生い立ち

はじめに

 私の名前は岡野幸郎、オカノユキオと読ませる。私は大正15年(1926)2月、岡野玖市、ミチヨの長男として、広島県豊田郡の寒村に生まれた。その年の12月25日には大正天皇が崩御され、翌日の大正15年12月26日から年号は昭和元年と改まった。昭和元年は西暦では1926年だから、私は昭和と共に生まれたといってもあえて言いすぎではない。昭和天皇は昭和64年(1989)1月7日に崩御され翌1月8日から世は平成に入った。その年の7月に私は40年勤めた会社を辞めて自由の身となった。一応その時点で私の社会的存在意義は消滅した。私は昭和と共に生まれ、昭和と共に歩み、昭和と共に消えた男である。私の自分史を『私の昭和史』と名付ける所以である。

十干十二支(ジッカンジュウニシ)

 現在ではほとんど顧みられなくなったが中国や日本では古くから年月や日にちをあらわすのに十干十二支を用いた。十干十二支を略して干支(エト)という。以下に干支(エト)の内容を示す。上段は漢字、下段はその読みをあらわす。

十干:
甲、  乙、  丙、 丁、 戊、 己、 庚、 辛、 壬、  葵
こう、おつ、へい、てい、ぼ、き、こう、しん、じん、き

十二支:
子、 丑、 寅、 卯、 辰、 巳、 午、  未、  申、 酉、  戌、 亥、
ね、うし、とら、う、たつ、み、うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、い

 昭和59年(1984)は甲子の年である。こうし又はきのえねと読む。翌昭和60年は乙丑の年である。いっちゅう又はきのえうしと読む。上段の十干の1字と、下段の十二支の1字を順番に組み合わせていく。数字の10と12の最小公倍数は60である。ゆえに再び甲子の年が巡ってくるのは60年目、2044年である。60年目に十干と十二支が元の組み合わせに返るのでこれを還暦という。

 十干十二支は現代では全く意味のない言葉遊びに過ぎないが、実生活上重大な害悪をもたらすこともある。昭和41年(1966)は丙午の年に当たった。丙午はひのえうま又はへいごと読む。その前年すなはち昭和40年(1965)にはわが国の婚姻数が激減した。丙午の年に生まれた女は男を食い殺すという中国の俗説がわが国でも古くから信じられていた。昭和現代の日本において多くの若い男女が結婚翌年の丙午の年に女児を生むリスクを避けたのであった。

 私の生まれ年は大正15年(1926)である。干支でいうと丙寅である。へいいん又はひのえとらと読む。私の還暦は生まれ年の60年後だから、昭和61年(1986)であった。戦後日本人の年齢は満で数えることになった。戦前は数え年で表記したので大正15年生まれの私の年齢は昭和の年数と同じであった。これも私の自分史を『私の昭和史』と名づける理由の一つである。

 余談であるが十干の最初の4字、甲乙丙丁は戦前の小学校で生徒の成績の表記に使われた。私の通った小学校では全科目が甲評価の良く出来る生徒のことを「全甲」といって賞賛した。私は小学校時代、学科と操行は全部甲の田舎秀才であった。しかし通信簿の最後の欄の「栄養」は何時も乙又は丙であった。栄養とは健康状態のことで学校医が評価採点した。私は毎日、不味い肝油ドロップを舐めることを義務づけられた虚弱児童であった。四大節(正月、紀元節、天長節、明治節)には式の途中に何時も脳貧血で倒れた。校長先生が教育勅語を読み始めると、受持ちの先生が私の傍へ来て待機し、やがて貧血で倒れる私を支えることになっていた。今でいう起立性調節障害であった。

幼年時代私の昭和史・第一部ホームページ