幼年時代

自然環境

 中国地方の瀬戸内海に面する農漁村で私は生まれ、幼年時代、少年時代をそこで育った。私が小学校に上がる頃、すなはち昭和7年(1932)に人口は約4千人程であった。農業は米作が主であるが、間作に煙草と馬鈴薯の栽培が盛んで、農家はおおむね裕福であった。一方、漁業は一本釣りが主な収入源であった。早朝の3時か4時に自家用の小型漁船で出漁し、その漁獲を女房が盤台に入れて頭に載せ、8時ごろ市場に運んで村人に売りさばいた。時にぼらの大群が押し寄せることがあり、そういうときには漁師総出で共同で網を入れていた。どの漁村にも岬の小高い丘の上に物見やぐらがあり、シーズンには漁師が交代でぼらの見張りに立っていた。漁師の生活はおおむね貧しかった。

 私の家は農業部落の入口にあった。家の前の県道を呉市と竹原町を結ぶバスが1日に1往復していた。小学校の運動部でドッジボールやバレーボールの他校との試合があるときには船を仕立てて遠征する。鉄道が開設されたのは私が小学校3年生のときであった。こういう文明に取り残された僻村であったから、幼児は外で泥だらけになって遊ぶ以外に時間つぶしの方法はなかった。家の外を流れる小川の水溜りで盥を浮かべて遊んだのが私の幼年時代の数少ない記憶の一つである。家の周りは田んぼであったので蛙釣りをよくやった。食事中ポケットから蛙を取り出して食卓の上で跳ばして父親に怒られたと後年母の話に出た。

家庭環境

昭和10年4月の岡野家

写真説明

前列左から
姉 民子 13歳 祖母 ツタ 56歳 母 ミチエ 37歳
後列左から
松本先生(当時わが家に下宿していた) 私 10歳 父 玖市 37歳
この写真は昭和10年(1935)4月、わが家の2階居間にて写す。姉の女学校入学記念であろう。当時わが村には写真屋はなく、写真撮影には隣町の日の丸写真館まで行くか、同写真館の出張撮影によるほかなかった。

 父は村の大百姓の5人兄弟姉妹の末っ子であった。当時の日本は長子相続制であった。長男の任務は先祖伝来の田畑の維持と墳墓の管理である。次男以下の男子は他郷に働きに出るか、男子のいない家庭に入り婿として入るかのどちらかであった。父は男子のいない岡野家の一人娘の婿養子に入ったわけだ。父と母はわが村の小学校の同級生であった。しかし勿論、恋愛結婚ではない。父は小学校高等科2年を卒業してから県庁所在地の広島市で大きな洋服屋に勤めて、洋服縫製の技術を学んだ。丁稚奉公である。母も同じく高等科を卒業後、広島市の日赤の看護学校に入り助産学を学んだ。村で産婆を開業して自立するためである。父は数年の修業の後、家を継いでいる長男から幾らかの財産を分けてもらって現在地に家を建て洋服屋を始めた。そこへ看護学校を卒業した母が帰ってきて、両者は仲介する人があって大正10年(1921)結婚した。大正12年(1923)には私の姉である長女民子が生まれ、大正15年(1926)には長男の私が生まれた。ここに両親と子供2人、それに祖母を加えた5人家族の生活が始まった。

祖母のこと

きょうだい会同
前列左から2人目が祖母ツタ48歳
わが家の表格子前にて  昭和2年(1927)
 私が小学校低学年の当時、 わが家は洋服の仕立屋であった。祖母ツタは家計を助けるために既製服の行商をしていた。商品はおそらく男子の学生服であったろう。私の小学校入学記念写真を見ると、 男子51名のうち洋服姿は半数に満たない。次第に洋服が幅を利かすようになりつつある時代であった。 昭和7年(1932)4月のことである。女子にいたっては55名のうち洋服を着ている子は数名に過ぎない。

 祖母は何時も朝食後、家を出て帰宅するのは夕方であった。竹製か蔦(つた)製の四角な容器に、丈夫な和紙を貼り付けて漆をかけたものに、商品の洋服を入れて行商に出た。大きさにしてみかん箱を正方形にして三個かさねたぐらいであった。 これを唐草模様の紺の大風呂敷に包み背中に背負うのである。丁度、漫画で泥棒が盗品を運ぶいでたちに酷似していた。私は夕方になると家の前を東西に走るバス通りで縄跳びをしながら祖母の帰りを待った。バス通りは家の前から1キロぐらいの直線で西に延びて、先のほうが上り坂になっており、上り坂の頂点で左へ大きく屈曲して見えなくなっていた。何時も夕日が西の空を赤く染める頃、祖母は帰ってきた。私は縄跳びをしながら道路の西の端に祖母の姿があらわれるのを待った。姿が見えると家のなかに跳んで帰り、夕食の支度をしている母に報告した。

 右の写真は岡野家に婿(私の父のこと)を迎え、家が新築され、長男が生まれたお祝いに、祖母の兄弟姉妹がわが家に会したところである。後列の2人はいずれも祖母の弟である。左は大崎の叔父で大崎上島に住み後年、私が水泳を教わった。右は朝鮮の叔父で慶州で旅館を経営していた。後年、姉が手伝いに行っていた。前列の姉妹は右から大阪、尾道、広島(豊田郡吉名村、今では竹原市になっている)、大崎上島に住んでいた。この写真は今から80年前のものである。ここに写っている祖母の兄弟姉妹は今では皆故人である。

 写真の背景の格子の後ろ側は摺りガラスの引き戸で、その後ろは1畳半くらいの板の間であった。この板の間には大きな書棚が置いてあり、中には母の助産婦関係の本や器具が入れてあった。その後ろのほうは障子を隔てて家族の居住区で、8畳間、6畳間と続いていた。表格子の右側に一寸見えるのは入口のガラス戸である。このガラス戸を入ると半畳幅の通路で中庭、炊事場、裏庭に通じている。通路の右側は仕立屋としての父の仕事場であった。隣町の竹原から出張してきた、日の丸写真館の主人は、家の前の県道(バス道路)に三脚を立ててこの写真を撮った。余談であるが私は一昨年(平成16年)この家を解体した。この写真の背景になった表格子は数万円で古物商に引き取られた。なんでも骨董的な価値があるらしかった。博労をやっていた脇本寅吉伯父は、本郷町の競売で競り落とした牛や馬を、浦尻部落の自宅に牽いていく途中、この格子につないでわが家でひと休みしていた。解体時、わが家は建築後85年たっていた。
山の カヤ
私4歳、姉民子7歳
姉の小学校入学記念 昭和4年4月(1929)
 小学校に上がるまでの間、私は裏庭に面した6畳間で祖母と一緒に寝ていた。桃太郎やカチカチ山などの日本の昔話はほとんど祖母の寝物語で覚えたらしい。桃太郎にしてもカチカチ山にしても幼児はすぐに飽きてしまう。「なんかほかの話をしてぇ」 とせがむ。私が今に覚えているのが 「山の木萱」 である。昔、水原の亭主が村長であったときに、なんどごとの寄りで、酔っ払いが村長さんに向かって 「なんか芸をしてつかぁさい」 と頼んだげな。水原家というのはわが隣組の中では、耳鼻咽喉科の医院を経営する三好家とならぶ素封家であった。300坪(990㎡)を超えようかという敷地に母屋、納屋、蔵、離れ、日本庭園を持ち、白壁の塀で囲まれた大邸宅であった。私が幼児のときには村長をつとめた当主は亡くなっており、年寄りの未亡人が一人家にいた。立派な日本庭園も何年も手入れをしないため荒れ放題で、雑草に覆われ、蛇や大きなひき蛙などが住んでいた。近所の子供らの昆虫採集や探検の場所であった。ある夏休みの一日、私はこの家の屋根に上って蝉を取っていたところ、瓦の苔に足を滑らして転落、下の石垣で顔面を打ち、三好医院で下唇を何針も縫う大怪我をした。

 なんどごとの寄りとは冠婚葬祭で誰かの家でやる酒盛りのことである。村長 「わしゃ芸はやらん」。酔っ払い 「そげんことをいわずになんかやりんさいや」。村長は断りきれずとうとうやりだした。村長 「やまのきかやのきかやのやまの、やまのきかやのきかやのやまの、やまのきかやの・・・・・・・」。村長は 「やまのきかや」 を繰り返すだけで一向に終わらない。5分たっても10分たっても終わらない。たまりかねた酔っ払いは 「それからどうしました」 と話の先を催促した。そこで村長は 「やまのきかやのきかやでござる」 といってやっと話を締めくくった。「それからというもの、どんな寄りでも、水原村長に芸をたのむものはおらんようになったげな」。私はこの話が好きで、よく 「やまのきかやを話してぇ」 とせがんだという。そしてやまのきかやを3遍も繰り返さないうちに寝付いたという。
遍路さん
 私が小学校に上がる前後には、家の前の県道を西から東に、徒歩で通り過ぎていく遍路さんの姿をよく見かけたものだ。彼らは白装束に菅笠(すげがさ)、金剛杖姿で、沿道の家々の前でお経を上げて、何がしかのお布施(ふせ)を受ける。隣町の竹原町は周辺の豊田郡、加茂郡の主邑(しゅゆう)ともいうべき都会であった。その外港の明神(みょうじん)港から彼らは四国に渡り、四国八十八箇所を巡礼して回るのであった。彼らが我が家の前でお経を上げだすと、私は家の中に駆け込んで、母か祖母から5厘銅貨(1銭の半分)を受け取り、遍路さんが首から胸にぶら下げた頭陀袋(づだぶくろ)に入れてあげる。彼らは有難うとも言わず、鈴を鳴らしながら立ち去っていく。時にはお米の場合もあった。そのために米びつの中には一升ます、一合ますのほか一合ますの半分の五勺(しゃく)ますがあった。私は五勺ます一杯にお米を入れ、それをこぼさないように頭陀袋に入れてあげるのであった。右の図は 『空海と真言密教』(読売新聞) から借用した。この図は幼い私の目に映ったお遍路さんのイメージと全く同じものである。菅笠の正面、天辺(てんぺん)から下に向かって書かれた大きな文字は 「同行二人」、 ドウギョウニニン と読む。ひとりは笠を被っているご本人、もうひとりは弘法大師空海である。首から下げた物は 「納札入れ」 と説明されている。武田明著 『巡礼と遍路』(三省堂選書58)によるとこの納札入れのなかには 「奉納四国八十八ヶ所霊場巡拝同行二人」 と印刷された納め札が入っているという。しかし私が幼時に見たものは、たしかに頭陀袋であった。袋の口を広げて五勺(しゃく)ますからお米を入れた感触を今も覚えている。
祖母の死
 祖母は元気なひとであった。私の記憶では医者にかかったことは一度もない。風邪や頭痛などで昼間から布団に入ることはなかった。ただ冬場のあかぎれには悩まされていた。手の指の先やかかとの皮膚に亀裂ができて痛いのだ。毎日、箪笥の上に常備された富山の広貫堂の薬箱から、貝殻入りの黒い練り薬を取り出してつけていた。専用のナイフで、寒さで固くなった練り薬を細長く切り取り、あかぎれの亀裂に押し込んで、その上に、火鉢の炭火で温めた火箸の先端を近づけるのだ。ジュウという音とともに薬は溶けて液体になり、一瞬煙が立ち昇る。それとともに強い薬の匂いがした。私は祖母があかぎれの手当てを始めると、そばによってその匂いをかいだ。普段決して嗅ぐことのできない不思議な匂いがした。広貫堂の薬売りは半年に1回ぐらい、わが家をたずねてきて、薬箱を検査し、過去半年の間に消費された薬の代金を徴収し、新しく薬を補充していくのである。当時のわが村では、広貫堂の置き薬は医者と薬屋の機能を果たしていた。

 そんな元気な祖母であったが、昭和39年(1964)10月、入浴中溺死した。原因はよくわからない。おそらく脳卒中か何かの発作で意識不明になったのであろう。何時までも風呂から上がってこないので、母が風呂場に見に行って発見したのであった。田舎の風呂場は、家族の居住区から遠く離れているのが普通であった。台所を通り、中庭を横切って行く。広さにして4、5坪もあったであろうか。日頃使わない食器や漬物用の桶、餅つきの臼などの倉庫を兼務していた。風呂は細長い風呂場スペースの一端に、鉄製の風呂桶をコンクリートで固めたものであった。いくら大声を上げても居住区までは聞こえない。母はオロオロするばかりで何もできず、死体を風呂から引き上げたり、医者を呼んだり、警官を呼んだり、最後は葬式まですべて隣家の脇森清登氏にやってもらったと、後で私に報告した。  父は3年前に胃癌で亡くなっていた。祖母の死は私には葬式が終わってから知らされた。享年85歳であった。

吉名尋常高等小学校

 私は数え年7歳の、昭和7年(1932)4月、吉名尋常高等小学校に入学した。尋常高等小学校とは尋常科6年、高等科2年の教育を行う小学校の意味である。尋常科は義務、高等科は任意であった。即戦力が欲しい漁師の家庭では子供を高等科に進めないものも少なくなかった。
 氏神様の大鳥居を背景に写した入学記念写真が残っている。男子51人、女子55人、それに校長先生、受持ちの男先生、女先生各1名が写っている。われわれ「七つ上がり」の児童の組を七つ組といい七つ組は女先生、「八つ上がり」の組を八つ組といい、この組は男先生の担任となる。「七つ上がり」とは大正15年(1926)1月1日から同年4月1日までに生まれて、7歳で入学した児童をいう。「八つ上がり」とはその前年、大正14年(1925)4月2日から同年12月31日の間に生まれた年齢8歳の児童を指す。わが国は戦前、数え年表記を採用していたためこういう現象が起こった。1年生から3年生までは男女共学,4年生以降は男女別学となる。七つ組、八つ組の区分といい、男女共学、別学の分け方といい、児童の身体、知能の発達段階に即した巧妙な方法であった。

光海神社前広場にて。手前50メートル画面外に小学校。ブロック矢印が私


 私の妻は大正15年(1926)3月に生まれ私と同じく昭和7年(1932)4月1日、東京市中野区野方第五尋常小学校に入学した。そのときの七つ組の入学記念写真を見ると男子33人、女子34人が写っている。全員が洋服である。女子は全員が真っ白いエプロンを着用している。ひるがえって私の入学記念写真を見ると洋服を着ている子は男子21人、女子にいたっては3人に過ぎない。入学児童の服装からも大都市と田舎の生活や文化の格差がうかがえる。一年生の七つ組の人数は男女共学で67人である。このぐらいの人数の組が、野方第五小学校では5組あったのである。私の組は50数人であった。現在は少子化が進んで、ひと組の平均人数は約28人という。ひと組の平均人数の点でも隔世の感がある。この当時テレビはないし、ラジオはあったがわが村でラジオを持っていたのは数軒の素封家に過ぎなかった。電話を持っていたのは村役場、小学校、警察、鉄道の駅、医者、造り酒屋,煉瓦工場など十指に満たない。新聞の定期購読者も十数軒というところであったろう。

東京市中野区野方第5小学校昭和7年入学式   ブロック矢印は植木みよ子

 私の両親は小学校高等科卒業後、県庁所在地の広島市で5、6年の修業をつんで村に帰って来た。周囲の百姓、漁師のほとんどは村に土着して外部の生活を知らない人たちであった。大都会の生活と流行を身につけた両親はこういう環境では際立ったインテリであった。家には新聞があったし、キング、講談倶楽部、婦人雑誌、少女の友、幼年倶楽部など雑誌類があり、小学生の私は知識欲を満たすのに不自由をしなかった。姉が女学校に入ると姉の国語の教科書はまず私が読んだ。こういう家庭の環境で育つと、とくに勉強をしなくても学校の成績は上がる。当時から小学校での子供の成績は親の成績といわれていた。私は学科に関する限り何時も全甲で、同級生の選挙でしばしば級長に選ばれた。

 

通知書

 一昨年(平成16年12月)わが家を解体したときに私の小学校、中学校の成績表が出てきた。小学校の成績表は通知書と題して一年生から高等科一年生までの7部あり、中学校のものは通告表と題してどういうわけか四年生の一学期の1部しかない。私は四年生の二学期の途中で海軍兵学校に入ったので四年生二学期以降の成績表がないのは当然であるが、一年、二年、三年のがないのはどうしたわけか。小学校の通知書は下に示すとおりである。3曲に折りたたまれたものを開いて,表と裏を示した。  
小学第六学年通知書 表
小学第六学年通知書 裏


 各学科の成績で乙がついたのは6年間を通じて五年一学期の手工だけである。図画、音楽、手工は本来、甲の評価をもらう実力はなかったのだが、国語、算術、国史、地理などの成績が良いとそれにひきづられて甲になる傾向があった。国語は読み方、綴り方、書き方の3科目にわかれていた。読み方は現在のいわゆる国語である。綴り方は作文、書き方は習字のことである。 身体欄の栄養が可になっているのは優・良・可の三段階評価の最下位であるから自慢にはならない。この栄養は学校医が評価する。私は一年は丙で二年から五年までは乙であった。最後の所見欄は受け持ちの寺西先生の意見である。上表では読みにく いので以下に再録する。

”十二月二十二日  この学期は級長としてよく学級の世話をして貰ってありがとうありました。よく勉強をするし、家に帰ってお父さんお母さんの手傳いをよくするのは 感心です。その元気でその真面目さで友達には親切に高ぶらないでやって下さい。”

 上の所見の中で ”家に帰ってお父さんお母さんの手傳いをよくする” というのは新聞配達のことである。わが家は、私が小学校4年生の後期頃から新聞配達を始めた。呉線が開通して、広島から三原までの交通が飛躍的に便利になった。鮮度を生命とする新聞の流通がスムースになったため、わが村でも新聞購読者が増えつつあった。洋服仕立てを本業とする父は、早朝のあいた時間を新聞配達の副業に当てたのであった。私は子供用自転車を走らせて、毎朝、新聞配達の手伝いをした。

 ”友達には親切に高ぶらないで” というのは、友達に不親切で高ぶっていたことに対する警告である。今から振り返ってみると、友達に一目(いちもく)置かれているのを鼻にかけて、かえって友達をないがしろにする態度があったようだ。それを裏書する2、3の事例を思い出したので、このあと項目にしたがって記録にとどめておく。

学芸会

 毎年秋の学芸会は、娯楽の少ない当時の日本の田舎では、村をあげて大騒ぎする年中行事の一つであった。母親たちは、前の晩から腕によりをかけて作ったご馳走を重箱に詰めて、朝早くから小学校に詰め掛ける。学芸会は数教室の仕切りを取り払って、臨時に作った劇場で催される。私は学芸会では主役をやることが多かった。何をやったか大方忘れてしまったが、高学年になってやった乃木少佐と橘中佐を今でも覚えている。

 明治10年(1877)の西南の役に於いて、乃木の連隊は田原坂での薩摩軍との遭遇戦で敗走する。連隊旗手は戦死して身体に巻きつけていた連隊旗を敵に奪われる。乃木連隊長は逆襲して取り返そうとするが、部下に制止される。その夜切腹を計るがこれまた、部下に止められて失敗する。乃木は死処を得るために連隊の先頭に立って、白刃を揮って奮戦するも果たせない。切腹の場では、悲しい尺八のバックグラウンドミュージックに、講堂に詰め掛けた母親たちは皆涙を流した。余談だが、其のときから35年後、明治天皇の崩御の直後、乃木大将は夫人とともに自刃した。遺書には西南の役での連隊旗の喪失の責任にも言及されている。勿論、私が演じた乃木少佐は、西南の役時代のものであった。

 橘中佐は明治37年(1904)日露戦争の遼陽の戦いで戦死して、軍神としてあがめられてきた。橘中佐は日露戦争前、名古屋陸軍幼年学校の校長をしていた。 彼の戦死の報に、同幼年学校の教官連が作詞、作曲した軍歌 橘中佐が広く全国で歌われた。第一章は次のとおりである。”遼陽城頭夜は闌(た)けて 有明月(ありあけづき)の影すごく 霧立ち上る高粱(こうりょう)の 中なる塹壕声絶えて 目覚め勝ちなる敵兵の 肝(きも)驚かす秋の風” これは全19章からなる一大叙事詩で、橘中佐の戦いぶりが詳述される。興味のある方はリンク 橘中佐(上)でどうぞ。合唱隊がオルガンに合わせて、軽快で勇壮なこの歌を合唱するうちに幕が上がるという趣向である。

 首山堡(しゅざんぽ)という要地の争奪で、露軍との間にとったりとられたりの激戦中、橘大隊長は戦死する。戦死の場面を中心に作詞、作曲されたのが次の小学唱歌である。"かばねは積もりて山を築(つ)き 血潮は流れて川をなす 修羅(しゅら)の巷(ちまた)か向陽寺(しゃおんずい) 雲間をもるる月青し”、リンク 橘中佐(下)沈痛で悲壮な小学唱歌「橘中佐」の合唱のうちに幕となる。観客は紅涙を絞るのであった。とにかく私は、運動会では精彩がなかったが、学芸会では千両役者であった。当時、すでに支那との戦争が始まっており、戦意高揚の空気は、田舎の小学校の学芸会の演目にも及んでいた。

寺西先生

 私たち男子組は四、五、六学年の3年間、寺西先生の受け持ちであった。一学年から三学年までの3年間は男女共学であった。四年から男女別学になって心機一転したところに、学校中でも有名な厳しい先生に教わることになった。私は3年間、一度も叱られた記憶はない。いく ら級長を何度もつとめた秀才といえども一度も叱られないというのはおかしい。忘れてしまったのかもしれない。こんなことがあった。それは国語の時間であった。その頃は国語などとは言わず、読み方と言っていた。前週の読み方の時間に教科書の 「瀬戸内海」 の一部を暗誦する宿題が出ていた。数名が当てられたが誰もできない。そこで先生は級長である私を指名した。私もできなかった。できませんと素直にあやまればいいものを、本に書いてある文章を暗記するのは時間の無駄である。そんなことをするぐらいなら、ほかの勉強をしたほうがよほど合理的である、と屁理屈を述べ立てて抗議をした。自らの不勉強の言い訳とともに、級友の不出来を弁護するつもりであったのかもしれない。その文章は次のようなものであった。

”瀬戸内海には、到るところに岬あり、湾あり、大小無数の島々各所に散在す。船のその間を行く時、島かと見れば岬なり、岬かと見れば島なり。一島未だ去らざるに一島更にあらはれ、水路きはまるが如くにして、また忽ち開く。かく して島転じ、海廻りて、その盡くる所を知らず。”

 そのとき先生がどういう対応をしたか全く覚えていない。名文を暗誦することは、国語の学習には必須のことだ、などといわれたのだろう。叱られなかったことだけはたしかだ。しかし先生の心中は教え子の小生意気な口の利きように煮えくり返っていただろう。私はその後の生涯に、英語の勉強には多大な時間を費やした。費やした時間の割には上達しなかった。それはしかし私たち世代の日本人に共通の傾向であった。それはともかくとして、英語の先生がいつも口にするのは、そして参考書に必ず書いてあるのは、暗誦と繰り返しが英語上達の基本であるということであった。私は上の 「瀬戸内海」 の一文を今に覚えている。六年の後期の国語読本には 「奈良」 という題の文語文があった。これの冒頭のところは次のとおりである。

”七代七十餘年の帝都として、咲く花のにほふが如しと誇りし奈良の都も、色移り香失せて年既に久しく、今は只畿内の一都市としてわずかに古の名残を留むるのみ。”

 この冒頭の文章も今に記憶している。ということは一時、先生に反抗してみたものの説得されて、暗誦に励んだことがわかる。もとより、国語も語学の一つであるから英語の学習法と変わりはないのだ。



しおり 表
昭和11年(1936)


 教育熱心な寺西先生は土曜日の午後、放課後一時間を討論会に当てていた。毎土曜日かあるいは隔週土曜日かその頻度は忘れてしまった。クラスを半分に分けて赤組、白組として先生の出す命題を論じ合うのであった。いまも覚えているその命題のなかに 「女と男はどちらが強いか」 というのがあった。赤組と白組がそれぞれ女と男の立場で討論をするわけだ。そのほかには、「猫とねずみはどちらが強いか」、「都市と農村はどちらが良いか」 などなどがあった。このような課外教育は文部省の方針として全国でやられていたものか、あるいは寺西先生独自の教育観によるものかはわからない。後に中学に入ると宿題を忘れたものは教師に鞭でぶたれ、廊下に立たされたりした。級長、副級長は小学校では級友の選挙で選ばれたが、中学では学校当局が成績順に任命するのであった。 中学入学の当初はその強圧的、暴力的、軍国的な教育方法に違和感を覚えた。のびのびとして自由な小学校の生活を懐かしく回顧したものであった。

 私が四年生の後期に、わが家は新聞配達を始めた。わが家が配達の契約をしたのは中国新聞と毎日新聞であった。間もなく毎日新聞は小学生を読者対象として、大毎小学生新聞を出し始めた。新聞社はその販売促進のために新聞名の入った鉛筆、消しゴム、しおり(左の写真参照)などの学用品をたくさん販売店に配った。そのあまったものを私は学校に持っていった。級友から和歌や俳句を募集し、それに一等賞、二等賞などと賞を設けて、新聞社の拡販資材を配った。作品の優劣を判定するのは私であった。恐れを知らぬ田舎秀才の私は、先生の真似事をやっていたのだ。私が優秀作品と判定したものを、教室の後ろの掲示板に張り出したりしたので、先生にもわかっていたはずだが何もいわれなかった。ともかく 私は可愛げのない、生意気な子供であった。

 昭和13年(1938)3月、卒業式の前日、教室前方の先生の机の前に、生徒がひとりづつ呼ばれて寺西先生の最後の教えを聞いた。私に対する先生の「贈る言葉」は次のようなものであった。「君は級長としてクラスをよくまとめてくれた。成績もよく、言うことはない。ただ感情に激しやすいという欠点がある。この点を直さないと立派な大人になることは出来ない」。 私 「感情に激しやすいとはどういうことですか」。感情に激しやすいとは、はじめて聞く言葉で意味がわからなかった。私の質問に対する先生のこたえが、どういうものであったか全く覚えていない。直ぐ腹を立てて興奮すること、などといったのだろう。後年、実社会に出て、この寺西先生の予言が的中する場面が何回かあった。相手は上司であったり、先輩であったり、同業者であった。感情が激発したとたんに、しまったと思うと同時に頭の中に、眼鏡をかけた寺西先生の顔が浮かぶのであるが、そのときには既に私の感情は、自分で制御できる境界線を突破しているのであった。



水泳事始

 私は瀬戸内海沿岸の農漁村に育ったので泳ぐ場所には不自由しなかった。潅漑用の池が生家の直ぐ近くにあり、また海岸には海水浴好適地の遠浅の海岸が随所にあった。梅雨が明けてから直ぐに泳ぎ始め、夏休み一杯、それに9月になって二学期が始まってからも中旬頃までは毎日泳いだ。しかし私の場合、泳ぎを覚えるのに時間がかかった。私は戸外で遊ぶよりどちらかというと家で本を読んでいることの好きな青白い秀才少年であった。三角ベースやメンコなどは人並みにやったが、泳げなければ夏季の約3ヶ月は仲間はずれにならざるをえなかった。子供心にも何とか泳げるようになりたいという焦りの気持ちがあった。

 かくてはならじと、小学校3年生の夏休みに大崎上島の親戚の家に2週間、水泳留学をして漸く泳げるようになった。この親戚は祖母の弟で島で大規模なみかん農家を経営していた。この家は海岸にあり、1間幅の村道の向こうに瀬戸内海が開けているという水泳練習には格好の場所にあった。しかし遠浅の砂浜というわけにはいかず、海底は小石でそれに牡蠣の殻が付いているので足を切る恐れがあり足袋をはかされて練習した。祖母の弟は居間に座って長いキセルでタバコを吸いながら、ああやれこうやれと大声で怒鳴りながら泳ぎを教えてくれた。通行人が立ち止まって見物するので恥ずかしかった。ともかく 2週間の特訓でクロール、平泳ぎ、横泳ぎが一応出来るようになり、上級生の水泳グループの仲間入りがかなった。

姉のこと

 わが家には姉の入学記念の写真が2、3枚残っている。私の写真は何時もその姉の傍で姉の記念のお相伴に預かるという形で残っている。姉は両親の最初の子供であっただけに愛着も一入であったと思われる。弟の私は秀才少年であったが同時に虚弱児童でもあった。両親は長男の私よりも、健康で男勝りの姉をより信頼していたらしいことを今にして思う。姉は小学校の6年間無遅刻無欠席で卒業式で表彰状を貰った。姉と同級の女子は50数名もいたが女学校に進学したのは姉だけであった。当時の日本の田舎では女に教育は要らないというのが常識であった。他家に嫁にやる子供のために教育費をかけるのは無駄という合理的な理由があった。嫁を貰う立場の農家にしても、教養のある嫁を貰って、新聞や雑誌や単行本などに読みふけられては困るのであった。農家の嫁は健康で、一日中独楽鼠のように立ち働き、農作業に精を出し、沢山の子供を生むことを任務とされた。嫁は小食であることも美徳とされた。そのような田舎の環境の中で、さして金持ちでもない自営業のわが家の娘が女学校に行くということ自体、大袈裟にいえば全村を瞠目させた画期的なことであった。

写真説明

 私小学校4年生(11歳)、姉女学校2年生(14歳)自宅2階の居間の窓敷居に腰掛けて撮った。写真屋がもっとくっつけとか肩に手をかけて頭を中に傾けるなどといちいち指図した。恥ずかしくてうんざりしたことであった。
 当時のわが村の子供たちが年中行事として待ち望んだ楽しみは正月、盆、村祭り、お稲荷さんの祭りと年に4回あった。このときだけ子供は両親から小遣いを貰えた。 小学校低学年の私の小遣いは5銭であった。鎮守の森の広場に所狭しと並ぶ屋台の間を、友達とイカの脚の付け焼きなどしゃぶりながら、終日いったり来たりした。日光写真を買ったり、蛇女の覗きからくりを見たりしているとたちまち小遣いはなくなる。同じように女友達と来ている姉の傍に近寄ると、友達にはわからないようにそっと1銭か2銭渡してくれた。姉は高学年であるから小遣いも私より多く貰っていた。日頃家の中ではあまり口を利いたこともない姉弟であったが、弟思いではあったのだ。それに理財の才にも長けていた。親から貰った10銭位の小遣いを如何に使うかちゃんと計画を立てていたに違いない。

 姉は女学校を卒業すると同じ町にある昭和鉱業という会社に就職した。同時に嫁入り準備として華道、書道、お琴を習いだした。今から千年前の平安時代の才女、清少納言は当時の公卿の娘が結婚前の教養として学ぶ三つのことを『枕草子』のなかにあげている。『古今集』の暗誦、書道、筝曲の三つである。当時の結婚は和歌の贈答に始まる恋愛結婚であった。『古今集』に精通していなければ気の利いた和歌は作れなかったのだ。書道は勿論ラブレターを上手に書くために必要で、最後の筝曲は当時の楽器音楽の主流であった。こうしてみてくると昭和戦前の娘に要求された教養と平安時代の娘に要求された教養がよく似ていることがわかる。民族のしぐさや伝統はなかなか変わらないということだ。

 姉はその後朝鮮慶州で旅館業を営む親類の家に手伝いに行った。3年位も行っていたであろうか。その間に縁あってわが村と同じ県内の呉市の小学校の先生と見合い結婚をした。昭和20年(1945)7月のB29爆撃機の夜間空襲で姉の家は灰燼に帰し、無一物となった。しかし男勝りの姉は二男一女を育てながら、持ち前の理財の才を発揮して、早く一家を再興した。姉は子供たち3人の自立を見届けると間をおかず、昭和52年(1977)、急性骨髄性白血病で亡くなった。享年54歳。

三好の先生

 三好家はわが村の素封家であった。屋敷は直線距離にしてわが家から100メートルぐらいの北にあった。県道から上は道は次第に上り坂になり、屋敷は、中国山地に連なる高地の一部を削って平坦にした上に建てられていた。下の畠から20メートルほどの高さの石垣を築き、その上に白壁をめぐらしていた。石垣のかどは優美な勾配を描いて立ち上がっており、まるで戦国時代の城構えの縮小版といったところであった。二階建ての大きな母屋があり、その一部が医院となっていた。道を隔てた東側には二棟の病室があった。三好悦一という。 先生の専門は耳鼻咽喉科であった。戦前の日本の田舎では栄養不良の子供が青洟をたらしていることが多かった。蓄膿症なのだ。そのために耳鼻咽喉科は繁盛した。わが村にはほかに医者がいなかったため、耳鼻咽喉のほか内科全般をみた。胃癌や虫垂炎などは隣村の外科病院に紹介するのだが、初期診断が的確であるというので名医の評判が高かった。患者が近郷近在からやってきた。遠くは大崎上島,下島から不便なフェリーを使ってくるものもあった。

 私が小学校に入る頃、三好の先生は40代の前半であったろうか。気難しいひとで無口で取っ付きが悪かった。しかし私は何故か可愛がってもらった。 私より3級下の長男司君とともに大乗(おおのり)海水浴場によく連れて行ってもらった。30数年前、ここに電源開発の火力発電所ができて、今は海水浴場の跡形もない。海水浴場の東端には、周回50メートルほどの松の木の生えた小島があり、大潮の干潮時には陸続きとなった。私が中学に入ってからのことだが、毎年夏、中学校の海岸から、この島を一周する遠泳があった。3時間ぐらいかかったのではなかったか。この島も海水浴場もろとも姿を消し、このあたりの景観は昔の面影をとどめない。 三好の先生としては、学校成績の良い私を長男の学友にしたい意図があったのかもしれない。後年、私が海軍兵学校に入ったり、就職したりしたときの保証人は何時もこの先生であった。
岡野きょうだいと手良向きょうだい
三好家縁先にて 昭和6年(1931)


 私は休暇で帰省するたびにご機嫌伺いに伺候した。昼間は診察で忙しいので、先生のもとを訪ねるのは何時も夕食が終わってからであった。無口というよりもむしろ遅口といったほうがよく、訥々としゃべって話題は尽きなかった。岡山の医学生時代の話が多かった。文学にも一家言(いっかげん)があり、最近の菊池寛の小説はみなゴーストライターの代筆だといって憤慨したこともあった。谷崎潤一郎のファンらしく、『盲目物語』 や 『猫と庄造と二人のおんな』 などが廊下の洋机の上においてあることがあった。先生のもとを辞するのは何時も午後10時、11時であった。三好夫人は、口下手で人付合いの嫌いな亭主がどうして私相手に長話ができるのか不思議がった。

 三好の先生も夫人もすでに亡い。長男の司さんは家業を継がず、高校の英語の先生をしていたが早く亡くなった。幼い私の目に、ミニ城郭と映った大邸宅も壊されて、平屋建ての普通のサラリーマン住宅に変貌している。昔の面影を偲ばせるものは、屋敷の裏の、大きくて立派な白壁赤瓦の蔵だけである。  右の写真は三好の先生が撮ったものである。後列左 姉民子(9歳)、前列左 私(6歳)、前列右 手良向武(テラムカイタケル8歳、昭和19年父島にて米艦隊の艦砲射撃により戦死)。手良向家は県道を隔ててわが家の真向かいの家である。畳屋であった。母屋に隣接する仕事場には、手動であるが大型で立派な畳製造機が据えつけられていた。この写真の2年ぐらい前、火事で焼けた。わが家では家族や隣組の人が家財を裏の畑に運んだ。幸い類焼は免れた。私は表のガラス戸をとおして、道路一つ隔てた隣家の火事を見物した。私が両手を当てていたガラスが、次第に熱くなってきた感触を今でもおぼえている。

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