平和の時代 その二

飯野海運釣り部

腐った魚

  私たちの結婚は8畳一間の木造モルタルの借家で始まった。居住スペースが狭いのは今から見れば異常であるがその当時はごく普通であった。昭和31年(1956)の経済白書に 「もはや戦後ではない」 という文句が使われて、この言葉はたちまち流行語になった。経済白書は戦後10年たって漸く主要な経済指標が戦前の水準を回復したといっているのである。同じ白書は一方で住宅事情だけは別だと断っている。私は東京に出てきてから自炊生活4年、下宿生活2年半、寮生活2年の後に結婚生活に入った。このうち下宿生活は名古屋であった。自炊、下宿、寮と生活形態は異なるものの独身生活にはさまざまなわずらわしさがつきまとう。結婚はわずらわしいこれら生活上の些事から私を解放してくれた。私は毎日会社に出勤し、時に友人とマージャンをし、家に帰れば飯を食ってごろ寝という生活に満足し、これをエンジョイした。昭和33年(1958)にはわが国のテレビ受信契約数は100万に達した。翌昭和34年4月、皇太子殿下の結婚パレードを機に、テレビは爆発的に普及した。私はテレビはただでさえ狭いわれわれの生活空間の安居楽住を撹乱するとして家に入れなかった。子供らが小学校に入る。子供同士でテレビ番組を話題にする。うちの子供はテレビ番組の話題には入っていけない。仲間はずれになると不平を言うのでやむなくテレビを買った。昭和45年(1970)のことであった。

 こういうサラリーマンの気楽な生活の中で私が不満に思ったのは魚であった。食卓にたびたび出る魚の鮮度であった。妻が買ってきて調理して食卓に上す魚の鮮度について、新婚当初はよく 妻といさかいをした。夕食の食卓に出たアジの焼き物を私はこれは腐っているという。妻は血相を変えて腐ってなんかいないという。私、魚は釣り上げて直ぐに死ぬ。死んだ直後から腐敗が進行し始める。東京の魚屋の店頭に並んだ魚は皆腐っている。その中で腐敗度が20度から30度位までがまあまあ食べられる魚だ。このアジは腐敗度85度ぐらいだ。妻、魚屋が売っている魚が腐っているはずがない。私、魚屋が売ろうがデパートが売ろうが売る人に関係なく 魚の腐敗は進む。妻、そんなことを言っていたら東京の安サラリーマンは魚を食べられない。そういわれると安サラリーマンの私としては一言もなく、腐った魚にも箸をつけた。そのうちに私は腐敗許容点を上方に修正した。妻は妻でこれを若干下方に修正したのだろう。知らず知らずのうちに妥協が成立して、魚の腐敗論争は結婚2、3年で終止符を打った。

 私が育ったのは瀬戸内海に臨む農漁村であったので新鮮な魚に不自由をしなかった。 漁師は朝早く船を出して鯛、メバル、ハマチ、チヌ (東京ではこれを黒鯛という) ギザミ、オコゼ などを釣る。釣った魚は漁師の女房がハンボウに入れて頭に載せ、市場に運びここで村民に売るのである。 ハンボウとは漁師の女房が魚を入れて頭に載せて売り歩く丸い木製の桶のことである。それは電気洗濯機のない時代には何処の家庭にもあった洗濯盥に、形も大きさもそっくりであった。市場が賑わうのは午前7時半から9時ごろまでであった。市場といっても築地市場のような場所を想像してはいけない。村の中心のちょっとした広場で、樹齢二百年ほどの一本松の根かたに、数人あるときは十数人の漁師の女房たちがハンボウを並べて、亭主の釣ってきた魚を売るのである。われわれ村民は漁師が釣り上げた魚を釣り上げてから24時間以内には食べていた。私は17歳の冬、12月、江田島の海軍兵学校に入った。2500人の生徒を収容する大食堂で皆一斉に食事をするのであるが、入校した最初の日か次の日かに出た魚には驚いた。魚の切り身の浮かんだ汁椀を口元に近づけるとプンとアンモニアの匂いがするのだ。さすがに食べることが出来なかった。となりの同期生もしかめ面をして口をつけるのを躊躇している風であった。しかし、おかずを残したのは入校して最初の2、3日であった。激しい訓練と余裕のない時間割の中で三号生徒 (最下級生のことをこういった) は無性に腹が空く。少々匂いがしようが鮮度が悪かろうが食べなければ身体がもたない。食卓に出るものは何でも食べるようになった。このアンモニアの匂いのする魚は冷凍の鮫ということであった。生徒は昔からこれを江田島金魚といって嫌悪した。

 「平和の時代 その一」 の末尾で述べたとおり、昭和30年代の終わりごろ妻はアキレス腱を切って1ヵ月半ほど入院した。妻の入院中、私と子供らの世話をするために郷里から母が上京して来た。母がわが家に着いてから10日もたったであろうか、或る日の夕食のときに母に、たまには魚を食わしてくれと注文をつけた。母が来てからというもの一度も魚を食べていなかったのだ。母は東京の魚は腐っとる、目が死んどる、という。それからも魚を買ってくる様子はないので仕方なく自分で買ってきて料理だけ母に頼んだ。私はもう何年も前に魚の腐敗許容点を上げて妻と妥協していたが、母は依然として田舎の鮮度基準を墨守していたのだ。最近、全国紙に連載されているコラムニストの北連一氏の随筆にこんな話が出ていた。今から20年も以前、北氏の母堂が北氏と一緒に暮らすため九州の唐津から上京された。或る日、近所の魚屋に出かけた母堂は 「死んだ魚ば売っちょるよ」 といって手ぶらで帰ってこられた由。

メゴチ

メゴチ
(木村義志著『魚と貝』主婦の友社より)

 こういう劣悪な環境の中で新鮮な魚を食おうと思ったら自分で釣りに行くより他に仕方がないと私は漸く気づいた。そこで勤めている飯野海運の釣りの同好会に入った。この同好会は釣り部と称して年に何回かシーズンに東京湾のハゼ釣り大会を催した。私はこれに参加して漁獲のハゼを家に持ち帰り刺身にして食べた。又ハゼ釣りの最中、メゴチが釣れるのである。この魚は魚体が粘液でぬるぬるしている上、胸鰭(ムナビレ)の先が鋭くとがっているので、びくに入れても鰭(ヒレ)が網に絡まってなかなか取り出すことも出来ない。始末の悪い魚なので皆釣り上げても針から外して海に捨ててしまう。私は折角の収穫を捨てることはないと家に持ち帰り刺身にして食べた。他の連中がメゴチを釣り上げると大きいものは貰い受けた。刺身にすると、かすかな甘みがありねっとりと口中にまつわりつく感じは捨てがたい。私は河豚の刺身などよりもはるかにうまいと思ったものだ。しかしこういう始末におえない小魚を刺身にする妻は大変であった。胸鰭をペンチで切ったり、ぬるぬるを大量の塩でこさげ落としたりして大童である。私はこの魚は刺身より天麩羅向きとは思ったが、台所で汗水を滴らせて奮闘している妻を見ると、天麩羅にしてく れとは言いにくかった。後に昭和60年代になって新聞や雑誌で、メゴチが天麩羅の種として優れものであることが喧伝されるようになった。私はそのときよりも20数年も前に、江戸前のメゴチの味を発見した先覚者であった。心中ひそかにわが味覚の確かさを自讃したものであった。

河豚(フグ)

 はぜを釣っているとよく河豚がかかった。釣り部の幹事は河豚は頭をつぶして捨てるように皆に指示していたが、私は大きいものは持参のナイフで腹を開け、内臓を捨てた上、海水で十分洗って家に持ち帰った。内臓と血だけ捨てれば肉は安全である。 家で再び真水で洗い味噌汁に入れて賞味した。家族は誰も食べなかった。河豚毒の成分はテトロドトキシンといって神経痛の特効薬である。私の田舎では漁師の家の年寄りが時々河豚中毒にかかった。 漁師上がりの老人は職業病として神経痛を患っているものが多かった。ところが一度河豚中毒にかかって生還すると神経痛が雲散霧消するのである。彼らは河豚の刺身に卵巣か血の少々をつけて食べるのだ。そうして軽度の河豚中毒にかかれば神経痛はよくなる。神経痛はよくならないまでも、微量の河豚毒による唇などのしびれはえもいわれぬ快感であるらしかった。2、3年に一度ぐらいこれで死者が出た。河豚毒の量を誤って毒を食べ過ぎたのである。最近の週刊誌に作家の団鬼六の「過ぎ去りし美味」という話が載っている。これによれば、東京にも今から20年位前までは内緒で河豚の毒を出す店があったという。少量の毒を醤油に混ぜて、これに身をつけて食べるのは絶品である由。しばらくすると口の周りがしびれてくる、その感覚がなんともいえず気持ちいいと語っている。

 こうして自分で釣りに行ったのも昭和40年代の初め頃までであった。日曜日に接待ゴルフなどに出かけることが多くなると次第に釣りとは縁遠くなった。よく したものでその頃から魚の冷凍・冷蔵技術が向上して、東京の庶民でも魚屋で新鮮な魚を手に入れ易くなった。私が釣りをやめて暫くした頃、新聞に東京湾の河豚の肉から河豚毒が発見されたという記事が出た。私の常識に反することであったがともかく毒河豚にあたらなかったことは幸運であった。この項を書くにあたってインターネットで 「テトロドトキシン、河豚毒」 をキーワードに検索した。多数の記事の中に、河豚毒は河豚本体を食べるときよりも包丁、まな板、調理台などに附着した毒が危険であるという書き込みがあった。私は釣り上げた河豚本体こそ十分に水洗いしたが、包丁やまな板まではそれほど警戒しなかった。先の河豚の肉の毒の新聞記事といい、私はかなり危険な行為をしていたことになる。この項をお読みになった皆さんはどうか私の真似をしないでく ださい。余談だが作家の黒川博行に刑事物の短編推理小説 『てとろどときしん』 というのがある。憎んでいる内縁の夫に養殖河豚の無毒の肝と偽って、猛毒のく さ河豚の肝を食わせるという話である。地上げ屋の暴力団などもからんでストーリーが展開する。このなかにテトロドトキシンという毒物は化学合成が不可能で、実際の河豚の肝と卵巣をすりつぶして精製するとある。

父の生涯とその死

7月19日

 私の父、岡野玖一は昭和36年(1961)7月19日、彼が37年前の大正13年(1924)に建てた自宅の寝室で亡くなった。死因は胃癌であった。母の話によると前年中ごろから胃の調子が悪いと訴えていた。富山の広貫堂の置き薬や売薬で一時しのぎをしていたが、良くならないので9月に尾道市の県病院に行き胃癌を宣告された。同時に一日も早い手術が必要である旨告げられた。医者が手で腹部を押さえただけで病巣を触知できるほど手遅れの状態であったらしい。手術をしたのは翌年の1月上旬であった。開腹した結果、癌はすでに胃の内部全体に拡がっていて、手をつけられない状態であったのでそのまま縫合した。手術後2、3週間は快調で、このぶんではこのまま良くなるのではないかとぬか喜びをした。しかし現実は厳しく、手術後丁度半年で亡くなった。享年63歳であった。 その頃、田舎では癌といえば結核と並ぶ業病(ゴウビョウ)であった。病院でも本人に告知しないことはもちろん家族にも知らせないことがあった。死んだ後まで周囲に死因を伏せるのが当たり前であった。頑固な合理主義者であった父は、病院で担当医に完全な告知を迫ったのであろう。父は一人で県病院に行ったのである。帰って母に胃癌であることを告げたという。

新婚当時の父
洋服仕立屋

  父はもともと洋服の仕立屋であった。郷里の小学校を卒業した大正2年(1913)から、県庁所在地、広島市の大きな洋服屋に見習いで入った。7、8年の丁稚奉公の後郷里に帰って洋服屋を開業した。私が小学校低学年の頃、毎日仕事場の仕立台に向かって、生地を裁断している父の姿を覚えている。この仕立台の脇にはシンガーのミシンが2台あった。母もよくこのミシンを使っていた。母の本職は助産婦であった。おそらく 父からミシンの操作など習ったのだろう。わが村に鉄道が開通したのは私が小学3年生の昭和9年(1934)であった。それまでのわが村と外部世界との交通は船であった。わが村は産業の乏しい小村なので港の設備など貧弱なものであった。お客は沖合いに停止した連絡船に、岸から伝馬船で乗りつけるのである。後に呉市と竹原町との間に1日に1往復のバス便が出来た。県道に面していたわが家はバスの待合所を引き受けた。バスに乗る人は我が家の入口のガラス戸を開けて入ってくる。入口から家族の居住スペースに通じる長さ2間(3.6m)、幅半間(0.9m)の通路がある。通路の右側は洋服仕立ての仕事場である。左側は半間幅の板の間で、そこに薄縁(ウスベリ)を敷いてそれが待合室である。バスの乗客はその板の間に腰掛けて、仕事場で働いている私の両親と雑談を交わしながらバスが来るのを待つ。乗客は皆、村の人で両親の知り合いである。板の間の待合室の真ん中には大きな丸い陶器の火鉢があって、冬場はそれに炭がいけてある。私たち子供はバスが大好きで、1日2回、上り下りのバスが我が家の前を発車するときには、その後ろに付いて走った。排気ガスに含まれるガソリンの匂いに、都市文明の匂いをかいでいたのだろう。

寅吉伯父

 父の長兄を寅吉といって大きな百姓である脇本本家を継いでいた。私の父は脇本家の末弟なので長兄の寅吉とは10歳ぐらいも年が離れていた。 父とこの寅吉兄と親しく 話をしているのを見たことがない。おそらく 頭が上がらなかったのだろう。私にとっては伯父に当たるこの脇本寅吉は副業として博労(バクロウ)をやっていた。 博労とは牛馬の仲買商人のことをいう。本郷町で牛馬の市(イチ)が立つときには出向いて、これはと思う牛馬に入札するのである。 彼は落札した牛か馬を引いてわが村の自宅に徒歩で帰ってくる。途中、県道に面したわが家に立ち寄る。上は詰襟の和風の下着に羽織、下は股引(モモヒキ)・地下足袋(ジカタビ)といういでたちで、ときに細く折りたたんだマッサラの日本手拭を首からたらしていた。小柄ながら背筋が伸びて颯爽としていた。

 私の 父は家では無口であったが外に出ると普通にしゃべった。時々極端な説を唱えた。たとえばこうである。家にねずみがいなくなったらその家はもうつぶれる。ねずみは本能的にそれがわかるのであらかじめ逃げ出すのだ。我が家ではねずみがいなく なったら何処かよそから捕まえてきて天井裏に放す。父がまじめな顔をしてこんな法螺話をすると周りの人はみな苦笑した。この寅吉伯父は父に輪を掛けた法螺吹きであった。彼の毒舌にかかったら村長さんも校長さんも顔色(ガンショク)はなかった。市(イチ)で買ってきた牛を表の格子(コウシ)につなぎ、母の入れたお茶を飲み、キセルで煙草を吸いながらひとしきり大言壮語して帰って行った。 私は彼の話が大好きで、彼が来るといつも隣に座って耳を澄ませた。 後に中学で漢文を習うようになると、ごく 初期に 「千里ノ馬ハ常ニアレド、伯楽ハ常ニハアラズ」 という有名な文句を習う。伯楽(ハクラク)とは博労のことである。一日に千里を走る名馬はいつでもいるが、その名馬を見つける鑑識眼を持った名博労はいつでもいるというわけではない、というほどの意味である。漢文の部分否定の例としてあげられる。私はこの言葉を知ってからというものますます寅吉伯父を尊敬するようになった。

新聞販売店

新聞配達の開始

  わが村は上にも述べたような片田舎であった。呉線が開通したとはいえ急に文明開化になるわけではない。背広の需要など知れたものであったろう。父は副業として新聞販売店を引き受けることにした。中国新聞と毎日新聞であった。昭和12年(1937)7月、支那事変が始まって皇軍の支那本土への進撃が目覚しいものであったので購読部数は増加しつつあった。最盛期には中国新聞100部、毎日新聞20部ぐらいであったろうか。新聞配達は朝のうちだけである。昼間は洋服仕立てが出来るので理想的な副業と思われた。私が小学5年生になった頃であった。私には、お前の腺病質を治すために引き受けることにしたと説明された。私の役目は、朝、呉線の一番列車で広島から運ばれてくる新聞の包みをわが村の小駅で受け取って、家に持ち帰り前日の夕刊とセットにして、担当の数部落の購読家庭に配達することであった。配達の大部分は父の役目であったが新聞購読者の増加につれて私の配達部数も自然に増えていき、私は子供ながら父の重要なパートナーとなっていった。新聞配達は子供用の自転車によった。呉線の上りの一番列車は5時20何分であった。5時には目覚まし時計で跳び起きて、素早く洗面、着替え、自転車で駅に走った。それまでは7時ぐらいまで寝ていたのだから、今では記憶がないが最初のうちは随分辛かっただろう。年に2、3回はどうしても眠くて起きられないことがあった。そんなときには父が私の分もカバーして配達した。子供のしつけには厳しい父親であったが時々の私の朝寝だけは叱らなかった。子供に無理をさせているという後ろめたさがあったのであろうか。叱られないだけに子供の私としては、その日一日中、悪いことをしたという後悔の念にさいなまれた。
徳富蘇峰


毎日新聞

  新聞販売店を引き受けてから私の活字に対する飢えはかなり癒された。それまでわが家では中国新聞だけ購読していた。それからは毎日新聞も読めるようになった。まもなく毎日新聞は大毎小学生新聞を発行し始めた。これに「お城物語」とか何とかという連載物があって、日本各地のお城の築城や城主や落城にまつわる歴史が述べられていた。私はこれを切り抜いて保存し何度も繰り返し読んだ。毎日新聞本紙のほうには歴史家、評論家として著名な徳富蘇峰の『近世日本国民史』が連載中であった。この頃はすでに明治編に入っていた。私は題名に引かれて時々拾い読みしたが古文書の引用が多く、子供には難しすぎた。この叢書は戦後、著者の亡くなるまで継続された。織田信長から徳川幕府滅亡までが50冊、明治維新(1868)から西南戦争(1877)までが50冊、合計100冊に及ぶ大部のものである。時代小説の作家にとって作品の素材の宝庫といわれた。 (右の写真は吉川弘文館の『国史大辞典』から借用した)。

 毎日新聞社は又『サンデー毎日』という週刊誌を発行していた。これが年に2回小説を募集した。優秀作品は『サンデー毎日臨時増刊号』に発表された。私はこの臨時増刊号を耽読(タンドク)した。ある年の正月、炬燵に入って蜜柑を食べながらこの臨時増刊号を見ていて 「ベンガル龍騎兵」 という小説に出会った。実録小説とでもいっていたのであろうか。今でいうノンフィクション・ノベルである。エキゾティックな題名に惹かれて真っ先にこれを読んだ。その当時から百年も前のインドの物語である。インドのある地方で征服国イギリスに対する叛乱が起こる。英本国を食い詰めて植民地インドに流れ込んできた無法者の集団がこれを鎮圧する。はじめはこれを援助していたインド総督は叛乱が片付くと、急に態度を変えてこの私兵を弾圧・粛清する。この部分の小見出しが 「狡兎死して走狗煮らる」 というのであった。狡兎(コウト)はすばしこく逃げ回る兎、走狗(ソウク)はこれを追う猟犬。兎が猟犬に噛み殺されてしまうと次に不要になった猟犬が飼い主に殺されて食べられる番だというのである。「狡兎死して走狗煮らる」 という言葉の調子の良さに何度も声に出してつぶやいているうちに、わけのわからないまま覚えてしまった。この言葉が 『史記』 から取られた事を知ったのはそれから数十年も後のことであった。漢の劉邦が強敵、楚の項羽を破って漢帝国を創立するのは今から2200年も前の話である。ひとたび帝国の基礎が固まると、劉邦は建国の功臣、韓信を捕らえて殺してしまう。逮捕される前に韓信が人に語ったとしてこの言葉は『史記』に載っているのであった。かく して私はこの頃から新聞小説や週刊誌を濫読するようになった。

中国新聞

 中国新聞は今では日本有数の地方新聞である。しかしその当時はまだイエロー・ペーパーの域を脱しない記事が紙上に散見された。イエロー・ペーパーとは人間の不健全な感情に訴えかけて、犯罪・醜聞などを誇大に取り上げる悪徳新聞と広辞苑は定義している。米国で悪徳新聞が粗悪な色付きの用紙に印刷されたことからこの呼称ができた。或るとき 夕刊の一面上段に特大の活字で 「灰が峰の血煙」 というのがあった。灰が峰(737m)というのは軍港、呉の後背山地の主峰である。今では呉市の重要な観光スポットになっているが戦争中は立ち入り禁止区域であった。その山の中で、呉の私立中学と商業学校の生徒が喧嘩をして双方に怪我人が出、警察に補導されたというのである。当時は同一地域の異なる中学の生徒の間の喧嘩は珍しいことではなかった。後に私が通うようになった忠海(タダノウミ)中学でも糸埼の鉄道学校の生徒と時々集団で喧嘩をしていた。数人または10数人の生徒たちが入り乱れて殴り合いをした。ときにはメリケンとかチェーンなどの凶器も使った。それでも重傷者が出ることは稀で、死者にいたっては全国的にみても皆無といえた。しかしこれが警察沙汰になると学校当局もほっておくわけにはいかない。各学校は参加者を処罰した。処罰といっても首謀者が1ヶ月の停学になるぐらいで、大した非行とは見られていなかった。それにしても 「灰が峰の血煙」 とは言いも言ったり。私のような子供の目から見ても異様な過剰表現と思えた。

 また或るときは 「童貞総統獅子吼す」 などという大活字が躍っていた。これは朝刊の第一面であった。童貞総統とはドイツの独裁者ヒトラーのことである。獅子吼(シシク)とは雄ライオンがたてがみを振り乱して吼える様を言う。弁士が身振り手振りも大袈裟に絶叫する演説にこの言葉を使った。ヒトラー総統がミュンヘンのナチス党大会で大演説でもしたのであろう。昭和11年(1936)には日独防共協定が成立していた。 当時の日本はドイツとの提携の方向に進んでいた。わが国の新聞もその最高指導者のことを好意的に報道していた。ヒトラーが独身であることはよく 知られていたが、結婚していないことと童貞であることは必ずしも一致しない。それぐらいのことは子供の私にもわかるのでこの大きな見出しの活字に違和感を持った。1945年4月30日、ソ連軍に包囲されて陥落寸前のベルリンの総統官邸の地下室で、ヒトラーは長い間の愛人エバ・ブラウンと結婚した。その直後に2人は自殺するのである。昨年(平成16年)、NHKテレビでヒトラーの最後に関するドキュメンタリー番組が放映された。そこで画面に2人の結婚証明書が映し出された。そこには Adolf Hitler の署名の脇に、女性の手蹟で Eva Hitler Braunn の署名があった。

日本兵の血

  わが家が新聞配達をやっていたのは支那事変勃発(1937)直後から大東亜戦争が始まる(1941)直前までであった。 支那事変の拡大につれてわが村からもしきりに出征兵士が出て行った。そうすると新聞の購読数は増えた。やがて英米との関係が険悪になるにつれて部数はさらに増えた。私は実際に新聞配達に携わっていたので戦争の進展と新聞購読部数の伸びの関係を身をもって感じていた。わが国の大新聞の多くは明治23年(1890)の帝国議会開設前後に大いに部数を伸ばした。当時の新聞は知識階級の占有物であって、全国紙といえども発行部数1万部を超えるものは稀であった。それが日清、日露と戦争のたびに倍増していく のである。春原昭彦の 『日本新聞通史』 は ”この期に起こった最大の事件が日清戦争(1894~1895)である。「戦争は新聞を発達させる」 といわれるが、東京、大阪の新聞は競って従軍記者を派遣、戦況を号外で速報したため、新聞は全国津々浦々に及び、経営の基礎が固まり、企業としての新聞経営がなりたつようになった。” と書く。また 伊藤整はその著 『日本文壇史』 において、日露戦争(1904~1905)の終わった翌々年の明治40年(1907)に朝日新聞50万部、毎日新聞30万5千部、報知新聞30万部、読売新聞3万部に膨れ上がったといっている。当時の新聞は小説や創作の発表の舞台として、月刊雑誌以上に重要視されていた。さてこそ 『日本文壇史』 に新聞の発行部数まで登場するのである。 ドイツの経済学者、フリードリッヒ・リスト(1789~1846)は海運業というのは諸国民の血によって繁栄した産業だといった。戦争のたびに海上運賃が高騰して船会社が儲けたことをいっているのだ。このリストの言葉を借りて言えば、わが国の大新聞は日本兵の血によって今日の大を為したといってもあえて言いすぎではない。

頼母子講(タノモシコウ)

 頼母子講とは講の参加者が定期または不定期に一定の金額を積み立てて、参加者のうち現金の必要なものがこれを落札するという制度である。落札金額と積立金額の差額は配当として出資者に配られる。現金収入が乏しく、金融制度の未発達であった昔は全国津々浦々にこの講があった。物の本によれば頼母子講の起源は鎌倉時代にさかのぼるという。講の参加者を総称して講中(コウチュウ)といった。わが峠(タオ)部落の講中は17、18軒の集まりであった。講中は単に金融制度の補完ばかりでなく、冠婚葬祭や、災害、家族の病気などの場合、皆が寄り合って対象の家庭を助けた。隣近所の相互扶助制度といったら最もわかりやすい。講中の寄り合いで使う鍋、釜、大皿、小皿、徳利、盃、茶碗、湯呑、箸、急須などの道具は同じ講中の資産家の蔵で保管された。いずれも何十年も昔に買った、時代がかったものであった。

 頼母子講の積立金を落札した者は、自分の家に講中を招いて宴会をするのがしきたりであった。宴会に酒はつき物だ。酒が一滴も飲めない父はこの宴会が大の苦手(ニガテ)であった。時に仮病(ケビョウ)を使って欠席した。小学生高学年になった私は時々父の代理としてこれに出席した。宴会の家の玄関で述べる口上を母から教わって、道々暗誦しながら行った。「父が風邪気味なので僕が名代(ミョウダイ)としてまいりました」 とでも言ったのであろう。宴会が始まるとおばさんたちが料理を運んでくる。盃のやり取りが一渡りゆきわたったところで、一座の長老が 「岡野の倅は はあえかろう」 というと、私の前の料理はおばさんの手で折箱に詰められ、私はこの折詰めを持たされて無罪放免になるのであった。「はあえかろう」の「はあ」は「はや」がなまったものであろう。 もはや帰えっても良いだろうという意味のこの地方の言い方である。

 頼母子講の宴会ではさっぱり生彩のない父であったが講中の冠婚葬祭ではなくてはならない存在であった。父は手先が器用で書道と生け花に長じていた。講中の冠婚葬祭において受付で来会者名や香典、祝い金の金額を細長い帳面に筆で記帳するのは父の役目であった。今ではこんな場合には参会者が自分で記帳するのが普通であるが、戦前の田舎では自分で記帳する者はいない。冠婚葬祭の当事者が書記を用意するのである。おそらく悪筆が何時までも残るのを恐れた結果かと思う。事実この来会者と拠出金額を記載した帳面は何十年もその家に保存されて、他家に行事のあった場合の拠出金額の参考にされた。又その家の床の間に花を生けるのも父の役目であった。父の華道の流派は池坊(イケノボウ)であった。先生について習ったような形跡はない。家に生け花の参考書が2、3冊あった。たぶん独学であったのだろう。松の枝や花木が花器の真ん中に直立しており、その左右両翼に高さも大きさも異なる葉や、花木の枝が湾曲して添えられている。おそらく池坊の流派の正風体というか標準体といった物であったのだろう。何処に活けてあっても父の作品は一目でわかった。昭和15年(1940)内務省令によって隣組制度が出来た。隣組は町内会の下部組織ということであった。大体、頼母子講の講中が一つの隣組を形成した。父は推されて新しく出来た隣組の組長になり、終戦まで勤めた。

父の怒り

納屋 なや

 父は無口であったので怒ったときに何時怒りが爆発するか見当が付かず、怖かった。あれは小学校3年生ぐらいのときであったろうか、大潮の日に友達と海へ浅蜊採り(アサリトリ)に行った。思わぬ豊漁でつい時間のたつのを忘れた。2人とも大型の浅蜊をバケツ一杯に取ったのであるが気が付いたときにはすでにあたりは薄暗く、潮も次第に満ちてきてあわてて引き上げた。少々帰宅時間は遅くなっても、これだけの収穫があれば褒められるだろう位に思って意気揚々と帰宅した。ところが家に近づくと何となく様子がおかしい。すでにあたりは夜の闇が立ち込めているのにうちの前の道路は我が家の電灯で明々と照らされている。となりの家の叔父さんがあわただしく出入りしているのが遠目にもわかる。あまりに帰宅が遅いので海で溺れたに違いないと、隣近所で捜索隊を出そうとしていたところであった。ただ今と言って家に入るや、父は今まで何処をうろうろしていたかと叫んで、いきなり平手で私の頬を叩いた。バケツはひっくり返って中の浅蜊は玄関にぶちまけられた。私は泣き泣きその浅蜊をバケツに戻して近くの小川に捨てに行かされた。その後は私の折檻のときに使われる納屋に押し込められた。納屋には電気はなく、止まり木を設けて鶏の寝部屋を兼務していた。突然人が入ってきたので鶏は騒ぐし気味が悪かった。仕置きのため納屋に入れられたときに救出に来るのは何時も母であった。お父さんによく謝んなさいと懇々と諭されたものだ。

 今も昔も子供は誰でも食べ物に好き嫌いがあった。私は大根と人参が嫌いであった。大根を鍋で煮た匂いを嗅ぐと吐き気がした。人参は大根ほどではないが嫌いであった。小学生時代の私は身体が弱く、通信簿の栄養欄は何時も丙であった。毎日不味い肝油ドロップを飲まされていた。こんなに身体が弱いのは大根と人参を食べないためだ、と何時も夕食の食卓で両親から説教された。時には夕食止めとなり納屋に押し込められた。時には泣き泣きながら無理に食べた。中学に入ってからは食べ物の好き嫌いで怒られることはなかった。中学生になってからは夕食後も勉強をしなければならないので、あまり叱ると成績に影響するとでも思ったのであろう。とくに中学1年の1学期に父が学校に呼び出されて受け持ちの先生に、このままでは落第は必至であると告げられてからというもの、私はあらゆる家事手伝いの負担を免除された。それまで表(オモテ)の6畳間で祖母と枕を並べて寝ていたが、それからというもの2階の8畳の客間が私の部屋とされた。夕食後は直ぐに私の部屋に引きこもって読書や勉強に専念することになった。そういう生活上の変化はあったがだからといって食べ物の好き嫌いが直るわけではない。偏食が直ったのは兵学校に入ってからであった。
土肥周丸


土肥周丸

 1学期の学期末試験が終わって、学校に呼び出されたことは父にとっては大きなショックであった。その日の夕食の席で、豊かでもない家計の中から無理をして中学に行かせているのだ。もし落第したら退校させると言った。その言葉が決して脅かしでないことは父の日頃の言動からわかるのであった。私はただただ小さくなって聞いているだけであった。父はさらに言葉を継いで、勉強法を土肥さんに教わって来いと言った。土肥さんというのは吉名小学校で私の1級下の子で土肥周丸(ドイカネマル)という。私は高等科1年から中学に入ったので順調に小学校6年から入った土肥と中学では同じ学級になったのだ。この年、吉名小学校から忠海(タダノウミ)中学に入ったのは私と土肥の2人だけであった。土肥は氏神さんの神主の弟で、顔こそ知っているものの、部落は違うしあまり口を聞いたことはない。下級生に教えを受けるというのも気に入らなかったが父の命令を無視するわけにはいかない。

 土肥はこう言った。中学は小学校と違って家で勉強しなければ皆について行けない。毎日、学校から帰ったらその日習ったことを復習する。次に翌日習うことを予習する。日曜日には1週間分の復習をするほか月曜日の予習をする。土肥は自分がやってもいない勉強法を私に向かってとくとくとしゃべったものだ。しかし当時の私は人の言ったことを疑うことを知らない純真な田舎少年であったので、この土肥の言葉を真に受けて拳拳服膺 (ケンケンフクヨウ。忠実に守ることをいう) した。その結果、2学期と3学期の試験で取り返して落第を免れた。そればかりでなく1学年の総合成績は6位となり、2年生に進級したときには1組の副級長 (わが中学では級長のことを幹事と称した) に任命された。土肥はその後、東京農大を卒業して三越百貨店の園芸部に勤めた。昭和30年代の半ば頃、世田谷の豪徳寺に新居を構えた。私はその頃、世田谷の弦巻町に住んでいたので、とある日曜日、自転車で遊びに行った。30分ぐらいかかっただろうか。立派な新築の2階建てに日赤の看護婦の姉上と住んでいた。彼は同級生のうちの出世頭として皆に羨ましがられたが40歳そこそこで早世した。
治田栄一


治田栄一

 忠海中学に入学して半月ぐらいたったときに、英語の訳読の時間に棗田(ナツメダ)先生にこっぴどく怒られた。教科書の一部分を読んで和訳するのが当たったのに全く出来なかったのだ。予習をしていないのだから当然であった。授業が終わってから隣席の治田栄一が私の醜態を見かねてこう言った。英語は予習をしなければ駄目だ。それにはサンモン (虎の巻のことをわが中学ではこう言った) で予習する方法もあるが辞書でやったほうが良い。兄貴が中学時代に使っていた辞書があるのでそれをやるから今後は予習をして来なさい。私は治田の兄貴の使い古しのコンサイス英和辞書をもらって予習をはじめた。

 予習をはじめて暫くするうちにこの辞書は y の途中からページが脱落していることがわかった。父に英和辞典を買ってく れと訴えると、必要な参考書は何でも買ってやるからお母さんにそういえという。私は先生の推薦する岩波版、斉藤秀三郎著『英和中辞典』を買った。この辞書は業界でも定評のある英和辞書であることを後に知ったが当時は猫に小判というところであったろう。この辞書はその後、兵学校にも持っていき、大学、会社勤め中も座右において使った。葦編三絶 (イヘンサンゼツ) の状態になって廃棄したのは今から10年位前のことであった。辞書ついでにいうと国語・漢文用に冨山房版、服部宇之吉・小柳司氣太共著『新訂 詳解漢和大字典』 を買った。これは国語の先生の推薦であった。初版は大正5年(1916)である。昭和11年(1936)に大改訂がなされた。私がこの辞書を隣町の本屋で買ったのは改訂後の50版であった。定価は3円80銭。この辞書も『英和中辞典』と同様、兵学校にも持っていき、今なお頻繁に使用して表紙は取れかかっている。私の国漢知識の源泉である。この辞書は版を重ねて128版というロングセラーで、今でも書店の棚を飾っている。

 余談であるがこの治田は終戦時、海軍兵学校の最上級生であった。終戦によって廃校となる兵学校は在校生の復員を始めた。治田らは学校当局からカッター1隻の払い下げを受け、尾道、三原方面に帰る生徒10数名を糾合して、帆走と撓漕で復員した。途中、生家に帰る乗り組みの仲間を一人一人、港々で下ろしていきながら,弓削島(ユゲシマ)に帰る貴田潤が最後となった。貴田は東大法学部で私の1年上である。のちに親しくなって聞いたところでは、彼はこのカッターを帆走用具一式とともに弓削商船学校に寄贈して校長から大いに感謝されたという。

煉瓦工場現場監督

父の就職

 新聞販売店は3年ほども続いたであろうか。昭和14年(1939)4月から私は中学校に進学することになった。父は新聞販売業を手放すことを決意する。中学に汽車通学をするために私が新聞配達を手伝えなくなるからであった。そのときにはすでに私は新聞配達については父の片腕になっていた。支那事変の拡大とともに配達部数は次第に増えつつあった。片腕を失ったらこの仕事の継続は無理と判断したのだろう。当時わが吉名村の煉瓦製造業は、軍需産業の活況とともに煉瓦の需要が増えて好況を呈していた。父は母のつてでこの煉瓦工場に現場監督として就職した。母は助産婦という商売柄、顔が広かった。たまたま煉瓦工場の社長夫人と親しかったので、彼女の口利きでこの就職が出来た。父が就職した煉瓦製造会社はわが村の海辺に工場を三つ持っており、父はそのうちの一番新しい第三号工場に勤務した。 煉瓦工場で働くのは朝鮮人が過半であった。これらの朝鮮人は家族とともに会社が用意した粗末な長屋に住んだ。父はこの朝鮮人工員を督励して、白地の状態の土から煉瓦を焼き上げ、船積みするまでの責任者であった。几帳面で融通の利かない父は、その下で働く労働者にとって疎ましい存在であったに違いない。あるときは税務報告の件で社長と争い、あくまでも自説を曲げなかったという。下に厳しかっただけでなく上にも楯突いたのだ。そんな父が約20年間もこの工場で勤められたのはひとえに母の力ではなかったかと思う。

琴平神社にて、昭和17年11月中旬
カイヘイゴウカク

  平成17年(2005)4月、所用で帰郷した私は昔、煉瓦工場で父の同僚であった脇森清登氏に案内してもらって工場の跡地を見て回った。煉瓦を焼く大きな工場は跡形なく、その傍らにあった事務所もなく、ただ茫々とした畑に馬鈴薯が緑の若葉をのぞかせているだけであった。私は昭和17年(1942)11月1日、日曜日の午前中、「カイヘイゴウカク」 の電報を受け取り、それを持って自転車でこの事務所にいる父に報告に行った。父は 「それで何時行くんか」 と言ったばかりであった。入校式は12月1日だが1週間ぐらい前には行くことになるとでも答えたのだろう。 もともと口数の少ない父はこう言った後、事務所を出て行った。私は所在無さに新聞を眺めたり、事務所の周りをうろついたりした。合格電報の1週間後、「海軍兵学校採用予定者心得」 が郵送されてきた。それによれば11月22日午後2時までに校門受付に出頭するよう指示されていた。

 数日後、父と私は海と船の神様、金毘羅(コンピラ)さんにお参りして武運長久を祈った。その後、高松で栗林公園を見、岡山で後楽園を見物した。2泊3日位の小旅行であった。父との旅行はこれが最初にして最後であった。左の写真は琴平神宮社殿の前で観光写真屋に撮ってもらったものである。私が着ている中学の制服の素材はスフ (staple fiber,ステープル ファイバーの略) と称する人造繊維である。戦争の進展とともに毛織物、木綿は極端に不足した。父は洋服の仕立屋であったので、つてを頼って木綿の生地を手に入れて自家製の服を子供に着せることは出来たであろうが如何せん中学指定の制服を指定の店で買うことに決まっていたのである。

露営の歌

 11月22日、兵学校に向けて出発の日も父は午前7時には工場に出かけた。私は母の言いつけで向こう三軒両隣に、「私はただ今から海軍兵学校に出発します。私の留守中は家族のことをく れぐれもよろしく 頼みます」 と挨拶して回った。母の考えでは長男たるものは家族の安危に特別の責任があるということのようであった。とにかく 私は母の言うことをそのまましゃべって挨拶とした。私は当座の着替え、辞書、母の手作りの握り飯弁当などを入れたボストンバッグ一つをもって、10時過ぎに吉名駅を発車する呉線の下り列車で呉に向かった。呉駅下車後は川原石桟橋まで歩き,私営の連絡船で江田島の小用(コヨウ)港に上陸、後は兵学校の裏門まで小用峠を越えて歩くのであった。誰も見送るものはいない。私はただ一人汽車に乗った。

 支那事変の始まった頃には出征兵士は家族、親戚、友人知己など大勢の人々に見送られてわが村を発っていった。出征兵士は先ず村の鎮守の森の氏神様に武運長久を祈った後、鳥居脇の広場で村の長老の激励演説を受けた。これに、立派に戦って村の名誉を挙げますなど勇ましい答辞をした。それが終わると日の丸の小旗を手にした見送り人は軍歌「露営の歌」を歌いながら、出征兵士を先頭に駅まで行進した。しかしそれも暫くの間で、戦争の拡大とともに出征兵士が大量に出るようになるとこのような儀式は沙汰やみになってしまった。彼らは数人の家族に付き添われただけでわが村の小駅から静かに発って行った。

 私の場合は見送り人なく、全く一人でわが家を後にし、わが村を後にした。私の両親はこれから世間に出て行く息子にいつまでも家族が付きまとうのは、息子に後ろ髪を惹かれる思いをさせるだけだという美学を持っていたに違いない。兵学校に着いて同期入校者の話を聞く とほとんど例外なく、駅頭歓呼の声と日の丸の小旗の波に送られて出てきている。私は出征兵士を笛や太鼓で見送らないわが村の習慣と、息子の船出を見送らない我が家のやり方を心中誇らしく 思った。それが世の流行におもねらない、潔くて男らしい合理精神の発露と思われたからである。

兵学校入校直後西生徒館中庭にて写す
昭和17年12月中旬
はがき

 兵学校に入ってから2、3ヶ月に1度ぐらい家に宛てはがきを書いた。分隊監事の検閲があり、その上一号生徒から、候文で書けと指導されていたので内容は形式的になりがちであった。拝啓 寒気厳しき折から皆様にはお変わりなくお暮らしのことと賀し奉り候。下って私儀、相変わらず元気に学業訓練に励みおります故,他事ながらご放念下され度く候。これだけ書く ともう何も付け加えることを思いつかず、はがき1枚のスペースをもてあました。はがきの宛名は何時も母の名前であった。入校後半年位たっていたであろうか、母から、時々は父宛にも便りをするようにと言ってきた。私は無意識のうちに宛名を母にして少しの疑問も持っていなかったが、考えてみれば家の代表者は父である。時候の挨拶とか家族のご機嫌伺いなど代表者に宛てるのが当然なのだ。その直後の数通は父宛に書いた。しかしやがて又便りの宛名は母ばかりになった。

 およそ手書きの便りというものは受け取る相手をイメージしつつ書く ものだ。幾ら形式的な内容といっても、父をイメージしてはどうにも書きにく かった。昨年(平成16年)秋、故郷の家を解体した際、母が保存していた膨大な手紙類を整理した。大学時代、会社勤め時代、海外駐在員時代などの私の手紙が続々出てきた。しかし兵学校から出した何十枚というはがきは1枚も出てこなかった。夫の感化で合理主義者になっていた母は、内容の乏しい私のはがきを保存に値しないものとして処分したに違いない。

 右の写真は写真屋が校内に出張して来て写した。入校後の一ヶ月間はオリエンテーリングというか入校教育期間であって、日曜日も外出はできないのであった。まだ入校して2週間位しかたっていないので第一種軍装も身体によく馴染んでいないのがわかる。左半身に構えて腰の短剣を誇示しているポーズは写真屋の指示による。入校後最初の写真は両親や友人に送られる。写真屋が気を利かせて生徒の服装のセールスポイントを強調したのだろう。


江田島の写真館にて 昭和18年6月
国民服

 昭和18年(1943)5月、姉は呉市の小学校教員、戸田能業と結婚した。夫婦は別府への新婚旅行の直後の日曜日、父と一緒に私に面会に来た。左の写真はそのときに兵学校の裏門前の写真屋で写したものである。父45歳、義兄29歳、姉21歳、私18歳。私は上着が白の夏服、ズボンが紺の冬服という特異な服装をしている。これは梅雨期に特有の兵学校の制服である。

 父が着ているのは自作の国民服である。国民服というのは戦意高揚のために背広に替えて着用が奨励された紳士服である。昭和15年(1940)11月、勅令の 「国民服令」 が公布された。これによって国民服の着用が義務ずけられたわけではないが背広の需要は急減した。国民服の評判は悪く、注文ははかばかしくない。全国の洋服仕立業者は大打撃を受けて、廃業、転職が相次いだ。国民服には甲号と乙号の2種類があった。甲号はカーキ色、折り襟、四つボタン、蓋付きの二つの胸ポケットなどと背広との違いが強調されている。しかし折り襟や胸ポケットなどでコスト高となるので詰襟で胸ポケットがなく、より陸軍の軍服に似た乙号が制定された。父は姉の結婚式出席用に、忙しい煉瓦工場勤務の傍ら夜なべして国民服甲号を作り上げたのだ。セピア色に変色したこの古い写真からも、仕立て下ろしに姉の婚礼に着ただけの新品であることがわかる。

 このときに私は姉が持参した牡丹餅を食べすぎて、帰校後の軍歌演習で腹が張って苦しかった記憶がある。兵学校ではウイークデイには外出は許されず、食事は構内の大食堂で、盛りきりの一膳飯であった。休日には倶楽部で羽根を伸ばして食べ過ぎ、腹痛や下痢に見舞われるものが少なくなかった。これを月曜カタルと称した。

 次に煉瓦工場の父の事務所を訪れたのはその年8月、夏期休暇で帰郷したときであった。白い麻の第二種軍装に短剣を吊った姿は、工員たちの目には珍しく見えたに違いない。みな仕事の手を休めて私の一挙手一投足を眺めた。父の言いつけで第一号工場の隣の社長の自宅に挨拶に行った。父と違って如才ない商売人の社長は、夫人とともに私の姿を左見右見(トミコウミ)しながら誉めそやした。

晩年

田園生活

  父は戦後もこの煉瓦工場で働き続けた。結局、昭和30年代の初めに辞めるのであるが、60歳定年ということで辞めたのか、あるいは会社の業績不振で辞めさせられたのか今となってはわからない。サラリーマンをやめてもこまめな父は畳の上で新聞や雑誌を見ながら煙草を吸って時間をつぶすというようなことはなかった。庭木や果樹の剪定、たまにある注文洋服の仕立て、家の小修理、野菜畑の管理、鶏の世話など田舎に一家を構えていると家長のやることは幾らでもあった。野菜畑は60坪(198㎡)もあり野菜はすべて自給自足であった。鶏は7、8羽の雌鳥と1羽の雄鶏を飼っていた。すべてわが家で生まれた卵をわが家の雌鳥に抱かせて孵化させたものである。わが部落では農家と商家を問わず皆鶏を飼っていた。鶏卵は小魚と並んでわが村の庶民の主要な蛋白源であった。しかし雄鶏を飼うのは珍しかった。わが家では父の方針で7、8羽で一群をなす雌鳥の中に必ず1羽の雄鶏を入れた。

 小学校高学年になるとこの鶏の世話は私の担当であった。朝登校前と放課後帰宅してからの1日2回、給餌した。米ぬかにチシャ (東京ではレタスという) の葉をきざんで入れ、それに前夜の味噌汁のだしガラのイリコ (東京では煮干という) を入れて水で練ったものが鶏の餌であった。たまに浅蜊など貝の殻を金槌で砕いて入れてやると鶏どもは餌箱の前に重なり合い、喧嘩しながら食べた。夕方になると鶏の寝所となる納屋に入れるのであるが、納屋に入れる前に時々庭に放した。鶏どもは歓声を上げて走り回り、畑に侵入して野菜をついばんだ。祖母は怒って棒を手にして鶏を追っかけた。私も祖母に怒られたが鶏が庭一杯走り回る様が面白くて何時まで見ていても飽きなかった。雄鶏はミミズを発見するとココココと鳴いてめん鳥を呼んで食べさした。鶏どもは祖母が大嫌いで、雄鶏などは羽根を膨らませ、頭を低く し、クークーと奇妙な鳴声をあげながら祖母に向かっていった。時には2グループの鶏を飼った。あるとき1グループが夜の間にいたちに襲われた。いたちは鶏ののどに噛み付いて血を吸うのである。生き残った2羽をもう一つのグループに入れたところよってたかって嘴でつつかれて殺されそうになった。2羽は鶏を解体して食べる習慣のある家にもらわれていった。

父と孫 田舎の家の縁側で 昭和36年2月28日
自叙伝

  煉瓦工場をやめて2、3年後の昭和36年(1961)1月、父は胃癌の手術をした。手遅れであったが開腹手術で患部が空気にさらされたためか退院後暫くは快調が続いた。そのような或る日、父は自叙伝を書いてみたいと母に言ったという。当時はまだ自分史という言葉はなく、庶民の個人的な歴史も有名人の歴史と同じように自叙伝または自伝といった。私たち家族は2月下旬、帰郷して父を見舞った。もうこれが最後の機会なので、健康に育っている孫を一目父に見せておきたかった。このとき長男5歳、長女3歳であった。

 父は奥の8畳間で寝ていた。天気の良い時には庭に面した縁側に出て孫と遊んだ。しかし孫がひざや肩にまとわり付くのをうるさがった。寿命が長くないことを知っていた父は体力とともに気力も衰えているようであった。私は自叙伝のことを父には聞かなかった。いまさら父の若い日の事を知って何になるかという気持ちであった。この自分史を書くにあたって私はあまりに父のことを知らないのに驚いた。この項に書いたことが父に関する私の知識の大半である。私には知らなければならないことがまだまだたく さんあったのだ。父母の結婚の経緯は?、結婚式の仲人は誰か?、その前に、果たして結婚式をやったのか?、父母の結婚式の写真は1枚もないのである。大都市で修行して最新の知識を身につけた合理主義者の父は、結婚式ごときに大金を投ずるよりは、これを新居の建設や仕立屋の開業資金に投入したほうが良いと考えたかもしれない。父をおだてて自叙伝を書かせておけばこれらの疑問は氷解していたはずだ。

葬式

 父の葬式は亡くなった翌々日の昭和36年7月21日に自宅で行われた。私は訃報を聞いて直ぐに東海道線の急行に乗った。家に帰りついたのは翌日の正午頃であった。姉は呉から直ぐに駆けつけたが臨終には間に合わなかった。父は母と講中の人の見守る中、最期を遂げたのであった。母の話では死の直前、無意識の中で 「民子!民子!」 と姉の名を呼んだという。私は家に帰りつくと直ぐ棺の蓋を開けて父と対面した。氷が一杯入れてあったが蓋を開けたとたん腐敗臭が鼻を付いた。死後の死体処理は一応、講中の人の手でなされたようであるが素人のこととて十分ではなかったのだろう。私は思わず吐きそうになって棺の蓋を閉めた。

 葬式は田舎の例にならい、自宅のふすまや仕切りを取り払って行われた。参会者は家の中に入りきれず、表の国道にまではみ出した。式後、喪主の私が参会者に挨拶した。挨拶の途中で嗚咽して暫く言葉に詰まった。挨拶のストーリーは事前に頭の中で組み立ててあったが、嗚咽することまでは予定の中に入っていなかった。私はわれとわが嗚咽に狼狽してあらかじめ組み立ててあった話の筋を忘れてしまい、暑いところ有難うございましたと何度も繰り返して、竜頭蛇尾の喪主挨拶を終えた。このことはその後長い間私の心の傷として残った。誰かの葬式に参列して喪主挨拶を聞くたびに、このときの失態が思い出されて身の置き所に苦しむような恥ずかしさを覚えた。

ボムベイの日々

パーシー一家

  昭和43年(1968)5月、私は川崎汽船の駐在員としてインド西海岸の港町、ボムベイに赴任した。日本/インド・パキスタン・ペルシャ湾航路の維持とペルシャ湾岸産油国への目配りが主な任務であった。ボムベイは現在では英人のつけた名前を廃してムンバイと称している。ムンバイとは数百年前、まだボムベイが漁村であった当時の地名という。ボムベイのみならずベンガル湾の最奥部に位置するカルカッタはコルカタに、南部のマドラスはチェンナイに改名された。インド人として自分の祖国の主要都市の名前がかつての征服者による命名のままでは面白くないのであろう。しかしわれわれ一時滞在者であった者としては、新しい名前は耳に馴染まず、懐かしさも半減する思いである。 右の地図は George Philip の Modern Home Atlas から借用した。

 私は家族を呼び寄せるまでの数ヶ月をインド人の家庭に下宿した。この家族はパーシーといって、その呼び方からもわかるように数百年前にペルシャから亡命してきた民族であった。一神教であるゾロアスター教を信じ、今なお鳥葬をしているという特殊な民族である。鳥葬というのは死体を葬儀場に運んで、風きり羽根を切って飛べなく した鷲や鳶などに死体を啄(ツイ)ばませるのである。パーシーは民族としての一体化が強固で、全世界に25万人ほどしかいないといわれる。そのうちの17、18万人がボムベイに住んでいる。戦前、宗主国のイギリスはこの民族の優秀性に着目、インド統治の手先として重用してきた。教育程度も高く、富裕な家庭が多く、インド社会の中で独自の高い文化を誇ってきた。インドは階級制度の国であったがパーシーは最高階級のクシャトリア(武士)と同列に扱われてきた。インドのタタ財閥はパーシーの出である。

So so (ソウソウ)

 私の下宿先は繁華街の直ぐ近くの便利な場所にあった。2階建ての小さな建物でその2階全部がパーシー一家の居住スペースであった。 広さにして120㎡から130㎡もあったであろうか。富裕階級というには程遠かったが知識階級ではあった。家具調度の趣味もまあまあ日本人の私が納得できるものであった。広い居間に隣接する客間が私の部屋とされた。食事は居間の端、キッチンに近い場所に7、8人は座れるほどの大きな円テーブルがありそこで家族と一緒にとった。家族といっても夫妻には子供はなく、50歳ぐらいのレントゲン技師の亭主と40歳代と思われる背の低い肥満した奥さんの2人であった。

 私と家族との最初の夕食のときに、奥さんからこの家で生活するに付いてのいろいろな注意事項を聞かされた。家族がお客を呼んで夕食をするときにはあなたはあなた自身の食事が終われば何時でも退席してよいとか、犬には絶対に触らないこと、触らない限り害をすることはないとかいうものであった。犬は何時も階段の上がり口に腹這いになって階段を上がってくる人を睨んでいた。この犬は15、6歳の子供ぐらいの大きさがあった。老齢でしかも関節炎をわずらっていた。午前午後ボーイが散歩させるのであるが階段の上がり降りが出来ず、ボーイが抱いて上下した。家には親子のボーイがいて父親がコックを兼ねていた。

 最初の夕食が終わって コーヒーになったときに奥さんが Do you like Indian foods?とか何とかいった。 「インド料理はどうですか?」 と聞いているのだ。私は、本当は It’s not my taste.(私の好みには合いません) と言いたかったのだが最初のことではあり多少のお世辞をこめて Not so bad,not so good.と答えた。「まあ良くも悪くもないですな」 というぐらいのつもりであった。奥さんは大きな目をいっそう大きく して私を見つめながら、そういう時には So so..というものであると教えてくれた。「まあまあです」 というぐらいの感じであろうか。奥さんとしては初めて食べる他家の料理を Not so bad,not so good.とは何たる失礼な奴かということであったのだろう。私としてはしかし、日本であれ外国であれ、美味い料理を不味いと言えないと同様、不味い料理を美味いとほめることは出来ない。その後インド人の家庭に招かれたり、ホテルのレストランでインド料理をご馳走になったときにこの言葉を何時も使った。So so.は私が外国で身につけた最初の実戦英語であった。

ランドレディー

 イギリスには昔から ランドレディ landlady という言葉がある。女地主とでも訳すのであろうか。 ランドロード landlord に対する言葉である。これが下宿屋の女主人にも使われるようになった。下宿屋を取り仕切る女将さんといったら一番ぴったりくる。わが下宿は私一人が下宿人なので東京あたりの下宿屋のイメージとは程遠い。この家の奥さんは時々鍵束を腰につけていることがあった。この小さな住居の何処にそんなに鍵のかかる場所があるかと思うほどの鍵の数であった。それに一つ一つの鍵が大きいのである。彼女が歩くたびにジャラジャラと喧しい音を立てた。その後イギリスの小説など読んでわかったのだが、この腰につけた鍵束こそは ランドレディの権威の象徴なのであった。最初の夕食のときに、お客がある場合には適当に夕食を切り上げてもよい、というコメントがあったがとにかくお客の多い家であった。大体1週間に2回はお客があった。人数は2、3人のことが多く、皆パーシー族の仲間であった。顔ぶれも大体決まっていた。お客は午後7時か7時半ごろ現れて、居間で食前酒を飲みながらわが家の夫妻と歓談する。8時半ごろ食卓にお皿が並ぶと夕食が始まる。夕食が終わるのは10時か10時半である。夕食後はブランデーか何か飲みながら居間でくつろぐ。お客が帰るのは大抵11時過ぎであった。最初の2回ぐらいこの小パーティーに出たがとても付き合いきれない。直ぐに夕食は自分の部屋に運ばせるようになった。

 夫妻と夕食をともにしていたある晩、奥さんが、日本の女性は皆細身でスマートであるが何かダイエットの秘訣でもあるのかと聞く。この家は日本人の独り者を下宿させようというほどだから日本人の知り合いがあるのであった。奥さんは1階から2階のわが家への階段を上がるのも苦しそうなほど太っていた。彼女も自分が肥満体であることを自覚しており、何時もダイエットを口にしていた。しかし彼女が実行しているダイエットはただスープを飲まないというだけであった。スープを飲まないぐらいのことは彼女の肥満体にとって焼け石に水で、ダイエットには何の効果もないと思っていたがもちろんそんなことは言わない。日本食は脂肪が少ないので肥満防止には効果があるだろうなど当たり障りのないことを言っておいた。ところが相手は具体的なダイエットの方法についてなお突っ込んでくる。奥さん「私はスープを口にしないダイエットを実行しているが何かほかに有効な肥満解消の方法はあるだろうか」。私「食前酒、食後酒を含めた食事時間を今の半分にしたら2、3ヶ月で効果が現れるだろう」。

 私がこういうと奥さんのみならず亭主のほうも異常な反応を示した。夫婦はこもごも私を睨みつけながら、食事というのは人生最大の楽しみである。友人との食事時間を削ってまで痩せようとは思はないし、長生きをしようとも思はないなど長広舌(チョウコウゼツ)を振るった。どうも私の英語が余りにぶっきら棒でそれが彼らの心にグサット突き刺さったらしい。私が言わんとしたところは食事時間が長くなれば摂取する飲食物の量が増える。それが肥満を促進するというほどのことであった。夫婦は私が客の長居を嫌悪していると誤解したらしい。まあそれは事実であったが、この際の私の真意はあくまで飲食物の量であって、食事時間を短縮するのは食事量を減らす手段に過ぎなかった。私はといえばまだ外国生活1ヶ月になるやならずで、外人との英語の会話もろくに出来ない。It is a dog.(それは犬です) などのような初級英語の文章を、切れ切れにしゃべっているだけであった。言いにく いことを婉曲に表現するなどの高等技術のもち合わせはない。電話を掛けるといえばあらかじめこちらが言いたいことをメモに英作文して、それを見ながらしゃべるというような段階であった。夫婦の言っていることは大方わからなかったが、夫婦が怒っていることと彼らが友人との食事を如何に大事に思っているかは十分私に伝わった。元来私は、兵学校入校以来というもの食事は生きるための手段であるという思いから抜け出していなかった。ところが彼らは食事は生きる目的の一つと思っているようであった。とくに友人との食事をエンジョイすることは人生最大の目的というのであった。後に私は仕事上で欧米人と付き合ってきて、彼らが食事についてこのパーシー夫妻と似たような考えを持っていることを知った。

映画

ドレス・サークル(Dress Circle)

 家族が来るまでの独身生活では夕方6時以後暇をもてあました。私と同じような 単身赴任の駐在員が集まってマージャンをやることが多かった。しかし毎晩マージャンというわけにもいかない。よく 映画を見た。テレビのなかった時代の映画はインドの庶民の最大の娯楽であった。政府も映画産業を後押ししているふうであった。映画館はいたるところにあり、入場料も安かった。当時インドは映画生産量において世界一といわれていた。インドの映画館のいいところはすべてが指定席だということであった。座席の数以上の入場券は売らないのだ。私は何時も2階正面の特等席で見た。たしかドレス・サークルといったと思う。昔はイブニング・ドレスを着て来る座席だったという。切符の売り方といい、座席の格付けといいすべてイギリス統治時代のやり方の踏襲である。私はもちろんキャジュアルな格好で見た。入場料が幾らであったか忘れてしまったがとにかく安いのである。時には2階のお客は私一人ということもあった。見るのは何時もアメリカ映画であった。インド映画は、映画館の表(オモテ)に掲げられた大きな毒々しい絵看板を見ただけで、もう見る意欲をなくした。

インド国旗
中印紛争

 インドは1947年に独立した。独立以来、ヒマラヤの国境線をめぐって中国との争いが絶えなかった。1953年(昭和28年)、中国はチベット動乱に介入して、チベットのダライ・ラマはインドに亡命する。以来、中印関係は決定的に悪化する。1950年代の末から60年代の初めにかけて武力衝突が繰り返された。中国はこれに圧勝して、一時はカルカッタの郊外をうかがう勢いを見せた。しかし何を思ったか一方的に停戦して中国軍は国境線の向こうに引き返してしまった。その後は小康状態のまま推移したが、依然として両国の険悪な関係は続く。

 話は変わって映画館である。インドの映画館では映画終了後、スクリーン一杯に、中空に翩翻(ヘンポン)と翻る国旗が映し出される。それとともに国歌が演奏される。 国歌の第一章が終わるまで観客は直立して国歌と国旗に敬意を表する。世界中何処でも発展途上国では普通に見られる光景である。私はインド国民ではないが、インドに駐在して安居楽住をさせてもらっているのだから、その国の国旗と国歌に敬意を表するにやぶさかではない。観客のインド人と一緒に直立する。事実、スクリーン一杯に翻る国旗は荘厳というか雄大というか、決して嫌悪を感ずるというものではない。しかしこれを嫌悪して退場するものがいるのだ。映画が終わって画面に配役のリストが流れる頃になると,がたがたと無遠慮に椅子を鳴らしながら、10数名、時には20名を超えるような観客がそそく さと退場していく。これは中国人なのである。右の国旗の中央の紋章は古代インドのアショカ王の法輪である。

フラット (Flat) 探し

住宅探しの苦労

   初めて外国に住む場合、現地の人の家に下宿するのはその国に慣れる捷径と思ったのは早計であった。今では外国で下宿することをホームステイといってこの言葉はほとんど日本語化している。しかしあくまで若い学生のものであろう。40歳を過ぎた家族持ちが単身で他人の家に下宿するのは難しい。まして相手は意思疎通に問題の生じやすい外国人である。私は早々に旗を捲いてホテル住まいに移った。パーシー一家に下宿した期間は2ヶ月たらずであったろうか。

 ホテルと、代理店の中に設置した駐在員事務所を基地にして私は家族と住むためのフラット探しを始めた。ボムベイでは住居とするアパートの部屋をフラットと称した。不動産屋に案内させて40数件見て回ったが帯に短したすきに長しでなかなかこれはというのがない。私は社宅として買うのだから居間が広く 、10人程度の小パーティーが催せるものを探した。又居間からアラビア海が見渡せる景色のいいものを希望した。インドでは、高級なアパートでも150㎡ぐらいの広さのフラットに兄弟姉妹4家族30数名が入居しているなどというのも珍しくない。 こういうアパートでは午前7時から9時ごろまで下水が逆流してくることもある。又高地にあるアパートや高層アパートの上層階では乾季に渇水の恐れもある。不動産屋は私が何時までも決めないのに業を煮やして、このビジネスが実現しなかったら案内料を請求すると言い出した。事実私は他の業者に乗り換えようかと考え始めていた。

 そんな折、漸く理想のフラットを見つけた。アラビア海に突出した半島の10mぐらいの高さの岩盤の上に建つ10数階建てのアパートの一室である。各階が2フラットになっていて私が買ったのは4階の1フラットで約170㎡、居間の広さは45㎡あり希望通りの部屋であった。私は2年後に人事異動で東京に呼び戻されたが、東京で私たち家族に割り当てられた代官山の社宅の3DKの部屋が丁度45㎡であった。
購入したフラットの間取図

 上図はわがフラットの間取図である。アパートの敷地がアラビア海に突き出た半島の上に位置したので、南北と西の3方向がアラビア海に面していた。とくに一番奥のメイン・ベッド・ルームから見るアラビア海の夕景は素晴らしかった。日本からのお客さんには夕食前の前菜代わりに、この部屋からアラビア海に沈む夕日を見てもらった。2年後、事務所を閉鎖し、社宅を売却して帰国することになったときに買値で代理店の社長に譲った。社長としては顧客の川崎汽船に対するサービスの意味もあったろうが、彼自身、ここで催したパーティーに何度も出席して、このフラットを気に入っていたのである。迎賓館として使うということであった。

 内装のリニューアルも済み、後は家族を呼ぶだけというときになって問題が発生した。電力会社から過去3年間電気代を滞納している。1週間以内に払わなければ電気を止めるというのである。私企業ではなく電力庁などという国営であったかもしれない。このフラットの元の所有者はゴアに住んでいる。電気を止められてはかなはないので一応支払っておいてゴアの元所有者に手紙を書いて未払い電気料を請求した。折り返しきた元所有者の手紙によれば、驚いたことに電気代は支払われていたのだ。電気会社が未払いだという3年間の電気料領収書数十枚に添えられた手紙には、あなたが電気会社の言いなりに電気料を支払ったのは間違いだ。この領収書を電気会社に提出して二重払いした電気料を返してもらえというのであった。

 インドに長く駐在している商社の支店長に相談すると、彼いわく、こういうことはインドでは日常茶飯事だ。ちょっとした買物や公租公課の領収書は永久保存の必要がある。一旦二重払いした金は二度と返っては来ない。インドから帰国して2、3年たったときにインド中央銀行から私宛に、インド駐在中の所得税を払えという請求書が到来した。私はもちろん所得税を始め公租公課類は完済して帰国したのである。中央銀行の発行する所得税完納証明書がなければ外国人はそもそもインドから出国できないのだ。現在日本にいるということ、そのことがすなはち所得税を完済した証拠なのだ。私はこういうことを担当の業務課に説明して二重払いを拒否してもらった。日本に帰国後しばしばペルシャ湾沿岸諸国に出張した。帰国の途中インドに立ち寄って旧友と久闊を述べる機会は何度もあった。しかし私はあえてインドには寄らなかった。もし私の名前が空港のイミグレーションのブラックリストに載っていたらひどい目に会うからであった。彼らが未払いと称する所得税の金額に複利計算で、懲罰的な利率の金利を加算したものを払わされる。払うまで出国は出来ないのである。

昭和45年(1970)新年会 於ボムベイ日本総領事館
ボムベイ・インターナショナル・スクール

  家族がやって来ると子供の学校の問題が発生する。長女は小学校なのでボムベイ日本人小学校に入れる。翌年、小学校を卒業して女子だけのミッション・スクールに入れた。長男は中学生なのでボムベイ・インターナショナル・スクールへ入れた。この学校は米系で外国人子弟のために設立されている。しかし狭き門なのだ。私はあらかじめ代理店の社長に頼んで入学工作を進めてもらった。入学工作はいいところまで漕ぎつけていた。しかし最終決定はあくまで校長が子供に面接してからということであった。子供は中学生だが英語は話せない。面接といっても結局は親の面接だ。

 校長は40、50歳代に見える中肉中背、洋装のインド人女性であった。初対面の挨拶から穏やかで丁寧で少しも威圧的なところがない。直ぐに入学手続きを話し始める。教科書、制服や靴を買う店などを教えてくれる。タダシ (長男の名前)は英語が出来ないようだから、学校としても特別な配慮が必要と思っている、などという。すでに入学は決まっているようで私は大いに安堵した。この面接で不合格になったら、中に立って奔走してくれた代理店の社長に合わす顔がないななどと心配していたのは杞憂であった。

 学校案内のパンフレットをもらってお礼を言って帰りかけたところ、校長は改まった声で 「ミスター・オカノ!」 と呼びかける。今まで微笑を絶やさない穏やかな顔つきが急に厳しくなっている。「タダシ は靴が出来るまでは学校に来てはいけない。制服は間に合わなければ今着ている開襟シャツでよい」。要するに今履いている白い運動靴で学校に来てはいけないと言っているのだ。黒皮製の短靴の、紐で結ぶ靴でなければ学校に来るなということなのだ。忠司が履いているのは日本では中学生や高校生なら誰でも履いている白い運動靴である。それも新品であった。それをこの学校では靴として認めないのだ。草履とかサンダルなどと同じ範疇に入る履物のようであった。

 私はあらためてイギリス人の服装に対するこだわりを見た思いであった。校長はインド人であるがここは英国文化圏なのだ。右の写真で長男の着ているのがこの学校の制服である。 10数年後、作家の曾野綾子が週刊誌に書いている随筆を読んだ。彼女は外国の空港で日本に帰国しようとしている女子高校生の一群に出会う。彼女らは皆トレーナーを着て白い運動靴を履いている。こんな格好は外国人から見れば寝間着を着て戸外を歩いているのと一緒だというのである。ちなみにボムベイ・インターナショナル・スクールはインド人にも門戸を開いていた。しかし外国人に対するよりも一層狭き門であった。子供をこの学校に入れようとする男女は、婚約のときに生まれてくるであろう子供のために、入学願書を提出するということであった。

旅行

インド北部旅行

  昭和43年(1968)年末から翌昭和44年(1969)年始にかけてインドの首都デリーを中心に北部インドを回る家族旅行をした。この時期は12月28日から1月4日までの丁度1週間で、本社が休みの期間になりテレックスによる指示が来ない。海外に単独で駐在している者にとっては、1年中でまとまった休暇のとれるただ1回のチャンスなのであった。何時帰国命令がくるかわからないので何はともあれ首都のデリーは見ておかねばならない。その南200キロのアグラもインド最大の観光スポット、タジ・マハールがあるのでこれも欠かせない。後は赤砂岩のビルが林立してピンク・シティの名のあるジャイプール、湖の真ん中に高級ホテルのあるウダイプール、最後にアーメダバードから国内航空でボムベイに帰る。これが家族旅行の順路であった。首都のデリーでは旧市街であるオールド・デリーの雑踏と第一次大戦後イギリスが建設したニュー・デリーの壮大な都市計画の対照が妙であった。なんといってもこの旅行の最大の見ものはタジ・マハールであった。これは今から約350年前のムガール帝国の王妃の墓所である。中央のドームの高さは67m、四隅のミナレット(塔)の高さは43m、ヤムナ河畔に聳える白大理石の優美な姿は一見して忘れがたい。
タジ・マハール

 7泊8日のこの旅行で私は飛行機などの乗り物とホテルをあらかじめ予約して行った。予約の数にして10数件あったであろうか。そのうち飛行機で1回、ホテルで2回トラブルに巻き込まれた。旅行会社の発行した予約券を提示しても予約を受け付けていないというのである。最初のデリーのホテルには午後10時ごろ着いた。フロントですったもんだの論争をしてもどうしてもないものはないといって譲らない。女子供をつれて野宿も出来ないので警察に行って泊めてもらうといって、荷物をまとめて入口を出かかったら後からホテルのスタッフが追っかけてきて、部屋をやりくりするから暫く待てという。結局その晩はスイートに泊まった。予約者がいるにもかかわらず一見の客をとるからこういうことになるのである。ボムベイに帰って日本人会の新年会でこの話をしたら、1週間も旅行してトラブル3回は少ないほうだといわれた。後に私はペルシャ湾岸諸国に何度も出張旅行したが、トラブルについてはインドと大同小異であった。

ゴア

  ボムベイの南に位置するゴアからは鉄鉱石が日本向けに輸出される。わが社の運航する貨物船が日本向けの鉄鉱石を積むときにはボムベイからここに出張した。ゴアは今から約500年前にポルトガルの植民地になったのであるが私がインドに赴任する2、3年前にインド軍が進駐して無血占領して、領土回復を果たした。しかし過去数百年のポルトガル支配の面影は濃厚に残っていた。イエズス会の宣教師、フランシコ・ザビエルの遺体が安置されている大きな教会がある。戦国時代、九州のキリシタン大名が派遣した天正少年使節もローマ教皇に謁見の往復にここに立ち寄っている。

 私は旅行案内に一流の印のある マンドヴィ・ホテルに泊まった。夕食のため食堂に行って仰天した。パジャマを着てサンダル履きの40歳ぐらいの日本人が、片手に本を持って読みながら飯を食っている。このホテルはゴアでは一流であるがボムベイあたりに比べれば二流三流である。背広にネクタイというお客は一人もなく、胸や腕の刺青むき出しの外国船員が横行しているのである。かく いう私も半袖の開襟シャツである。それにしてもいやしくも外国のホテルのレストランで、寝間着で夕食はないだろう。日本の温泉地の旅館と同じように思っているのだ。リラックスして食べたいのであれば部屋でルーム・サービスを取ればよい。ウエイターも露骨に嫌な顔をしているが、ご本人は読書に熱中していてレストラン中の嫌悪の空気に気づいていない。私はマネジャーを呼んで、このホテルでは寝間着のまま部屋の外に出てはいけないとこの男に注意するように言った。私はそれ以後この日本人に会わなかった。後で聞いたら何処かの会社から派遣された技術屋とのことであった。私はその後、世界各地のホテルに泊まった。一流から三流までさまざまなホテルに泊まったが、食堂で寝間着のまま食事している人物を見たのは、日本人であれ外国人であれこれが最初にして最後であった。

 出張旅行としてはこのほかにペルシャ湾岸諸国にボムベイから2回出張した。私はボムベイを引き上げてからもしばしば外国出張した。これらの外国出張中のエピソードについては次の 「平和の時代 その三」 でまとめて取り上げたい。

練習艦隊

遠洋航海

  戦前、日本海軍では毎年、海軍3校を卒業した候補生を練習艦隊に乗せて諸外国を巡航する遠洋航海を実施した。海軍3校とは兵学校、機関学校、経理学校の3校のことである。この巡航の目的は候補生が学校で習った海軍士官としての知識、教養を実地に演練することにある。 候補生に外国をその目で見させることもまた重要な目的の一つである。そのほか諸外国海軍との交歓、外国に住む日本人の慰問、激励など目的は多岐にわたる。巡航コースはヨーロッパ・コース、アメリカ・コース、オーストラリア・コース、世界一周コースなどいろいろあって、年によってそのうちの一つが選ばれた。使用艦艇は日露戦争で活躍した重巡洋艦,磐手,八雲の2艦で排水量はそれぞれ約9000トンであった。昭和10年代になるとこの両艦ではあまりに旧式というので、専用の練習巡洋艦、香取、鹿島が造られた。排水量はそれぞれ約6000トン。しかしこれら2艦が就航した昭和15年(1940)には欧州に戦火が拡がっており、アジアもまた風雲急を告げて遠洋航海は取りやめになってしまった。新造の練習巡洋艦は一度も候補生を乗せて遠洋航海に出ることなく 実戦部隊に繰り込まれた。
練習艦隊司令官
海将補 本村哲郎


 戦後は昭和32年(1957)に再開された。昭和44年(1969)に実施された航海はその第13回目にあたる。この練習艦隊は「てるづき」ほか3隻の自衛艦から構成されており、江田島の幹部候補生学校卒業生158名と乗組員を合わせて1100名が参加している。この練習艦隊を率いる司令官には歴戦の本村哲郎海将補(海兵65期)があてられた。 昭和44年7月1日、東京港を出港、オセアニア諸国を経由、パキスタンのカラチで折り返した。ボムベイはこの航海の復路の最初の寄港地であった。ボムベイの後、練習艦隊は東南アジアの諸国に寄港し、横須賀に帰ったのは11月5日、丁度4ヶ月の航海であった。総航程は24000海里であった。往路オセアニア諸国に寄港する前、艦隊はソロモン諸島のガダルカナル島沖を通過した。米国はこの島とサボ島の間の狭い海峡を Iron Bottom Sound (鉄底海峡)と呼んでいた。先の大戦で日米両海軍が死闘を繰り返した場所であった。海底には両軍艦艇多数が沈没している。ここで練習艦隊は洋上献花して、戦死した将兵の霊を慰めた。

 練習艦隊がボムベイに寄港する数日前から、ときどきドロドロドロドロと艦砲射撃の砲声がボムベイ市内にも聞こえてきた。インド海軍はジャパニーズ・ネービーを迎えるにあたりアラビア海で示威的な演習をやっているようすであった。当時は冷戦の真っ最中で、ソ連をリーダーとする共産圏と米国を中心とする自由諸国がことごとにいがみあっていた。インドはそのどちらにも属さない非同盟政策をとって国際政治の上に微妙なバランスを保っていたが、その軸足はソ連圏のほうにかかっていた。インドは1947年(昭和22年)にイギリスの支配から独立した。彼らはそれによって、アラビア海、インド洋における覇権をイギリスから継承したと思っていた。自らの勢力圏の海に他国の武装した艦隊が侵入してく るについては、たとえ友好親善を旗印とするものであっても、大歓迎の裏側に多少の陰影があったのであろう。
練習艦隊旗艦 てるづき 2350トン

 昭和44年9月21日、日本練習艦隊の4隻の自衛艦は大使館・総領事館、ボムベイ日本人会、インド海軍など関係者の見守るなか、艦尾に旭日旗を翻しながらボムベイ港に入港して来た。練習艦隊はボムベイに9月25日まで滞在するのであるが、一夕、インド海軍の歓迎式典が航空母艦の飛行甲板で行われた。インド海軍が空母を持っていることを私はそのとき初めて知った。私は招待されてこの式に参列したが,会場となったこの空母が実際には現役の空母として使用されていないことは艦内を一瞥しただけで直ぐにわかった。中甲板から上甲板を経て飛行甲板に上がるラッタルの隅には黒っぽいほこりが積もっている。ホーサーやチェインブロックなど本艦が現役なら必ず備えていなければならない備品が見えない。現役空母としての生活臭がないのである。この空母はソ連から譲り受けたものであった。有償であったか無償であったかはわからない。とにかくソ連海軍が不要になって手放した老朽艦である。日本の海上自衛隊がもっていない空母の、しかも飛行甲板でレセプションをやろうというのである。虚勢というか示威というか、あまりに幼稚な発想にただただ驚くばかりであった。

 空母を含む一個戦隊を有効に動かすためには多大の費用と長くて絶え間のない訓練の期間が必要なのだ。当時のインドは費用の点ではもちろんのこと、空母に離着艦出来るパイロットを養成し維持する能力はない。かりにカシミールの領有権をめぐるパキスタンとの紛争が武力衝突になっても陸兵と陸上機をあてればことはすむ。中国との戦争を考えても空母の必要はない。国防の観点からは空母の必要はないのである。必要もないところに多額の予算を投入する余裕など当時のインドにはない。すなはちこの空母は飾り物なのだ。

クラス会

 練習艦隊がボムベイに停泊中の或る日の正午、練習艦隊を構成する4艦の艦長がわが社宅に勢ぞろいした。 「てるづき」艦長植田一雄2佐(74期)、「おおなみ」艦長高田忠2佐(74期)、「まきなみ」艦長小室祥悦2佐(74期)、「たかなみ」艦長中山献一2佐(75期)の4名である。4名のうち植田、高田、小室の3名は海軍兵学校で私の同期生である。ボムベイに4人のクラスメートが揃ったのでミニ・クラス会をやろうというわけである。中山艦長はわれわれの1期下であるがお相伴ということであった。

 このクラス会開催について,練習艦隊がボムベイに来る3ヶ月位も前に人見ボムベイ総領事との間でひと悶着があった。ボムベイに兵学校のクラスメート4人が揃うので、一夕、わがフラットでクラス会をやりたい。スケジュールを空けてほしいという私の申し入れに対する総領事の言い分は次のとおりであった。練習艦隊の寄港というのはわが国の重要な外交行事である。スケジュールが詰まっていてどれを削ろうかと頭を悩ましているときに、私的なクラス会などの割り込む余地はない。とくに司令官や艦長など幹部は分刻みの行事に参加してもらうことになる。クラス会などという非常識な話を持ち込んでもらっては困るというのであった。

 私は日本海軍が兵学校のクラス会をほとんど海軍の組織の一部として重視していた昔話をした。クラス会のときは当直将校や副直将校の当番を免除された。クラス会の打ち合わせは艦橋の発光信号や手旗信号を自由に使ってもよい公務とみなされていた。クラス会を除名になった者は海軍をやめるという不文律もあった。今の海上自衛隊は旧海軍ではないが、わがクラスの同期生が80数名も入っている。今や階級は2佐で現在の海上自衛隊を支えている中核幹部である。旧海軍の良き伝統を継承していきたいので、是非スケジュールをやりくりしてクラス会をやらせてくれと、言葉を尽くして頼んだが総領事は頑として聞かない。一部始終を東京の海上幕僚監部で遠洋航海を担当しているクラス・メートに知らせてやった。
わがフラットの入口にて
向かって左から中山、小室、私、植田、高田

 クラス会は出来なくても日本人会の歓迎会やその他の会合で艦長連と久闊を述べ合う機会はある。今回はそれで我慢しなければならないだろうとあきらめていた。1ヶ月もたったであろうか突然、総領事から呼び出しがあった。本省からの指示で艦長連のクラス会を公式日程に入れることになった。ついては日時の打ち合わせをしたいという。夕食は無理なので昼食にしてくれ、それも2時間が限度である。その後どこやらの官庁のティー・パーティー、その後は何々と続いているので昼食時間は厳守して欲しい、などということであった。海幕のクラスメートが何とか外務省を説得したらしい。人見総領事はあらためて海軍のクラス会の結束の強いのに驚いたふうであった。ともかくクラス会は開かれて、私の自慢のフラットのリビング・ルームで妻とコックが一生懸命作った日本料理を食べてもらうことが出来た。

 私は元海軍にいたことをボムベイでは誰にも話していなかった。それだけにこのときのわが家での艦長連のクラス会は日本人会のメムバーを驚かせた。又艦隊がボムベイに停泊中、私は何時でも勝手に旗艦の「てるづき」にいって艦長や士官たちと交歓した。日本人会はそれぞれ艦艇見学スケジュールが決まっていて、割り当ての時間が来るまで埠頭で順番を待っているのであるが、それを尻目に自分の乗艦のごとく気軽に出入りする私の姿は皆を驚かせた。ゴルフもマージャンも下手でさっぱり生彩のない私であったが、このとき以降日本人会で存在感を確立したという次第であった。

遠洋航海管見

 近代国家においては職業に貴賎はない。しかしその国民の多くが敬愛する職業というものは何処の国にもある。英国の作家、サマーセット・モームは彼の自伝的長編『人間の絆』において、英国で人々に尊敬を受ける職業として、ネービー(Navy、海軍)、ロイヤー(Lawyer、弁護士)、ドクター(Doctor、医者)の3業種をあげている。私は瀬戸内海沿岸の寒村に生まれ育ったが、私の村でもモームのいうこの3業種は村人が等しく仰ぎ見る存在であった。英国国民がネルソン提督以来のネービーに敬意を払うのは当然のことと思える。同様に日本人が東郷提督以来の海軍に敬愛の情を持つのも自然のことである。海軍の輝かしい戦歴を持たない小国においても、ネービーは尊敬に値する職業として国民の敬愛と羨望の眼差しを受けている。如何なる小国においても海を持っている限り海軍が存在する。海がないのに海軍を持つ国さえある。南米のボリビア共和国がこれである。この国は1879年(明治12年)から1884年(明治17年)の硝石資源をめぐるチリとの戦争に敗れて、海への出口を失った。しかし海への渇望と海軍への郷愁はやみがたく,海抜3800メートルの高地にあるティティカカ湖に小艇を浮かべて海軍と称している。

 南米が出たついでにもう一つ例を挙げるとエクアドルである。この国はダーウインが『種の起源』を書くきっかけとなったガラパゴス諸島を領有する。れっきとした海洋国である。戦後は領土の周辺200海里を自国領海として、12海里領海説の米国と争ってきた。後に1977年、米国はじめ世界の主要国は12海里領海を維持しつつも、領土の周辺200海里を自国の排他的経済水域とするにいたる。エクアドル、ペルー、チリ三国が主張する200海里領海が形を変えて世界中に公認されたといえよう。

 このエクアドルの海軍が、国内に原油の埋蔵が確認され、採油が開始されるに当たってタンカーを持ちたいと言い出した。エクアドルでは海上輸送は官民の別なくすべて海軍が管轄している。そこで タンカー保有・運航のノウハウをうるため合弁会社を設立する。1973年(昭和48年)、この合弁会社のパートナーを求める国際入札を行った。わが川崎汽船はこれに応募して落札、当時、油槽船部の課長であった私は合弁契約の交渉のためエクアドルに派遣された。首都キトーに到着すると先ず国防省に海軍長官を表敬訪問した。控の間で待つ間、何気なく机上のパンフレットを手に取った。何とそれは先の大戦の初期、ガダルカナル島沖で日米豪の重巡艦隊が戦った第一次ソロモン海戦を解説したものであった。

 昭和17年(1942)8月上旬、米軍はわが海軍が占領して飛行場を造成中のガダルカナル島に大挙上陸してきた。ニューブリテン島のラバウルに司令部を置いていた第八艦隊は直ちに出撃して、米豪の4隻の重巡を撃沈するという戦果を挙げた。米国はこの海戦をサボ島沖夜戦と称したのでパンフレットの表題はそれをスペイン語訳したものであった.パンフレットには数枚の両艦隊の態勢図が入っていた。私はこの戦いの経過を知っていたので、スペイン語は読めなかったが何が書いてあるかは直ぐにわかった。南米諸国の海軍軍人で日本海海戦を知らないものはいない。又先の大戦で米英の海軍を向こうに回して善戦敢闘した日本海軍の活躍を知らないものはいない。南米諸国においてもジャパニーズ・ネービーの評価は高いのである。

 当時は自衛隊に勤めているものの家庭の子供は学校で税金泥棒などといっていじめられていた時代なのである。しかるに遠洋航海の練習艦隊は寄港国のすべてで官民から下へも置かない歓迎を受ける。もちろんそれは国際儀礼なのであるが、旧日本海軍から連綿と続いてきたジャパニーズ・ネービーへの尊敬がその基調にある。遠洋航海に参加した海上自衛隊の将兵はそれを身体で感じる。それは又彼らの自信と誇りにつながる。われわれが兵学校を卒業したのは戦時中で遠洋航海などはなかった。平和の時代の海軍にはこういう魅力的な行事があって有為な人材を集めるセールスポイントになっている。

 余談になるが大東亜戦争が始まった直後の昭和16年(1941)12月10日、大本営政府連絡会議が開かれて、この戦争を何と呼称するかが議論された。海軍は主戦場が太平洋であることから太平洋戦争を主張したが、陸軍の反対にあって結局大東亜戦争に落ち着いた。陸軍の反対は、すでに太平洋戦争と呼ばれた戦争があるということであった。上に述べたペルー・ボリビア対チリの戦争がこれである。この戦争はボリビア領のアタカマ砂漠に埋蔵された豊富な硝石資源の争奪をめぐる戦争であった。1879年から足掛け4年にわたって戦われたが海軍力に勝るチリが沿岸の制海権を確保して勝利を収めた。チリはこの戦争を太平洋戦争(La Guerra del Pacifico)と呼んだのである。敗戦の結果ペルー、ボリビアともに領土の一部を失う。ボリビアは良港アントファガスタを含むアタカマ砂漠を取られて海への出口を失い内陸国になるのである。(2005.6.15)

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