平和の時代 その一

はじめに

逃亡行
 昭和27年(1952)4月、対日平和条約が発効して、わが国と交戦諸国との間に相次いで平和が回復された。ここに7年に及んだ占領体制が終わり,占領に伴うさまざまな規制も廃止された。われわれ元将校は公職追放令廃止で自由の身となった。私の海軍の先輩のひとりはBC級戦犯容疑で占領軍に追及され、7年間逃げ回っていたが平和条約締結でようやく 晴天白日の身になった。彼は昭和21年(1946)一旦逮捕されたものの佐世保から東京へ占領軍特別列車で護送中、呉駅の手前のカーブで便所の窓から脱出して行方をくらました。彼は東京育ちであったが戦争中、呉市郊外の潜水学校の学生のときにこのあたりの土地勘を得た。広島から呉に向かう呉線は、呉駅直前の短いトンネルの手前で大きくカーブを描く。ここで列車がスピードを落とすことを彼は知っていた。真冬の未明、彼は潜水学校時代の恩師の家を訪ねる。恩師は外地勤務でまだ復員していない。恩師夫人から恩師の背広とコートを貰い受け、握り飯と当座の資金を恵まれ、日も高くなってからそこを出る。呉線の各駅には非常線が張られているはずだ。彼は山陽本線八本松駅を目指して歩きはじめる。このあたりは兵学校時代毎年秋の原村演習で馴染みの土地だ。八本松駅から山陽本線で大阪に出て沖仲仕の群れに投ずる。そこで事情を知ったやくざの親分に庇護される。その後、奥羽地方の一小都市の公共団体に潜り込んで平和の到来を待つ。7年間の逃亡行は”事実は小説より奇なり”を地で行くものであった。

飯野海運

 私は公務員試験に受かっているのだから役人になることはできる。すでに労働省から面接の通知が来た。しかし公務員になる気はない。公務員の安月給では将来一家を持って生活していくことはできないだろう。私は昭和27年4月からタンカー界の雄、飯野海運に入った。飯野海運は戦前戦中、タンカーを中心とする中規模な船会社であったが戦後、国の政策としての商船隊再建の動きに巧く乗り、外航海運会社として大をなした。昭和25年から26年にかけての朝鮮戦争で、海上運賃が高騰してさらに会社規模は急膨張した。入社試験の前、私は当時大蔵大臣であった池田勇人氏の紹介状を持って俣野社長に面会した。池田は私と同村の素封家に生まれ小学校、中学校は私の先輩であった。私の母は小学校で池田の2級上であったが餓鬼大将の池田によく いじめられたと言っていた。戦後、池田が衆議院に立候補するに際して、わが村の池田後援会の幹部になっていた。会社訪問で俣野社長に何を聞かれたか、何をしゃべったか全く覚えていない。明らかに米国製を思わせる赤い、幅広の長いネクタイを締め、ラバソールの大きな靴をはいて私の前に現れたのが社長であった。、ラバソールの靴とは靴の上部が牛革で底がゴム製の靴をいう。当時米国からの流行がわが国に及んでいた。雪国のかんじきを思わせた。俣野社長ご本人が小柄なだけに異様な印象を受けた。上図はファンネルマークといって船舶の煙突に描かれた所有会社の社章である。海上遠距離から船の所属を識別するためのものである。

造船疑獄
 飯野海運に入社後私は名古屋出張所勤務となった。名古屋からは米国や東南アジアに盛んに陶磁器が輸出されて定期船の重要な寄港地となっていた。昭和29年(1953)1月のある朝6時ごろ、いい気持ちで眠っていた私は、あわただしく二階に駆け上がってきた下宿のおばさんに起こされた。警察の人が数名、私に会いたいと玄関で待っているという。寝ぼけ眼で玄関に下りてみると私服の男が数名いる。その中の一人が裁判所の捜査令状らしき紙切れを示しながら事務所の家宅捜索を行うので立ち会えという。そういえば年初から新聞紙上に造船・海運会社の贈賄疑惑がしきりに報道されていた。それにしても地方の出張所まで家宅捜索とは解せない。それに所長や課長、課長代理もいるのになぜ平社員の私に立ち合わせるのか。それらの疑問は下宿から事務所への車中での会話で氷解した。丁度今の時間に容疑会社の全国の事務所を一斉に捜索しているという。所長や役付き社員はいずれも郊外に住んでいて連絡に時間がかかる。市内に住んでいる防火責任者の私に立ち合せればことは簡単に運ぶ。私は名古屋駅前の事務所に至近の桜山の下宿に住んでいた。私は防火責任者として事務所の鍵は開けるが、実際の捜索は後3、40分で出社してくる所長を待ってくれと申し出る。2、3人の頭株らしいのが鳩首協議した結果所長の出社を待つことになった。

 戦争で壊滅して一文無しになったわが国の海運業は、戦後、多額の財政資金の借り入れによって商船隊の再建を続けていた。朝鮮戦争の勃発で一時好況を謳歌したのも束の間、休戦とともに不況に苦しむことになる。そこで海運会社は借り入れた船舶建造資金の金利の一部を政府に肩代わりしてもらって苦境を切り抜けようとする。造船会社としても大型船の建造需要がなければ生きていけない。船会社とは運命共同体であった。そこで両業界から多額の裏金が政界、官界の要所にばら撒かれた。これが造船疑獄である。両業界の大物が相次いで逮捕された。当時、自由党の佐藤栄作幹事長、池田勇人政調会長は逮捕寸前のところ、犬養健法務大臣の検事総長に対する指揮権発動によって辛うじて逮捕を免れた。

海運集約
 わが国は狭小な国土を海に囲まれている。資源を海外に求め、これに付加価値をつけて輸出する、すなはち貿易以外に国民を養っていく手立てはない。戦争によって失われた商船隊を再建するのは国家としての急務であった。しかし当の海運界は戦後、ゼロからの出発になるので自力で高価な船を建造する資産も信用力もない。ここに計画造船のシステムがスタートする.。すなはち政府が日本の船会社に財政資金を貸し付けて商船を建造させるというのである。しかし財政資金を撒布するわけだから総花的になるのは避けがたく、どんぐりの背比べのように船会社が乱立して過当競争に陥った。昭和31年(1956)、32年のスエズ紛争で海運市況は急騰したが、それも一時的なものであった。脇村義太郎東大名誉教授を委員長とする有識者の集まりは、船会社を整理統合して過当競争の根を絶たなければ日本海運業の自立は困難との結論に達した。そこで船会社をグループ化し、そのグループに入らなければ財政資金の貸付も利子の一部補給もないこととされた。アメとムチによる強制的な船会社の整理統合が行われたのである。これが昭和39年(1964)の海運集約といわれるものであった。これによって日本の外航海運業は1グループの運航トン数が100万重量屯以上の6グループにまとめられた。日本郵船、大阪商船三井船舶、川崎汽船、山下新日本汽船、ジャパンライン、昭和海運の6社はそれぞれ6グループの中心をなすという意味で六中核体の名で呼ばれた。

川崎汽船
 昭和39年4月、私は川崎汽船に移籍された。飯野海運は六中核体のうち川崎汽船グループに編入され、その定期航路部門が川崎汽船に吸収された。飯野海運の定航部豪亜課の課長補佐であった私は自動的に川崎汽船に移ったわけである。昭和43年(1968)7月、私はボムベイ駐在員に発令された。ボムベイは現在はインド名に変わってムンバイと称する。インドのアラビア海に面するボムベイは日本/インド・パキスタン・ペルシャ湾航路の重要な寄港地であった。私はここに家族を呼び寄せて初めての外地生活をした。社宅には住み込みのボーイを置いて配膳とテーブルや窓の掃除その他雑用をやらせた。コックは通いである。コックは食材を買ってきてキッチンで料理を作るのが仕事である。作った料理をお皿に盛り付けると、それを食堂のテーブルに運ぶのはボーイの仕事である。ここらあたりの仕事の分担はまことに厳重で融通は一切きかない。床やトイレの掃除をする最下層階級の男と毎朝10時に掃除に来るよう契約した。社用車を運転するドライバーとは午前9時から午後6時までの勤務時間を取り決めた。ドライバーの勤務時間外には私が自分で運転した。日本からの航空便は夜遅くボムベイ空港に着くので、お客の送迎のため自分で運転することもしばしばであった。社宅でパーティーをやることもまれではない。これだけの使用人はインドで会社を代表して仕事をするための最低限の必要人数であった。長男は米系のボムベイ・インターナショナル・スクールに入れ、長女はキリスト教のミッションスクール、Walshingham House School に入れた。家内はボーイとコックの使い方に慣れればすることはなく、インドは外国駐在員夫人にとっては天国であった。しかし、日本人女性にとってインド人の使用人を使いこなすのは容易ではない。使用人の操縦を誤れば天国もたちまち地獄に変わる。そこはよく したもので、駐在員夫人の集まりがあり、お互いに、有能で誠実な使用人を斡旋したり、紹介したり、情報を交換したりして大過なく過ごすのが普通であった。昭和45年(1970)4月、私は本社に呼び返されて油槽船部の課長になった。後に部長となり、昭和59年(1984)6月、川崎汽船を退職するまで油槽船の営業に終始した。その間の重要事件としては昭和46年のオイルショック、同じく為替の変動相場制への移行,米・中国交回復などなどがある。

太洋海運
 私は川崎汽船の子会社のオーナー会社、太洋海運に役員として入社した。オーナー会社というのは船舶を保有する会社のことである。一口に船会社といってもその中には船舶を所有して傭船料を稼ぐ会社とその船舶を借りてこれを運航して運賃収入を上げる会社の二種類がある。前者をオーナー会社といい、後者をオペレーターといった。第一次世界大戦の好景気に神戸の小財閥が船会社を起こして、所有船をオペレーターに貸し出すものが続出した。これを神戸船主といった。太洋海運はこの神戸船主の一つであった。第二次大戦が終わるまでは神戸船主の独立性は高かった。上に述べた海運集約はしかし、この神戸船主の独立性を奪った。船主は何処かの中核体に専属しなければ政府資金を借りる計画造船に参加できなくなったからである。太洋海運は比較的取引関係の多かった川崎汽船の傘下に入った。川崎汽船など六中核体の中核会社はいずれもオーナーとオペレーターを兼ねていた。第二次大戦後、東南アジア船員の進出に伴って、神戸船主の存在理由は次第に薄くなっていた。神戸船主の存在理由はコストの安い船をオペレーターに供給することであった。船舶コストの大きな部分を占めるのが船員費であった。安い給料の船員を獲得・保持できれば、傭船料を下げることができた。同じ日本人船員でも大手船会社の船員賃金は高く、中小オーナーのそれは安かった。しかし同じ日本人船員である。賃金差は僅少である。ここに東南アジア船員の進出である。東南アジアの船員は日本人船員の何分の一かの低賃金で雇うことができた。現在、製造業の下請けの中小企業が安価な労働力を求めて中国に進出するのと同じ構図である。かくて歴史と伝統を誇る神戸船主が次第に凋落していった。私は太洋海運に平成元年(1989)6月まで勤めた。昭和27年に飯野海運に入社して丁度37年間のサラリーマン生活であった。

ニューヨーク航路

左頬に傷 (scar on the left cheek)
 昭和29年(1954)4月、私は飯野海運の名古屋出張所に勤務していたが、会社の社員研修のためニューヨーク航路の定期船に1航海だけ乗船することになった。往復約3ヶ月の航海であった。船は冨島丸という9700重量屯の新造船であった。私は船員資格で乗船した。私の上司はパーサー(事務長)で、クラーク(事務員)というのが私の職名であった。仕事は積荷リスト、船員リスト、乗客リストなどを蒟蒻(コンニャク)版で印刷したり、米国の寄港地で官憲に提出する書類をタイプしたりなどであった。米国の役所に提出する書類の多さと規則の複雑さは有名である。これらの文書を赤いテープで束ねたことから”レッド テープ”( red tape) という熟語ができた。官庁提出書類の多さと規則の煩雑さは日本でも同じことである。繁文縟礼(ハンブンジョクレイ) などという四字熟語が支那から輸入されて使われてきた。
冨 島 丸
9762 重量トン
機関 ディーゼル2軸 8600馬力
満載航海速力 16ノット
昭和27年5月 建造
造船所 三菱造船長崎造船所

当時飯野海運は健島丸、昌島丸、冨島丸、常島丸など1万トン級の新造優秀船を投入して、毎月1航海のニューヨーク定期航路を経営していた。

  当時日本から米国向けの貨物は衣類、玩具、陶磁器などの雑貨で、米国からは石炭を積んで日本に帰った。電気製品などもあったが量的には大したことはない。時にキューバまで下がって砂糖を積むこともあった。日本からの往航で雑貨が少ないときにはフィリッピンまで南下して米国揚げの砂糖を積んだ。フィリッピンの砂糖を日本で揚げ、キューバの砂糖をニューヨークで上げれば経済効率が良いのに、なんという無駄なことをするのかと当時は奇異な感じを受けたものだ。日本の最終港は横浜である。米国の最初の港はサンフランシスコである。この間12、13日の航海である。サンフランシスコ揚げの荷物を下ろすと、南下してパナマ運河を通って大西洋に出、カリブ海を北上してニューヨークが定期航路の終点である。サンフランシスコでゴールデン・ゲート・ブリッジをく ぐったときには、はるばるアメリカに来たかという感慨があった。

 サンフランシスコに入港すると先ず入国管理官 (Immigration Officers) が乗船してくる。そこで各種の入国手続きがある。乗組員は一人一人、入国管理官に面接して入国許可を受けなければならない。入国管理官は船員手帳と本人を照合して、何か簡単な質問をしながら船員手帳に入国許可のスタンプを押す。そこで船員の表情、言語、容姿、態度などに特徴のある者については、あらかじめ提出してある船員名簿( Crew List) の備考欄に簡単なリマークを入れていく。米国内で事件に巻き込まれた場合に、本人確認の手段になるものである。後で本船側に返された船員名簿のコピーを見ると、私の欄には表題の scar on the left cheek (左頬に傷) とある。この左頬の傷にはいわく因縁がある。

 私は昭和17年(1942)12月に海軍兵学校に入校した。入校式は12月1日であったがその10日前位には学校に到着して、倶楽部に宿泊しながら毎日兵学校に通った。身体検査、体力測定、校内見学、軍装などの試着などなどいろんな行事があった。この入校準備期間中は私たち入校予定者はそれぞれまちまちの中学の制服を着て、群れを成してぞろぞろ校内を徘徊することになる。教官や生徒から見ると浮浪者の群れに似て目障りなことである。或る日、校庭で何かの行事のため待機中、皆とがやがやしゃべっていたときに突然、通りかかった一教官に腕を掴まれて群れから引っ張り出され、嫌というほどぶん殴られた。何で殴られたか理由は全くわからない。その時にもわからなかったし今もわからない。ズボンのポケットに手を入れる、いわゆるポケットハンドでもしていたか。その教官は袖口の汚れた薄汚い紺の第一種軍装を着ていた。しつけが厳しく容姿の整斉にうるさい兵学校で、こんな教官を見るのは珍しいことである。私を殴ったあと立ち去る後姿を見ると何と汚く変形した帽子のてっぺんは油で丸く汚れているではないか。当時不良中学生がよくやるスタイルであった。

 2、3日痛かったが頬が腫れて顔が変形するほどではなかった。しかし左頬に黒いあざが残った。このあざはだんだん薄くなって次第に消えてしまった。ところが戦後、このあざが時々出るようになった。厳寒の時季とか緊張したときである。皮膚の下に薄黒く広がっていて、よく 注視しなければわからないのであるが、チラと見た一瞬、見た人に何となく違和感を与えるようであった。このときは時季は春で寒さのためではない。初めてのアメリカで威圧的な入国管理官の前で緊張していたらしい。この傷は昭和30年代の後半ぐらいまで時々現れた。後に私は小説を読んだり白人との交際の間に、欧米の白人が顔面の傷を忌むこと甚だしいのを知った。そのたびにあの日の兵学校での出来事を思い出した。この教官は私より兵学校で10期も先輩であった。同期生の話ではこの人は生徒時代,、狂祖というニックネームを奉られて同期生や下級生に恐れられていた由。それも戦争末期、海防艦艦長として船団護衛中、米潜水艦に雷撃され艦と運命をともにした。

或る女
 当時の1万屯型定期船には5、6室の客室があった。旅客航空網の未発達であった時代の海外渡航の主役は客船であった。しかし、低運賃で肩肘の張らない貨物船での旅行も人気があった。私が乗った冨島丸にはサンフランシスコまでの男女の旅客が数名いた。当時は海外渡航といっても持ち出せる外貨に制限があって、米国サイドに滞在費を負担してくれる人物か機関がなければ渡米はできなかった。窮屈で貧しい日本を去って、豊穣の国アメリカに行くというので船客は皆浮き浮きムードであった。中には有島武郎(アリシマタケオ)の小説 『或る女』 のヒロイン早月葉子を自らに擬して、それを公言してはばからない女客もいた。美貌でわがままで女性の自由に目覚めた葉子は、在米の許婚(イイナズケ)に会うため絵島丸の乗客となる。ところが航海中、この船の事務長と懇意になり、シアトルで待つ許婚を袖にして同じ船で日本に帰ってしまう。その後、男に捨てられ、失意と貧窮のうちに、病を得て死ぬところでこの小説は終わる。有島の、学習院、札幌農学校、ハーバード大学という学歴からもうかがえるように、彼の作品には上品で知的な雰囲気が漂っていて大正文壇に異彩を放った。『或る女』 は彼の代表作とされている。有島はこの小説の完成後数年して、軽井沢の別荘で人妻と情死を遂げた。余談になるが画家の有島生馬(アリシマイクマ)、作家の里見弴(サトミトン)は武郎の弟、俳優の森雅之(モリマサユキ)は武郎の長男である。 いづれも故人である。それはともかく、本船がサンフランシスコに着く 2、3日前の午後、私室でベッドに寝転んで本を読んでいた私のところにパーサー(事務長)がやってきた。船客に無理難題を言われて困っているのでしばらく避難させてくれと言う。優男で如才のないパーサーは2、3の女客の標的にされていた。

詐話師1
 詐話師とは作り話をする人のことをいう。私が始めてこの言葉に接したのは昭和史研究家、秦郁彦氏の著書 『昭和史の謎を追う [下] 』 による。戦争中の昭和18年(1943)、軍の命令で朝鮮の済州島で、皇軍慰問のための慰安婦を徴発したという人が現れた。その人は昭和58年(1983)一書を著して、はなはだ乱暴な方法で、泣き叫ぶ朝鮮の少女たちを拉っしてきたと告白した。この本は直ぐに朝鮮語に翻訳されて朝鮮人の怒りをかったが、内容に不審を抱いた韓国の学者が現地を調査してそういう事実のないことを確かめた。秦氏もまた済州島の、問題の村に赴き、ご自分の目と耳でこの話が創作であることを知り、この本の著者を詐話師と断定した。 この本の著者は何度も韓国を訪れその都度、土下座をして昔の非行を謝ったという、。やってもいない非行を土下座までして謝る彼の意図を韓国の学者は不可解という。私も同感であるが、しいて言えば自虐的自己顕示欲とかマゾヒスティックな自己顕示欲といえば言えるのではなかろうか。

 ながながと代表的な詐話師の例を見てきたが、戦後、この手の詐話師は何処にでも現れた。冨島丸のドクター(船医)は私より2、3歳年少の快活な青年であった。インターンが終わり、若手の医者として病院勤務をしていたときにアメリカを見たくなって船医を志願したのであった。上にも述べたがこの当時は外国を見たいといっても簡単に出かけることはできなかった。しかし船員になれば,超円安で外貨に不自由することを我慢すれば、寄港地に上陸してショッピングや観光をするのは自由であった。そこで1航海、船医となってアメリカを見てきたいという医者は多かった。当時は外国航路の大型船には船医の配乗が義務付けられていたのだ。 

 彼は冨島丸に乗船後,しきりに自分が海軍兵学校の卒業生であることを強調した。しかも私と同じく 昭和17年(1942)に入ったという。何と私の同期生ではないか。私は彼の顔を知らないし、名前にも記憶がない。彼が語る兵学校生活の細部には事実と違う点が多い。たとえば彼は兵学校の最下級生時代、欠礼したという理由で一日中上級生に殴られどうしで顔が腫れて、時々洗面所で冷やさなければならなかったという。真実は、一日のうち上級生に敬礼をする必要があるのは起床から朝食までである。後は就寝まで一切敬礼の必要はない。この手の作り話をする人に戦後しばしば出くわした。思うにこれらの詐話師は戦時中、軍国少年として海軍兵学校に憧れていた。それが突然の終戦で憧れの対象を失った。対象を失った喪失感、それに戦後の窮乏生活に対する不満感などが心中に鬱積して、このような作り話をするようになったのではなかろうか。いずれにせよ私は、自分が海軍兵学校の出身者であることを彼に明かさなかった。海軍の経歴があることも黙っていた。ドクターは航海が終わって横浜で下船するまで海兵出身者として振舞った。

詐話師2
 ニューヨーク航路とは何の関係もないが詐話師ついでにもう一つ。平成11年(1999)中ごろ、ある全国紙の夕刊に、新進気鋭のノンフィクション作家による 「さらば大和」 なる随筆が掲載された。随筆の内容は、この作家が東南アジア旅行中、さる都市で出会った日本人貿易商の話の聞き書きである。この貿易商は戦争中、海軍の戦闘機乗りで,例の戦艦大和の特攻出撃の際に上空で直掩(直接掩護)したという。大和上空を哨戒中,突然大和から,敵機来襲、至急帰還せよという信号が入ったというのである。防衛庁戦史室編纂の戦史叢書によると昭和20年(1945)4月7日10:00、第五航空艦隊から派遣されていた直掩戦闘機10数機は、薩摩半島南西を西進中の大和の直掩を打ち切り、予定通り大村基地に引き上げたのであった。第五航空艦隊は沖縄海域に蝟集する米艦船に対し、特攻攻撃を集中する菊水一号作戦をこの日発動した。大和を直掩した戦闘機はこの作戦に参加するため帰って行ったのである。この貿易商のいうように大和からの命令で帰還したわけではない。第二艦隊旗艦の大和が第五航空艦隊所属の戦闘機に如何なる命令も発っすることはない。それは指揮系統が全く異なるからである。

 貿易商の零戦パイロットはさらに語を継いで言う。大和上空を3回旋回して別れの挨拶をすると、艦上から皆が手を振ってく れた。直掩機が艦隊上空を去るときに別れの挨拶に3回旋回することはない。もし基地に帰還の意思表示をしたいときには、大きく左右の翼を上下に振って飛び去る。これを「バンクを振る」という。艦上の皆が手を振ってく れたというのは最もあり得ない嘘である。艦上の皆が手を振るのは、たとえば退艦者の見送りの際、当直将校の 「帽振れ」 の号令で上甲板にいる皆が一斉に帽子を振るのである。別れの挨拶にてんでに手を振るなどということはない。まして当時は対潜警戒、対空警戒の厳重な警戒航行態勢下である。風声鶴唳にも神経を尖らすときに、のんきに 「帽振れ」 の号令などがかかるはずはない。 最後に貿易商は言う。引き上げようとしたら、向こうの雲の間から米軍機が大挙して突っ込んでくるのが見えた。それが大和を見た最後でありますと。上述の防衛庁戦史叢書によると、大和のレーダーが南方に敵機の大群を探知するのは午前11時過ぎである。敵の第一波150機が大和に襲いかかるのは12:20である。10:00に大和上空を去った直掩機が大和に殺到する米機を見ることはできない。因みにここで参照した戦史叢書は全部で102冊の大部のもので、大東亜戦争の海軍の闘いに関する第一級資料である。

 この貿易商の友人のパイロットは比島基地から特攻出撃の前日、上官の計らいで内地の妻に電話をかけた。妻は亭主が顔を知らない赤ん坊の泣き声を、亭主に聞かせようとするが赤ん坊はおとなしく していて泣かない。そこで妻は赤ん坊のお尻をつねって無理に泣かせて、はるかなフィリッピンの亭主に聞かせたという。まことに泣かせる話であるがこれが全くの作り話なのだ。

 当時フィリッピンと日本内地の間に電話線はない。両国の間のコミュニケーションはすべて無線電信である。例の 「トンツー」 というやつである。電鍵を叩いて作成された通信文は、送信アンテナから出る短波に乗って、世界中に向かって発信されるのである。赤ん坊の泣き声など送信できるわけがない。無線電話はあることはあったが到達距離は可視範囲に過ぎない。通信衛星があり、マイクロ波ありの現代とは事情が違う。

 それではフィリッピンの基地からではなく 内地の航空基地からであればこのエピソードは成り立つか。成り立たないのである。戦前戦中のわが国の電話普及率は極めて悪い。東京など大都会でも庶民の家庭には電話はない。なぜ庶民の家庭かというと、このパイロットたちが志願兵であるからだ。海軍の志願兵は小学校高等科2年を卒業して、16、7歳で試験を受け合格すると最下級の二等水兵として採用される。それから叩き上げても、よく いって末は海軍少佐までである。家に電話があるような金持ちは子供を志願兵にはしない。小学校6年から中学、それから陸士、海兵かまたは高等専門学校さらに大学というコースを取らせる。その後海軍に入るとスタートは候補生、すぐに少尉となる。エリートコースに乗るのである。

 この貿易商の話は大和の特攻出撃とかフィリッピンの特攻基地とか大枠だけが真実で細部の描写はすべてでたらめの創作である。 これらの話を貿易商は穏やかであるが深い諦観をこめた口調でこのノンフィクション作家に語ったという。この作家は、彼の話に感動し、こうした戦中の体験と意識が歴史の闇に埋もれて、後続の世代に伝わらないことを惜しむという。この随筆を読んだ私は、この作家がこれらの戦争譚を集めて本を書こうとしているのではないかと想像した。早速、新聞社気付で作家に手紙を書き、以上のようなことをもっと詳しく述べて注意を喚起した。手紙の最後に、匿名を条件とする従軍譚のほとんどすべては詐話であることを他の例も挙げて付記しておいた。この貿易商も自分の名前はもちろんのこと、住んでいる国名と都市名も出さないでくれと作家に念を押しているのである。

詐話師3
 冨島丸のドクターも東南アジアに住む貿易商も詐話師ではあるが悪意はない。事情を知らない人間の前で エエ格好 をしたいだけの単純でたわいのないものである。ところがここに極めて悪質な詐話師がいる。詐話師の話の最後にこの人物を取り上げたい。昭和24年(1949)、吉田満の書いた『戦艦大和ノ最後』 は諸作家に回覧されて絶賛を博した。吉田は海軍少尉としてこの戦艦に乗り組み,艦が沈没するまで艦橋にあって戦闘の一部始終を見ていた。艦が沈没して漂流中、幸いにも駆逐艦の救助艇に拾い上げられて生還した。戦後、この戦闘の様子をカナ混じり文語文で書いて公表しようとしたのである。しかし占領下米軍の検閲で紆余曲折があり、本の形で出版されたのは講和条約が締結された昭和27年(1952)のことであった。折からの戦記物ブームに乗って本書はベストセラーになった。吉田は昭和18年(1943)12月、東大法学部3年生のときに学徒出陣で4期の予備学生として海軍に入る。終戦が昭和20年8月であるから彼の海軍生活は2年足らずであった。経験不足と思い込みによる間違いがこの本には随所にある。これらの間違いはこの本の文学的価値を落とすものではないにしても、それらがこの海戦に参加した将兵や日本海軍の名誉を傷つける場合には見過ごすことはできない。ここにその極端な例を挙げて詐話師の結びとしたい。

 上にも述べたように米機の第一波150機が大和に襲い掛かったのは4月7日12:20である。大和は多大の被害を受けつつも辛うじて持ちこたえていたが、13:30に敵第二波150機が来襲して止めを刺された。2時間の激闘の後、屋久島西方160マイルの地点に沈没したのは7日14:23であった。以下は漂流者救助の模様について著者が書いている文章の抜粋である。その前に、このときの第二艦隊の構成を述べておきたい。この艦隊は戦艦大和、軽巡洋艦矢矧、第二水雷戦隊(二水戦と略称する)の8隻の駆逐艦からなっている。すなはち戦艦大和を9隻の二水戦の艦艇が輪形陣で護衛して前進中に7日12:20米機との対空戦闘に入ったのであった。2時間の戦闘の間に被爆したり被雷したり沈没したり大破して戦闘力を失う艦が続出した。大和沈没の時点で健在であった冬月、初霜、雪風の3隻の駆逐艦から救助艇が出されて漂流者の救助が始まった。以下の文章は著者の吉田が綴った救助活動の一こまである。

「初霜」救助艇に拾われたる砲術士、左のごとく洩らす―――
救助艇たちまちに漂流者を満載、なお追加する一方にて、すでに危険状態に陥る さらに収拾せば転覆避けがたく、全員空しく、西海の藻屑とならん しかも船べりにかかる手はいよいよ多く、その力激しく、艇の傾斜、放置を許さざる状況に至る
ここに艇指揮および乗組下士官、用意の日本刀の鞘を払い、犇く腕を、手首よりバッサ、バッサと斬り捨て,または足蹴にかけて突き落とす せめて、すでに救助艇にある者を救わんとの苦肉の策なるも、斬らるるや敢えなくのけぞって堕ちゆく、その顔、その眼光、終生消えがたからん
剣を揮う身も、顔面蒼白汗滴り、喘ぎつつ船べりを走り回る 今生の地獄絵なり―――


 テキストは昭和49年版角川文庫によった。地の文と区別するため太字とした。この短い文章のうち真実は 「初霜」 救助艇が救助活動をしたということだけで、後の描写はすべて著者の創作である。昭和42年、「初霜」 救助艇の艇指揮であった元海軍中尉松井一彦氏は手紙で抗議をして,再版する場合、文中の、事実でない部分を削除するよう要求した。それでは事実はどうか。米機第二波の攻撃が去って,洋上には沈没艦の乗組員多数が浮游していた。艦長から救助艇の派遣を命じられた松井中尉は、艦橋から直ぐに内火艇ダビットに赴き、所在の下士官兵を指揮して内火艇を洋上に下ろし、漂流者の救助に向かった。私室に日本刀を取りに行く 暇などないし、そんなことは全く念頭になかったという。海軍の下士官兵はもともと日本刀は持たない。用意の日本刀で手首を切り落とすことなどはできないのである。かくて 「初霜」 救助艇は漂流者のいる海面と本艦との間を何度も往復して救助活動にいそがしい。初霜艦長の戦後の述懐によれば、艦橋から見渡す限りの海面に漂流者がいなくなるまで救助したという。元 「初霜」 艇指揮の抗議の手紙に対して吉田の返事は 「考えさせてくれ」 というものであった。またいう、22年前の出来事であるからなんびとにも明らかでないと。

 昭和49年(1964) 『戦艦大和ノ最後』 は再版された。元「初霜」救助艇指揮松井氏の抗議も空しく、上のおぞましい文章はそのまま残されていた。そのうえ、吉田はあとがきに 「・・・・細部にいたるまで事実の検証には努力を怠らなかった」 と書くのである。元艇指揮松井氏は兵学校では私の1期上、大学では私の1年下、卒業後弁護士となり今なお現役で活動する温厚な紳士である。その後両者の間には手紙のやり取りがあった。 吉田は、あのようなことが起こりうるのが現代戦争の特質で、それを明らかにすることにこの作品の意味があると理屈にもならない屁理屈を述べ立て、言を左右にして訂正を拒むのである。そのうちに吉田は亡く なってしまう。かくて 「初霜」 救助艇員の汚名は、それはとりもなおさず日本海軍の汚名であるが、 『戦艦大和ノ最後』 とともに消えることなく 歴史の上に残ることになった。

パナマ運河

  閘門を通過する外国貨客船


 ミラフローレス・ロックをバルボア(太平洋側)に向けて通航中の外国貨客船を、クリストバル(カリブ海側)に向け通航中の冨島丸より写す。ロック部分は複線になっている。手前左に見える機関車は冨島丸を牽引中。外国船の船首錨の下に写っているのはこの外国船を牽引している機関車の後部。





運河通航中の冨島丸

   ゲイラード水路をガツン湖に向けて東進中の冨島丸
『小学国語読本巻十』:
 冨島丸はサンフランシスコからロサンジェルスに寄港した後、パナマ運河に向けて南下する。1週間あまりの航海の後パナマ運河の入口、バルボアにつく。この運河は1914年8月、アメリカの手によって完成した。1914年8月といえばヨーロッパにおいて第一次世界大戦の勃発した年である。運河の全長は80km,通過には約9時間を要する。この運河の開通によって太平洋と大西洋の距離は一挙に20数日も短縮されることになった。先ず船はパナマ地峡の中央部の人造湖、ガツン湖の水面、海抜26メートルまで三つの閘門によって持ち上げられる。ガツン湖の東端にはまた三つの閘門があって、これを通過することによって入ってきたときと逆の操作で船は海面まで下げられ、カリブ海に面するクリストバルという海港に辿り着く。現代は航空機による旅行が普通で、船客としてパナマ運河を通る人は客船のツアー客以外にはいない。今回,この項を書くにあたって「パナマ運河」をキーワードに無数ともいえるサイトを検索したが、運河通航の仕組みを素人にわかるように簡単的確に述べたものは甚だ少ない。結局、最も推奨できる説明文は私が小学校5年生の前期で習った『尋常小学国語読本巻十』の中にあった。その「第七 パナマ運河」から以下に抜粋する。

・・・。
今太平洋の方からこの運河を通るとする。船は先づ海から廣い掘割にはいる。しばらく進むと水門があって、行くてをさへぎってゐる。近づくと、門の戸びらは左右に開いて船が中にはいり、戸びらはしまる。上手にも水門があるので船は大きな箱の中に浮いてゐる形である。底の水道から水がわき出て、船は次第に高く浮上る。と、上手の水門が開いて、船は次の箱の中へはいる。前と同じ方法で、船はもう一段高く浮上り、次の水門を越して、小さい人造湖に出る。此の湖を横ぎると又水門があって、船はさらに一段高くなる。こうして前後三段に上がった船は、海面より約二十六メートルも高い水面に浮ぶのである。
それから船はクレブラの掘割を通る。これは高い山地を切通したもので、此處を切通すのは非常な難工事であったといふ事である。掘割を通過して船は又湖に出る。ガツン湖といって、廣さが霞が浦の二倍以上もある大きな人造湖で、湖上に點々と散在している島々は、もと此處にそびえていた山々である。此の湖を渡って又水門を通過する。今度は前と反對に、順次に三段を下がって、海と同じ水面に浮ぶ。此處から又掘割を走って、終に洋々たる大西洋に出るのである。運河は全長五十哩余り,およそ十時間前後で之を航することが出来る。

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 上の国語読本の「水門」は本文で「閘門」と書いたものである。英語では lock (ロック)である。クレブラの掘割は現在では、工事責任者の名前を取ってゲイラード水路と呼ばれている。閘門内では船は両側に敷設された線路上を走る機関車によって牽引される。閘門を出れば自力航走であるが速力には制限が課されている。閘門の幅は34メートルで、幅33.2メートルの船まで通航できる。このパナマ運河通航の最大船型をパナマックス船型といい、トン数に換算すると大体7万重量トン位に当たる。

パナマ事件:
 アメリカの手によってパナマ運河が完成したのは1914年(大正3年)であった。しかしそれより約30年前、フランス人が作ったパナマ運河会社によって、運河工事は着手されていた。1880年(明治13年)1月のことであった。社長に、例のスエズ運河建設の立役者、フェルヂナン・ド・レセップスが担ぎ出されたこともあって、最初から運河の完成は当然視されていた。世界中から運河掘削の労働者が高給をもって集められた。着工と同時に運河完成の際の祝典行列に使う石油松明1万5千本がコロン(大西洋側基地)の倉庫に運び込まれた。パナマ地峡80kmを横断して労働者や資材を運ぶ鉄道には、豪華な車輌が持ち込まれ、後に宮廷列車と悪口を言われた。年間を通じて7ヶ月が雨季であるこの地方のことだ, 黄熱病とマラリアが流行して死者が続出した。一説では建設工事の行われた8年の間に3万人が死んだといわれる。棺桶製造業者は有卦に入った。この項の記述は主として大仏次郎(オサラギジロウ)のノンフィクション・ノヴェル 『パナマ事件』 によった。

  ずさんな計画、放漫な経営、悪疫(黄熱病,マラリア)の流行などによって,工事は予定通り進まず、着工して2年もすると早くも会社経営者は工事の完成が容易でないことを知るのである。日がたつにつれて見通しはますます悪くなるにもかかわらず、経営者は楽観的な予想を流布して社債を発行し資金を集め続ける。しかしついに着工して9年目(1889)に会社は破産するのである。会社側は破産に至るまでの過程で、実態を隠して資金を集めるため、政治家や新聞社幹部に賄賂を贈り続けた。これが会社破産によって明るみに出、フランス朝野を揺るがす一大疑獄事件に発展した。スエズ運河建設で一躍フランスの国民的英雄となったレセップスは、このパナマ疑獄で名声を失墜し、89歳で失意の生涯を閉じる。 アメリカ政府がパナマ地峡の南北16km幅の土地をパナマ政府から永久租借して、運河掘削を始めるのは1904年(明治37年)のことであった。アメリカが先ず手をつけたのは労働者を伝染病から守る衛生環境の整備であったという。

パナマ運河爆破計画:
 大東亜戦争 (1941-1945) が始まってからしばらくたって、日本海軍は、パナマ運河を攻撃するための大型潜水艦十数隻を建造する計画を立てた。この潜水艦は排水量5千トンを越える大型で戦後、米国のポーラリス型が出来るまで世界最大の潜水艦であった。イ400型と称する。3機の爆撃機を搭載してコスタリカ沿岸まで潜航し、ここで爆撃機を発進させ200マイルかなたのパナマ運河を攻撃するのである。爆撃目標はガツン湖東方の三つの閘門である。これを破壊すればガツン湖の水は大西洋に流れ落ち、長期にわたって運河の機能を停止できるはずであった。搭載する爆撃機は愛知飛行機会社がこの目的のために製作した晴嵐(セイラン)と名付ける爆撃機であった。2人乗り、フロート付き、速力250ノット、兵装として250キロ爆弾1個を持つ。このイ400型潜水艦は潜水空母と俗称され、終戦までに完成したのは3隻に過ぎなかった。

 昭和20年に入るとパナマ運河攻撃計画は具体化した。イ13、イ14、イ400、イ401の4隻をもって第一潜水隊が編成され、有泉大佐が司令官に任命された。各潜水艦の搭載機による特攻攻撃である。この年6月には七尾湾で搭載機との合同訓練が実施された。しかし時すでに遅く、戦局の急迫はパナマ運河爆撃のような戦略的攻撃を許さず、第一潜水隊は目標を変更して、西カロリン諸島のウルシー泊地の米艦艇を攻撃することとされた。開戦当初から計画されていたパナマ運河爆撃計画は日の目を見ることなく戦争は終わった。

やまびこ学校:
 これは昭和31年(1956)頃休暇で故郷に帰っていた時の話である。午後6時ごろであったろうか。居間に寝転んでぼんやりとNHKのラジオ放送を聞いていた。放送の題目は「やまびこ学校」であった。「やまびこ学校」というのは東北地方の一小学校の先生が特異な授業をするというので有名になり、ついにNHKの全国放送にまで進出したものであった。東京都内の選ばれた小学生たちが、当の先生の授業を受けるのをNHKが全国に放送するのだ。先生 「スエズ運河は誰が作ったか」 。ハイ、ハイという元気な声がラジオを通じて聞こえてきた。さすがは東京の子供である。ほとんどの者が答えを知っている気配であった。大方の生徒が手を挙げている状況が目に浮かぶ。誰かが当てられたようである。生徒 「レセップス」。先生 「違う」。ここにおいて私はおやと思った。

 やまびこ学校の先生がスエズ運河を授業の題目に取り上げたのは理由のあることであった。エジプトのナセル大統領はスエズ運河の国有化を宣言して、昭和31年(1956)6月運河を接収してしまった。英仏は兵力をもってこの運河の権益を回復しようとする。エジプト対英仏の間にきな臭い戦争の匂いが立ち込めていた。スエズ運河は誰が作ったかは時事問題として提出されたのだ。 先生は誰か正答を知ってる者はいないかと2、3の生徒にあてるが、レセップスを拒否されたらもう他の答えはない。 先生 「スエズ運河を作ったのはエジプト人だ」。私はこの先生の言葉にほとんど耳を疑った。奈良の大仏は誰が作ったかと聞かれて、それは日本人だというようなものである。スエズ運河がエジプト領内にあるからといって、運河を作ったのがエジプト人だとはいえない。エジプト人はもとよりのこと、ヨーロッパとアジア、中近東の何万とも数知れない労働者が運河掘削に働いたのだ。工事の途中、地中海と紅海の海面には高度差があるという学説が蒸し返された。運河が開通すると紅海の水は地中海に奔流して、エジプトは水浸しになるというのである。労働者は動揺する。一時、回教徒の労働者のすべてが職場放棄をしたこともあった。その間にもいろんな国籍の労働者が働いていた。スエズ運河を作ったのはエジプト人だという先生の答えは事実かどうかの点で間違っているのだ。

 やまびこ学校の先生の、スエズ運河は誰が作ったかという質問の提出意図にそもそも問題がある。常識的に考えればこの設問の正答は、スエズ運河完成の最大の功労者レセップスである。生徒のほうが正しいのだ。万国スエズ運河会社が起工式を挙げた1859年(安政6年)から、運河が開通した1869年(明治2年)まで、当時の覇権国イギリス政府はこの国際的な事業の進行を妨害し続けるのである。肝心のフランス政府はイギリスの顔色をうかがって援助を拒否する。そのような環境下でレセップスはひとり各国政府の説得行脚を続け、資金調達のために走り回る。彼の不撓不屈の努力がなかったら、あの時点でスエズ運河が出来上がることはなかった。やまびこ学校の先生は、旧宗主国に向かって叛旗を翻すエジプトの民族主義にエールを送りたかったのであろう。又、歴史における英雄主義を否定したかったのであろう。だからといって、小学生にいい加減な屁理屈を教えることは許せない。私は、教条主義に呪縛された無知、無教養な先生に教わる子供たちをかわいそうに思った。

パナマ運河の現状:
 米国がパナマ運河を含む南北16km幅の土地をパナマ政府から永久租借していることはすでに述べた。ところが第二次大戦後の世界的な民族主義の勃興によって、このような形での外国の土地の租借が難しくなってきた。そこで米国はカーター大統領の1979年、パナマ政府と新条約を結び、1999年(平成11年)12月31日を期して、パナマ運河と運河地帯をパナマに返還した。現在、運河はパナマ政府によって管理されている。航空機の発達によって、パナマ運河の世界貿易に対する影響力はかなり減殺されたが、なお両大洋を結ぶ要の位置にあることに変わりはない。

ニューヨーク瞥見(ベッケン)
カリブ海を故国に向かう昌島丸
  パナマ運河の大西洋側の出口はクリストバルである。クリストバルからニューヨークまでは約1週間の航海である。途中カリブ海のど真ん中で姉妹船の昌島丸に出会う。昌島丸はニューヨーク航路の帰り道である。ニューヨークをはじめ米国大西洋岸の諸港で積荷を下ろした後、ベースカーゴの石炭を満載して故国に向かっているところであった。地球の裏側で僚船に出会うのも懐かしいものである。お互いに「安全なる航海を祈る」と信号を交換し、乗組員同士は手を振り合ってすれ違った。
 マイアミ沖を通るとき,ブリッヂの大型双眼鏡を覗くと、ホテルらしい白いビル群が不ぞろいの櫛の歯のように延々と続いているのが見えた。.
 自由の女神像の下を通るときにはこれがアメリカかという感慨があった。それにしてもこのおびただしい汚物はどうしたことか。ありとあらゆるゴミが下流に向かってゆっくり流れていく。今では多少は綺麗になっているのであろうか。本船は先ずイーストリバーに面する埠頭につけてフィリッピンの砂糖を下ろす。それからハドソン川に回航して、マンハッタンから櫛の歯のように突出する突堤の一つにつける。そこで雑貨の荷揚げをするという段取りだ。入港後直ぐに本船にやってきた会社の首席駐在員は、沖仲仕の手配の都合で、ニューヨーク揚げの貨物を揚げ切るには2週間位かかるだろうという。私は始めてのニューヨークなので、十分市内見物をしたい。乗組員にしても長い航海の末の上陸だ、少しでも長く陸上で羽根を伸ばしたい。 それには滞船が長引くのは歓迎される。しかし会社の立場からすれば1日滞船が延びれば数百万円の損失なので,1時間でも2時間でも早く本船を出したい。これをクイック・デスパッチ(quick despatch)といって、何時も会社側と本船側の利害が対立する。

 親切な首席駐在員の計らいで私は本船がニューヨークにいる間、彼のアパートに泊めてもらうことになった。新入社員に少しでも海外生活を体験させてやりたいという彼の有難い親心からであった。この頃の日本の会社の海外駐在員は皆単身赴任であった。当時の日本の会社は貧しく、社員を家族連れで海外に派遣する経済的余裕もなければ、海外での家族の安全を確保する情報も手段も持っていなかった。単身赴任した海外駐在員は日日の仕事をこなさなければならないのはもちろんだが、未知の世界を偵察する斥候のような役目も負わされていた。朝7時に彼のアパートの客用ベッドで目覚めると、洗面を済まして20数階をエレベーターで降り、2、3軒となりのビルの1階にあるキャッフェテリアで朝食を済ませて、マンハッタンの突端にある駐在員事務所に出勤した。時には埠頭で荷役中の本船に行くこともあった。最初の日に彼は風呂の使い方とか窓のブラインドは一日中下ろしたままにしておくとか、アパート生活のこまごましたことを教えてくれた。しかし二日目以降最後の日まで彼はアパートに帰ってこなかった。翌日事務所で何処に行っていたのか聞いてもニヤニヤするばかりで何も教えてくれなかった。夕べ女性から電話がかかってきたと報告しても、内容を根掘り葉掘り聞くわけでもなく、関心を示さなかった。電話といえば一日おき位にかかってきた。日本語の場合はともかく、英語はちんぷんかんぷんで誰が何を言っているのか全くわからなかった。相手はすべて女性であった。
バッテリー・パーク
 マンハッタン島最南端のバッテリー・パークから北方を望む。正面のビルの後ろ側あたりに飯野海運ニューヨーク駐在員事務所がある。事務所は本社から派遣された首席駐在員のほか、30歳前後の現地採用日本人男性1名、40歳前後の米人女性1名の小世帯であった。この女性の発案で私はジャックとかジョンとか今は忘れてしまったが、英語名の通称で呼ばれることになった。ミスター・オカノでは杓子定規でよくないとのことであった。私は不満であったが何ごとも郷(ゴウ)に入っては郷に従うものと割り切った。しかし、この犬の仔のような通称で呼ばれるたびに居心地の悪い思いをした。昼食後、駐在員とこの公園に来てニューヨーク生活のいろいろを聞いた。派手な服装の老夫婦がベンチに長い間黙って座っているのをよく見かけた。
 首席駐在員のアパートがマンハッタン島のどこらにあったのか今では全く記憶にない。ときに夜、タイムズ・スクエアあたりで映画館のはしごをして午前3時、4時ごろ歩いて帰ったこともあるので、40丁目位のところであったろうか。そんな時間に通りで出会うのはゴミ集めの車ばかりであった。しかし身辺の不安を感ずることは全くなかった。ニューヨークの治安が悪くなるのはベトナム戦争からであった。昭和50年代、出張で何度もニューヨークに来た。5番街の宝飾店ティファニーあたりでも一歩横丁に入るともう危ない。ビルの入口には浮浪者風の身なりのよくない男たちや若者がたむろしていた。通行人をじろじろ品定めしているようであった。今にも後ろから羽交い絞めにされそうな恐怖感があった。とてもひとりで通れるものではなかった。ジュリアーニ市長の時代に大いに治安が回復したと新聞は報じていたが、果たして昭和30年代の水準まで回復したのであろうか。

 代理店の担当者に市内を車で案内してもらった。船長やパーサー(事務長)も一緒であった。ハーレム内の公園で車を降り、公園内の小高い丘に登った。星条旗が翻っていたことを覚えている。帰りの車内で担当者は私に向かって、一人でここに来てはいけないと警告した。恐竜の骨格標本の前に立つ私の写真が残っている。自然史博物館であろう。セントラル・パークでは犬を散歩させる母娘を撮らしてもらった。メトロポリタン美術館にも行った。このときは一人であった。入口のホールに掲げてある等身大の巨大な騎馬像や肖像画に威圧的な印象を受けた。後年各地の美術館で大きな絵に接したがこのときの圧倒されるような印象を持ったことはなかった。おそらく 絵のディスプレーの仕方などにもよるのだろう。それは又美術館の所在する国の国民性にもよるのだろう。 中学の西洋史の教科書で見たコロンブスの肖像画があった。絵の大きさも手ごろであり旧知にあったような安らぎを覚えた。

         自然史博物館にて                                 セントラル・パークにて

 映画館に行かない夜は首席駐在員のアパートの一室で退屈をもてあました。部屋の灯りを消し、ブラインドの隙間から外の様子をうかがったりした。出張報告もここで書いた。昼間、本屋で買った週刊誌の 『タイム』 にニューヨークの沖仲仕の実情が載っていたのでそれを書いた。沖仲仕の組合はギャングが支配しているということであった。ニューヨーク港で揚げた貨物をトラックに積んで保税倉庫に運ぶのであるが、その途中で1箱、2箱チョロマカスのは日常茶飯事である由。暴力団は雇った労働者から人頭税を取り立てて資金源にしていた。そればかりでなく抜き荷も又重要な資金源であった。そういえば何時か見た若き日のマーロン・ブランド主演の映画 『波止場』 も、荷役にからむニューヨークのギャングの無法振りを描いていたな。東京を発つときに人事課の課長補佐から、出張報告によって成績が評価されるなどと脅かされていた。荷役の改善方法とかクイック・デスパッチの工夫とかもっともらしいことを書きたくても、知識も権限もない新入社員の悲しさ、ろくな報告が書けるわけもない。下手糞な旅行記になってしまった。日本に帰って担当課に提出した報告を読んだ課長は、仕事の役には立たないが面白かったと、ほめたのかけなしたのか判らないような批評をしたものだ。

 ニューヨークで揚げ荷を終え、フィラデルフィア、ボルチモアに寄港の後メキシコ湾に面するニューオーリーンズ、ヒューストン、ガルベストンに寄って日本揚げの綿花を積んだ。横浜に帰ったのは昭和29年 (1954) 7月も半ばを過ぎていたろうか。その年の秋には東京本社の近海課に転勤になった。名古屋勤務は2年半であった。名古屋に赴任前、挨拶に行った相手は異口同音に名古屋は排他的な土地柄だから大変だなと同情してくれた。たしかにその通りであった。プロ野球の中日のファンにならなければ集荷に行っても荷物はもらえなかった。しかし、私にとっては本音で付き合える友人、知己も出来、居心地は悪くなかった。名古屋を後にするときには名古屋港代理店の、私と同年輩の担当者が名古屋駅のプラットホームまで見送りに来てくれた。名古屋を深夜に出た急行列車は、翌日早朝、東京駅に着く。この担当者とはその後毎年年賀状を交換してきた。数年前、彼からの年賀状に、あなたは毎年、賀状を呉れるが一体誰ですかと書いてきた。私は40数年前の秋の、名古屋駅頭の別れのことを書いてやった。それからも賀状の交換は続いたが昨年秋、彼の息子さんから父が胃癌で亡くなったという知らせがあった。

結婚

結婚式

 私たちは昭和31年(1956)1月30日,飯田橋の東京大神宮で結婚式を挙げた。妻のみよ子は中野区大和町167番地、植木義信、ミツ夫妻の長女であった。会津の百姓の息子であった鈴木義信は縁あって子供のいない植木家の養子になった。そこで本郷弓町の田中家の次女ミツと結婚した。植木義信は三菱仲21号館に事務所を置いてドイツの特殊鋼を輸入する会社を経営していた。みよ子は大正15年(1926)3月、 吹田市で生まれた。2歳のとき小倉市に転居、6歳になって一家は東京に帰ってきた。長男信義は大正13年(1924)生まれ、府立二中を経て明治大学卒業、応召して陸軍に入る。私たちの結婚式当時は出版社に勤めていた。次女よし子、昭和2年(1927)生まれ、実践女学校卒業後海軍省に入る。戦後、化学会社に勤めていた石川達次に嫁ぎ、家庭の主婦、三女さち子は昭和9年(1934)生まれ、津田塾大学3年生。植木家は夫婦に一男三女の家庭であった。

 みよ子は昭和7年(1932)4月、中野区野方第五小学校(現在の啓明小学校)に入った。このとき一緒に入った1年生は男女合計約330人で、5クラスに分かれた。みよ子の組は男子33人、女子34人の男女組であった。今と比べると甚だしい過密授業が行われていたことになる。ただし、この当時の小学校の先生は今よりもはるかに権威を持っていて、いたずらをした子供を鞭で叩いたり、廊下に立たせたりするのは普通のことであった。私の経験からいっても、教室がざわざわして授業に差し支えるというようなことはなかった。 みよ子はそれから渋谷区常盤松の実践女学校に行く。有名な女傑、下田歌子の創設した学校である。卒業後、理事生として海軍省に入り、戦後も引き続き復員省、海上保安庁に勤める。

 私は昭和23年4月始め、下関掃海部から海上保安庁の掃海課に転勤してきた。私の仕事は、全国の掃海航路の設定という技術的なもので、未来の妻、植木みよ子とは仕事上の関係はない。ただ、時々の課内会議の最中、隣に座った彼女と短歌をやり取りして退屈を紛らわした記憶がある位のものであった。江戸時代の狂歌に ”ひもじさと寒さと恋を比ぶれば 恥ずかしながらひもじさがさき” というのがある。当時はまさにこの狂歌そのままの時代であった。東京に何のつてもなかった私は、わずかな配給食糧と闇市での食事で飢えを凌いでいた。主食のおこめの代わりに配給になった砂糖でカルメ焼きを作り、それだけで一日を過ごしたこともあった。みよ子と交際を始めたのも海上保安庁を辞め、大学を卒業して就職してからであった。 

 結婚式の仲人は会社の上司、末松取締役ご夫妻にお願いした。式場の手配とか披露宴の料理などこまごましたことはすべて兵学校同期の立川孝幸がやってくれた。立川は私の驪山荘時代の同宿者であった。驪山荘時代、私は庭に面した二階の十畳間に同じく 同期の井口正治と住んでいた。立川は二階に上がる階段の踊り場脇の三畳間に一人で起居していた。 甲府から許婚 (海軍用語でエンゲといった。engaged の略である) がしばしば驪山荘を訪れて同宿者を羨ましがらせた。私の結婚式当時はすでに結婚して代々木に一家を構えていた。私たち夫婦は結婚前たびたび彼らの家庭を訪れて結婚についてのアドバイスを受けた。
写真説明

 前列向かって左から:
 杉江一三海将 海兵56期、私の父 岡野玖一、仲人 末松取締役、私、妻みよ子、仲人夫人、みよ子の父
 植木義信、みよ子の母植木ミツ
 2列目向かって左から:
 立川孝幸 海兵74期、飯野海運調査課長補佐 小山朝光、同課長 藤井麟太郎、みよ子兄 植木信義、
 みよ子の妹 石川よし子、みよ子の従妹 栗山勇子、みよ子の妹 植木さち子
 3列目向かって左から:
 橋本幸二郎 海兵74期、井口正治 同左、青山晃 海上保安庁、嘉瀬一 みよ子の叔父、石川達次 よし子夫

見ぬもの清し
 妻みよ子は女学校を卒業して海軍省に入ったが戦後もそのまま海軍省に残った。海軍省は昭和20年(1945) 12月、第二復員省と名前を変え、復員が完了してからは機雷掃海のような現場部門は海上保安庁に吸収された。私が下関掃海部から上京したときにはみよ子は掃海課の事務員であった。掃海課には数名の女子事務員がいた。私の仕事は水路誌や水路告示、機雷撒布図などと首っ引きで海図に掃海水路を記入していく という技術的なものであった。それで女子事務員との交渉もあまりなかった。お茶を入れてもらったり、鉛筆やノートなど文房具をそろえてもらったりという程度のものであった。しかし退職するとなると1年半という短い期間ではあったが何かとお世話になったお礼ということで、住んでいた驪山荘に招待した。昭和24年(1949)の秋の日曜日であった。得意のカレーライスをご馳走することにした。カレーライスは一度作ると2、3日は朝食、夕食に食べられるので独身の自炊者にとっては便利な料理であった。その日も腕によりを掛けて階下のキッチンで作ったカレーを鍋のまま両方の取っ手を掴んで、私の部屋のある二階に運んだ。ところが階段の途中で、何たることか鍋の右の取っ手が?げてカレーは階段にぶちまけられてしまった。私は一瞬呆然としたが、為さざると遅疑するとは指揮官の最も戒しむべきところという作戦要務令の言葉を思い出して直ぐに決断した。階段にこぼれたカレーを手で鍋に掬いこむと、再びキッチンにとって返しガスコンロに掛けて煮立て、何食わぬ顔で女性たちに供した。お客の女性は確か3人であったと思うが、待ちく たびれておなかをすかしていたため 皆うまいうまいといって食べてく れた。後に私は関東地方には江戸の昔から「見ぬもの清し」という俚諺があることを知った。鈴木棠三著『故事ことわざ辞典』(創拓社)はこのことわざを「見なければ、汚いのも知らずに平気でいられる」と解釈している。

不倶戴天の仇
 今から10数年前、山口県の湯田温泉で兵学校のクラス会があった。そのときに見た山口県庁界隈の整然たるたたずまいには目を瞠った。明治以来、多額の国費がここの都市計画に投じられたことが推定できた。山口県は戊辰戦争の勝者、長州藩の本拠地である。それに明治以来今日まで山口県からは多数の総理大臣が出ている。これらの大物政治家たちによってわが田に水が引かれたのであろう。しかしそれよりも驚いたのはこのときのみよ子の告白である。われわれ夫婦の結婚に当たって、みよ子の父親の郷里、会津では親族会議が開かれたというのである。戊辰戦争において会津を攻撃した奥羽鎮撫軍の主力部隊は薩摩藩と長州藩であった。会津藩はあえなく 降伏するのであるがそのとき以来、会津の人々は薩長両藩に対して激しい怨恨の感情を持っていた。明治10年(1877)の西南戦争では新政府の陸軍と並んで警視庁の巡査が抜刀隊を組織して奮戦し西郷軍を悩ました。この抜刀隊に多数の旧会津藩士が戊辰戦争の仇を討つとして応募した。私の出身地、広島県は芸州藩の領地であった。芸州藩は長州藩の親類である。会津にとって不倶戴天の仇である長州藩にゆかりの男に、娘を嫁がせるのは如何なものかというのである。当時は戦争の結果、結婚適齢期の男性が極端に少なかった。そんなことを言い立てていたら娘は婚期を逸してしまうという常識論が勝利を占めた。それで私たちは夫婦になれたのである。

 会津落城の際の城主、松平容保(マツダイラカタモリ)の孫娘、勢津子姫が秩父宮と婚約したとき、会津の人々はこれで国賊の汚名が晴れたと喜んだという。秩父宮の結婚は昭和3年(1928)で、戊辰戦争から数えると60年の歳月がたっている。司馬遼太郎の随筆か何かでこれを読んで、何という執念深い人たちかと感心したものであった。が、われわれの結婚はそれよりもさらに30年近くの時がたち、しかも終戦後である。驚かないわけにはいかないではないか。余談であるが西南戦争後、この戦いに殊勲を挙げた警視庁抜刀隊を讃える歌が作られ大いにはやった。後に陸軍がこれを行進曲に編曲して使った。大東亜戦争の真っ最中の昭和18年(1943)10月、明治神宮外苑で行われた学徒出陣の分列行進にはこの「抜刀隊」の曲が使用された。興味のある方はリンクでどうぞ。

新生活
忠海港沖より黒滝山(342m)を望む  平成9年9月写す
  われわれの新居は中野区東中野の借家であった。木造モルタル二階建、上2軒、下2軒の二階の一部屋であった。八畳一間に簡単なキッチンが付いただけ、広さにして12、3㎡もあったろうか。風呂はなく、便所は隣家と共用の、今からは信じられないような住居であった。中央線の線路に近く、電車が通るたびに家鳴り震動した。EC(ヨーロッパ共同体)委員会が内部資料で、日本人の住まいは兎小屋だと書いたのは、もっとあとの昭和54年(1979)のことであったが、われわれの新婚の住まいはまさに兎小屋というにふさわしいものであった。

 ここで長男の忠司(タダシ)が生まれた。名前は私が自分で考えたものである。忠の字は忠君愛国や忠孝の忠ではない。私の母校、忠海(タダノウミ)中学から一字もらったものである。忠司のほか2、3の候補名を挙げて私の父親に姓名判断をあおいだ。父は"忠司"がベストだというのでこれに決めた。13歳から17歳まで私は毎日、呉線で30分かかるこの中学に通った。親しい友人もでき、信頼できる先生に回り逢い、完全な健康体になり、成績も向上し、それまでの人生の中で最も幸福な4年半を過ごした。忠海中学は後ろに黒滝山という、まるで支那の水墨画に出てきそうな峨峨たる山を負い、前は瀬戸内海に臨む景勝の地にあった。グライダーを飛ばして練習した広い運動場の芝生に寝転んで、友人と将来を語り合ったのはついこの間のことであった。男の子に父親と同じ甘美な少年時代を経験してもらいたいという願いを込めてこの名前を選んだ。

兎小屋
 米国の経済学者、レスター・サロー (Lester C.Thurow) は1996年に出版した『資本主義の将来』 (『The Future of Capitalism』) のなかで、世界の三大経済圏である米国、欧州、日本がそれぞれ抱えている問題点を鋭く指摘した。先ず米国であるが、米国人は皆、貿易赤字を減らすためには節約が必要であることを知りながらそれが出来ない。欧州は雇用の拡大なくして経済の成長が望めないのに、労働の規制緩和が出来ない。日本は国民1人当たりの住居スペースが文明国中最低であるにもかかわらず、国内投資を増やして国民の住宅資産の改善をしようとしない。私たちが結婚したのはレスター・サローがこの本を書いた時よりも40年も前である。その後わが国の住宅事情は飛躍的によくなったというが、外国人の目からから見るとちっともよく はないのだ。それまでが悪すぎたというだけである。 1人当たりの居住スペースは依然として狭い。見てくれはよくなったが目に見えない内部にはほとんど進歩はない。むしろ詐欺的な建築が横行して善良な庶民を悩ますようになった。

 20歳代後半に結婚して、子供が出来た段階で新築の一戸建て住宅を購入すれば数千万円の投資が必要である。しかもその家の耐用年数といえばわずかに20年である。この新築住宅の耐用年数20年というのは昨年(平成16年)、大手住宅建築会社の社長がテレビでしゃべっていたのだから間違いない。私たちは昭和49年(1974)、現在のアパートの一室を約2千万円で購入した。広さは95㎡だがベランダなど共用スペースを入れると110㎡を超える。一戸の広さが110㎡を超える集合住宅は、建築後3年間の固定資産税免除の恩典を受けられない。政府は110㎡を広すぎて贅沢としているのである。これでは欧米並みの住宅が増えるわけがない。戦後のわが国の住宅政策は戸数を増やすことだけに力が注がれ、戸数が充足された後にはなんら見るべき政策がない。われわれ国民は庶民の住宅というのはこんなものかとあきらめているが、世界の水準から見ると著しく劣悪なのである。

 今日の新聞 (平成17年3月26日、読売新聞夕刊) によると、政府の経済財財政諮問会議(議長・小泉首相)は「日本21世紀ビジョン」の中で、住宅対策として次のように述べているという。すなはち、2030年に借家の一世帯あたり平均床面積 (関東地方の大都市圏) を現在の43㎡から100㎡へと大幅に増やすと。結構なことではあるが改善のテンポは遅々としている。私たち世代の者は当然間に合わない。1991年(平成2年)5月から1992年(平成3年)2月までフランス首相であったクレッソン女史は 反日、侮日の発言が多く、日本人の顰蹙を買った。当時、日本から欧州への自動車輸出が次第に増加していた。やがて自由化の暁には日本車が欧州市場を席巻するのではないかと彼女は恐れていた。このような日本車が、兎小屋のような小さくて粗悪なアパートに住み、通勤に2時間も掛けなければならない、劣悪な環境で生活している人々によって作り出されていることに彼女は我慢が出来なかった。欧州は日本の危険性に用心しなければならないと、その昔の黄禍論のごときことを口走っている。この人には高位の政治家にふさわしくない軽率な発言が多く、各方面で物議をかもした。アングロ・サクソンにはホモが多いといって英国との間にトラブルを起こした。あるときの記者会見で米人記者が政治家の不倫についてどう思うかと質問した。彼女は、あなたの国のケネディ大統領は女性問題でとかくの噂があったが米国人は皆彼を敬愛している。政治家は私生活ではなく政策の実行によって評価されるべきだと答えた。彼女はミッテラン大統領の愛人としても有名であったのだ。

弦巻都営住宅
 昭和32年(1957)12月、東京都の住宅関係部門から、世田谷区弦巻三丁目の都営住宅に空き部屋が出来たので入らないかと打診があった。われわれ夫婦は一も二もなくそれに応じた。われわれは結婚が決まってからは都営住宅の募集があるたびに応募していたが何時も落選していた。2、3年前から、落選10回以上の家族には空き部屋を優先的に斡旋する制度が出来た。われわれはその新制度の恩恵に浴したわけだ。 渋谷から三軒茶屋を通って成城学園にいたる道路は玉電の上町駅を過ぎたあたりで桜新町に向かって枝分かれする。弦巻都営住宅は丁度その中間ぐらいにあった。4階建て鉄筋コンクリート造の集合住宅が7、8棟、2列に東西に並んでいるという構造であった。われわれの入った部屋は最初、一番西側の北棟の一階であったが日当たりが悪いので後に南棟の三階に替えてもらった。六畳と四畳半の2部屋にバス、トイレと狭いキッチンが付いていた。広さは20㎡もあったろうか。家族用のアパートとして今からは信じられないほどの小部屋であった。しかし、八畳一間、バス・トイレなしというそれまでの住居に比べれば格段の改善であった。
 ここに引っ越してから数ヵ月後、昭和33年(1958)3月、長女ひろ子が生まれた。このときには長男のときほど命名に慎重ではなかった。女の子は成長すれば他姓になる。平凡で将来本人が引け目を感ずることがなければ何でもよいとして、ひろ子とつけた。彼女が3、4歳になって、中庭の砂場で友達と遊んでいるときに三階のわが家の窓から「ひろ子!」と呼ぶと、本人のほかに2人の女の子がキット私を見上げたものだ。

 私は毎朝、渋谷、成城学園間のバスに新東宝撮影所前のバス停で乗り渋谷に出て、そこから山手線の有楽町駅で下車して会社に通った。帰宅が遅くなるときには渋谷から玉電を利用した。上町駅で下車、家まで歩いて10分あまりかかった。途中に、長く世田谷区長を務めていた佐野氏の豪邸があった。土塀が100メートルも続いていたであろうか。その中には巨木が聳えていて建物の模様など全くわからなかった。毎朝、バス停まで出る道の途中には作家の井上靖の邸宅があった。わが家の北側の窓を開けると坂の中腹に立つ井上家の全貌が見えた。東西に長い、新築平屋の日本家屋であった。重厚すぎず、軽薄すぎず、『天平の甍』や『氷壁』の作者にふさわしい謹直な住まいだと感心して見ていた。弦巻住宅から東のほうに歩いて10分ぐらいのところに広島県選出の衆議院議員松本滝蔵氏の新築2階建ての家があった。彼はプロ野球やサッカーの振興にも深く関係していた。政界、スポーツ界の大物にしては質素な住宅であった。彼は政治家として大成することなく早世した。松本家の少し手前に弦巻幼稚園があった。長男も長女もこの幼稚園に通った.園の方針として園児の自立心を養うため登園、下園に父兄が付き添わないようにとの指示があった。それでも最初のうちは妻が隠れて後を付けたりしていた。   右の写真は昭和37年(1962)4月、ひろ子の弦巻幼稚園入園記念に写す。ひろ子 4歳、忠司 6歳。 忠司は結婚して現在杉並区に住んでいる。ひろ子は3児の母親である。孫娘は今年末ハイスクールを卒業する。ひろ子一家は西オーストラリアの首都、パース近郊、アーマデールという町に住んでいる。

 弦巻住宅の西側には大きな植木屋があった。大小さまざまの植木が栽培されており、超小型の森林公園の趣があった。この植木屋の脇の道をしばらく行くと馬事公苑に出る。もともと競馬用の馬の訓練をするところであるが敷地が広く、芝生の広場で子供を遊ばせることが出来た。友人が子供づれで遊びに来たときには何時もここに案内してみんなで遊んだ。子供らが小学校の低学年の頃、ある日曜日にここで子供らとバレーボールをしているときに、妻が左足のアキレス腱を切った。近所の整形外科医にかかったのであるが治療は練り薬を塗った湿布をあてがうだけである。何時までたってもよくならないので、ついに地域の大病院である関東中央病院に行ってやっとアキレス腱断裂であることがわかった。修復手術をして1ヶ月半も入院していたであろうか。後にわかったことであるが最初にかかった近所の医者は戦前、満州で獣医をしていた。この界隈では有名な藪医者ということであった。妻の入院中子供らの世話のために私の郷里の母に来てもらった。母はガスコンロなど使ったこともない田舎の老人であるから、ガス栓を閉め忘れてガス中毒を起こすのではないかと私は会社にいても気が気ではなかった。妻のアキレス腱も、手遅れの手術で入院が長引いたが幸いビッコになることはなかった。私たちはここで昭和39年(1964)、川崎汽船の代官山社宅に移るまでの7年間を過ごした。

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