私は、オーストラリアのタスマニア州旅行中に知りあった英国人デビッド・フレッチャーと結婚した。結婚式には両親がはるばる日本からやってきて出席してくれた。タスマニアのバス海峡に面するサマセットという街に新居を定めた。ここで3人の子どもを育てた。その後1997年6月、西豪州の州都パース郊外の町に転居して現在にいたっている。長女は独立して、美容師の修行中。長男は在宅で食品会社に勤めている。次男はハイスクールに在学しながらプランバー修業中。夫婦二人きりになる時期も近い。
2008年8月、私たち夫婦は会社の休暇を利用してタスマニア島を訪れた。結婚以来12年間、新家庭の建設に苦闘した旧居を見るのもこの旅行の大きな目的のひとつであった。旧居の新しい住人は、元の所有者であった私たちのことをよく覚えていて、歓迎してくれた。旧居は小高い丘の上に立っている。親は車で出入りするから問題ないが、子どもたちは、幼稚園、小学校、中学校と徒歩で毎日この坂を上り下りした。子どもらの出産時には私は隣町バーニーの病院に入院した。入院中は子どもらの面倒をみるために日本から母が来てくれた。玄関に立って北にあたる海のほうを見ると、左にはバス海峡に長く突出するテーブル岬が見える。懐かしい風景。暫し懐旧の情に浸った。
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坂の上の白い家 サマセット タスマニア
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坂の上の家から北方バス海峡を望む 左はテーブル岬
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編集者のあとがき
娘の旅行記を入れた動機:
先ずこの旅行記を私のホームページに組み入れた動機について説明しておきたい。
今から20数年前の娘ひろ子の世界一周旅行の記録を、『私の昭和史』 の番外編として残しておこうと思ったのは、このホームページを開設してから間もなくの平成15年頃のことであった。ホームページの目次にも、将来の予定として 「娘の世界一周旅行」
の文字を入れた。これを見て、あなたのような男性の自分史よりも、娘さんの旅行記のほうに関心があるという親類の女の子も現れた。オーストラリアに住み、ほとんど毎年のように日本に帰ってくる娘から、旅行のはなしをきいてメモにとったりした。しかし、2年半にわたる世界一周旅行の記録を、聞き書きのメモから起こして、一般の人に納得してもらう文章に直すのは
不可能と直ぐにわかった。娘自身に手記を書かせる以外には、人に示せる旅行記を残すことはできないのだ。
当時娘は、勤めていた法律事務所をやめて、半公半民の養護施設の会計係として転職したばかりであった。日記やメモを参照し、記憶を思い出しながら旅行記を書くのは、夕食後の後片付けをしてから寝るまでの時間である。昔の旅行のことを思い出したり書いたりしていると、次第に思考がその時代にさかのぼっていき、次から次へと思い出が甦って眠ろうとしても、眠れなくなる。夜眠れないとサラリーマンは勤まらない。娘は、お父さんのような悠々自適の遊び人とは立場が違うと文句をいうのである。20年も前の旅行の記録を作成するのは、たとえそれが文章の原稿ではなく、メモ状のものであっても、容易ではないというのである。
娘の言い分はもっともなので、私の自分史の中に娘の旅行記を入れるという当初の計画はあきらめた。ホームページの目次からも 「娘の世界一周旅行」 の項目を削除した。しかし、私の人生の最終段階になって、自分史を完結させて、ホームページを閉じるに当たり、当初の計画をやめるのは如何にも残念と思うようになった。娘としても彼女の人生の最大な事件である世界一周を、一応まとめておくことは必要ではないか、娘の子どもたちに、母親の人生の転機を書き残しておくことは有意義なことではないかと、私は娘をふたたび説得した。新職場にもなれてきて、私の説得に応ずる心の余裕もできていたのだろう。娘は重い腰を上げて原稿作成に取り掛かる。今年 (平成20年)初めから旅行記の原稿をイーメールで送ってくるようになった。
経済専門学校 TAFE:
娘は家計を助けるためと自分自身の生きがいのために、子どもが成長して高学年になったら就職をするつもりであった。有利な就職をするためには特殊な技能が必要である。そこで平成13年、TAFE と略称される経済専門学校に入学した。フルネームは Technical and Further Education という。ハイスクールを卒業して、大学に進学しないが、就職までに、専門の技術を身につける学校である。戦前の日本の高等商業学校の教科から教養部門を除いたものといえばいえようか。娘は西オーストラリア州の州都、パースにあるこの学校に毎日、車を運転して通学した。
40歳を過ぎた娘はこの学校で3年間、二十歳前後の若者と机を並べて勉強した。専攻科目は税法、会社法、経理実務、秘書実務、パソコンなどなど。会社や官庁の経理、総務部門に就職するためには必須の知識である。
パソコンの授業の打ち上げで、生徒は各自パワーポイントを使ってスライドショウを作る作業を課された。これをスクリーンに投射して内容を説明するというのが課題である。娘はそのときから十数年前の世界一周旅行を題材にしてこの課題を仕上げた。「補遺 その三」 の末尾に、このスライドショウの冒頭の部分を掲げたので参考にしてください。
画像の選択:
旅行記に写真や地図はつき物である。適切な写真や地図が適切な場所に挿入されることによって、その旅行記の魅力は増すであろう。『ひろ子の世界一周旅行』においては、次のような優先順位を設けて画像を挿入した。
1.本人のカメラで撮った写真
2.ウィキペディア(Wikipedia、free encyclopedia、無料の百科事典)の写真と地図
3.無料の写真(Free photos)
4.その他
以上のうち娘のカメラでとった写真が全体の約90%を占める。「ウィキペディアの写真」と「無料の写真」 のうち、画面にコピーの条件が明示されているものについてはそれによった。明示されていないものについては、本文または画像の下に、借用したホームページのタイトルを示して借用のものであることを明らかにした。
地図は全部で11葉挿入した。これはインターネットの白地図と帝国書院発行 『エッセンシャルアトラス』、それにウィキペディアから借用した。これは余談だが、娘は2年半の旅行中数百枚の絵葉書や手紙をくれた。そこには聞いたこともない地名が頻出する。日本語で市販されている地図帳には載っていない地名が出てくるのだ。そこでGEORGE PHILIP社製 『MODERN HOME ATLAS』 を購入した。難しい地名に出くわす都度、この本を参照した。娘は旅行ガイドブックには載っていないような辺鄙な小村にもよく行った。この地図帳は大部なものではないが、娘の足跡のほとんどを辿ることができた。結局、私は帝国書院の地図とジョージフィリップ社の地図を座右において、娘の旅の経路を辿りながら、この旅行記を編集した。
この章の構成:
この章を読了された方は、題名を世界一周旅行と謳いながら、遍歴した各大陸、各国に満遍なく記述が行き渡っていないことに気づかれたであろう。中南米がいやに詳しいと思うと、西欧文明国の記述はまことに少ない。北欧三国、フランス、ドイツ、イタリアに若干の言及が為されている程度である。イギリス、スペインにいたっては皆無といってもいい。要するに全体の叙述にバランスが取れていないのである。編集者としてはこの点を追求せざるをえない。娘の言い分は次のとおりである。
もともとこの旅行記は旅行案内として書いたものではない。足を棒にして世界各地を放浪したが、私が行った場所がどんなところであったかを紹介するのが目的ではない。私の足あとの軌跡を書くのが目的ではない。あえて言えば精神の軌跡を書くのが目的である。私の精神に影響を及ぼすことの少なかった場所は、文明国であれ発展途上国であれ、記事が少なくなるのは当然である。私の精神と肉体にもっとも強烈な影響を与えたのは、中南米での体験である。旅行全体の印象からいえば、その7割が中南米の印象である。
旅行した本人がそういうのである。編集者としては如何ともしがたい。若い女性の旅行記である。もともと私はこの旅行記を、精選された写真を配して、清新で軽妙なものにしたかった。結果は、素人の旅行アルバムに記事を付け加えた泥臭いものになってしまった。
趣味は映画:
ここで取り上げた娘の手記中に映画の題名がしばしば出てくる。娘の趣味は映画であった。中学高学年から、高校、大学、更に大学を卒業して就職をしてからも、封切の洋画は欠かさず見ていたようである。大学受験に当たって、私は父親として二つの条件を付けた。4年制大学に行くこと、浪人することは許さないこと。この二つであった。この2条件を充たして大学生になった娘は、芸術学部映画学科に入った。人生の進路の選択という重大事と、怪しげな趣味とを混同しているとして、私は心中腹を立てた。大体、映画などという演劇の一部門が学問の名を僭称するのは片腹痛い。大学に映画学科などの部門を設けるのは、学問を冒涜するものだと当時は思っていた。しかしそうは思ったが口には出さなかった。というのは娘が高校生になってからというもの、親として娘の行動に容喙したことはなかったのだ。自由放任といえば言えようか。ここに来て娘の選択にイチャモンをつけるのには、臆するところがあった。
文学部国文学科とか英文学科というのが常識的な選択であったろう。まあしかし、女の子は結婚すれば両親の監督下を離れる。あとは伴侶と手を携えて人生行路を開拓していくほかはない。大学で法律を学ぼうが、経済をやろうがあるいは文学をやろうが、それが結婚以後の人生に何ほどの役に立とうか。私は 「人間、
女に生まれる事なかれ。一代の禍福、他人による」 という太平記のフレーズに共感を持っていた。当時の私は保守的な女性観を持っていたのだ。娘が大学で趣味の映画を見ながら4年間を過ごすというのは、高い授業料を払う親としては大いに不満ではあったが、それを敢えて口にしないほどには開明的な親でもあった。
趣味の映画が、娘を世界一周旅行に駆り立てた重要な原因であった。娘の手記中に映画の題名が頻出することは、このことを立証している。また、映画で見た画面を、実際に訪れて感心したり、感激したりしていることもそうである。北米の章などでは、映画の画面に従って歩き回っている様子が書かれている。世界一周旅行の計画で、訪問地の選択に長い時間がかかったといっているが、おそらく映画が旅行案内として重要な役割を果たしたのだろう。娘の旅行記に映画の題名が出てくる都度、インターネットのホームページにリンクを張ったので見てください。
付録
894Days Around The World
2年半の世界一周旅行
BY
制作者
Hiroko Fletcher
ヒロコ フレッチャ-
Ex-World Trotter
元世界一周旅行者
25 June 1985-02 Dec 1987
昭和60年6月25日-昭和62年12月2日
・A backpacker
travelling alone
一人旅のバックパッカー
・5 Continents:
Eurasia
Africa
North America
South America
Oceania
五大陸踏破:
ユーラシア
アフリカ
北米
南米
オセアニア
・Total of 50 countries
50カ国訪問