東京大学法学部

入学試験

受験準備:
 私は大学進学のために東京に出てきた。そこで上京後は仕事の傍ら進学対策に着手した。目的校は東大 または 慶大、目的学科は法律または経済とする。後に法学部に絞った。理由は独学自習の容易そうな経済より、技術的性格の強い法律をやっておくほうが将来役に立つと判断したためであった。 受験時期は来年(昭和24年)2月とする。東大は受験料、授業料ともに私学と比べて格安なので、生活費に不安を抱えた私としては絶対に東大に入らねばならない。しかし入学試験の難易度と自分自身の実力から見ると合格の可能性はそう高くない。まあしかしそれは受験準備の進捗度にもよるわけで今から心配しても始まらない。とりあえずは受験準備の勉強に全力をそそぐべきだ。

 先ず旧制高校における一般教養科目と旧制高校生の読書傾向などを考えて次のような本を読むことにした。
  『哲学以前』 出隆
  『西洋史新講』 大類伸
  『新義西洋史』 原随園
   『ルネッサンス史概説』 坂口昂
  『近世における我の自覚史』 朝永三十郎
  『論理学』 速水滉
 まだまだあるが以上は記憶に残っているものだけをピックアップした。  これらの本のうちのあるものは復員輸送中に購入済みである。なかにはざっと目を通したものもある。しかし再読、三読は必要だろう。時事問題はどうか。私が住んでいた驪山荘では全国紙5紙を購入していた。それらを丁寧に読めば入試に出そうな問題は自ずからわかるだろう。そのうち重要と思われる項目を総合雑誌や専門書で補う。 最大の問題は英語対策であった。もともと私の英語は田舎中学英語で、東大を志すについて最大のウイークポイントと自覚していた。参考書を勉強するだけでは駄目だろう。そこで津田塾の英語補習講座に通うことにする。

 津田塾補習の第一回目はリンカーンの「ゲティスバーグ演説」であった。粗悪なわら半紙に謄写版印刷された文章の冒頭の一節はつぎのとおりである。
 Four score and seven years ago our fathers brought forth on this continent, a new nation ,conceived in Liberty, and dedicated to the proposition that all men are created equal.
 たったこれだけの文章の中に3箇所もわからないところがある。先ず出だしの Four score がわからない。scoreは点数という意味であるが点数では意味が通じない。辞書を引くと点数のほかに20という意味もある。4 score は4×20=80となる。and seven years ago で結局87年以前といっているのだ。eighty seven years ago といってくれれば直ぐにわかるのに、リンカーンともあろう人が何というもって回った言い方をするのか。腹が立つ。conceived in Liberty と dedicated to the proposition は辞書を引いてもわからない。 参考までにこの部分の岡田晃久氏訳を以下に示す。
 4世代と7年前に私たちの祖先たちはこの大陸に、自由の理念から生まれ、すべての人が平等に創られているという命題に捧げられた一つの新しい国を生み出しました。

 この演説は南北戦争が北部の勝利に終わるのを見越して、リンカーンが激戦地ゲティスバーグで行ったものである。終わりのほうに例の「人民の、人民による、人民のための政府」という文句が入っていることで民主政治の基本を述べたものとして有名である。米国ではハイスクールの生徒なら誰でも暗誦できるという。米国の生徒は暗誦できても当時の私には辞書を引いてもなおわからない難解な文章であった。津田塾補習の第一日目で私は完全に自信を失った。「Gettysburg Address」の後は米国の哲学者エマーソンの哲学的随想である。これが又面白くない上に難しい。1週間に2度;午後6時から8時まで千駄ヶ谷の津田塾教室で行われた英語補習講義は難行苦行であった。

受験:
 入学試験は昭和24年(1949)2月の寒い日に本郷の東大法学部の25番教室で行われた。私は冬になると出てくる宿痾のイボ痔が痛んでコンディションはよくなかった。苦手の英語では、英訳に今まで見たこともない単語が2語あった。試験時間一杯粘って、全体の文意から推測して翻訳した。後で調べてみると当たらずといえども遠くないことがわかった。英作文は米国の女流作家ルース・ベネディクトの『菊と刀』の日本語訳からとった日本人論であった。ああ、あれかと思うと割りに気楽に作文ができた。日本語の『菊と刀』を読んでいたからといって、それを英語に翻訳するのに何の足しにもならないのではあるが、およそ入学試験などでは緊張感の緩和が大切なのである。質問が何処かで見たものであれば、大いに安心リラックスして実力が十分に発揮できようというものである。まあしかし、8ヶ月通った津田塾のリンカーンやエマーソンに比べて、東大の入試英語はかなりやさしかった。

 一般問題の部で、いまだに記憶に残っているのは次の3問題である。第一は「オットー・フォン・ビスマルクの社会政策について述べよ」であった。オットー・フォン・ビスマルクとは19世紀後半のドイツ宰相ビスマルクのことである。彼はウイルヘルム一世を助けてドイツ統一を成し遂げたばかりか、普墺戦争(プロシャとオーストリアの戦争)、普仏戦争(プロシャとフランスの戦争)に勝利して、ドイツをヨーロッパ大陸の強国の一つに仕上げた。軍備拡張立法に反対するドイツ議会で、「現下の重大事は言論と多数決ではなくて鉄と血だけで解決される」 と見得を切って鉄血宰相とあだ名された。また露土戦争(ロシアとトルコの戦争)を調停してヨーロッパ外交界に重きをなした。これらの諸点から見ると度し難い権力政治家のように思われるがさにあらず、世界で始めて労働者保護法を作った。すぐれた現実政治家であると同時に予見能力においても当時比肩する者を見ない傑物であった。私は復員輸送時代、普墺戦争、普仏戦争あたりの歴史書、小説など何冊か読んでいた。ビスマルクの業績についてはかなり知っていたが、この東大入試の当時、彼の社会政策の具体的内容についてはほとんど知識がなかった。ただ大類伸の『西洋史新講』を読んだときに、このビスマルクの社会政策について1項を設けて説明してあるのを見て、この人にしてこのことがあるかと奇異の感じを持った。このときのことを思い出しながら大略以上のような業績を敷衍しつつ大論文(?)を書き上げた。このビスマルクの問題は入試の一般問題ではメインディッシュに相当するので、これで相当の点数を稼いだと自画自賛した。

 次に3つか4つのこまかい設問があった。その中の一つは「封印列車」であった。第一次世界大戦は1914年6月に始まった。その年8月にはドイツ軍は東部国境のタンネンベルクにおいてロシア軍を破った。しかしロシアは依然として戦争を継続して、ドイツを悩ました。ドイツとしては一刻も早く東部戦線を片付けて、全力を西部戦線の対英仏戦に投入したかったのである。ここにおいてドイツはスイスに亡命中の共産主義者レーニンをロシアに送り込み、露国内部の撹乱と反戦政府の出現を画策する。レーニンらロシアの共産主義者はドイツ政府の仕立てた特別列車で独露国境まで運ばれる。そこからは同志の手引きでロシア国内に密入国するという筋書きである。しかしドイツとしては彼ら共産主義者が途中のドイツ領内で下車して、ドイツ国内で共産主義の宣伝をされては困るのであった。そこでドイツ政府はこの特別列車の車両に鍵を掛けて、乗客の共産主義者が途中の駅で下車できないようにした。これを封印列車と称する。ドイツの目論見は図にあたった。レーニンらを中核とするボルシェビキは抗戦継続を主張するメンシェビキ政府を倒してソヴィエト政権を樹立する。1918年3月、ドイツはこれと単独講和に成功したのであった。

 私はこの封印列車という言葉を東京での受験勉強中に知った。歴史書かあるいは雑誌の論文、随筆の類であったかは忘れた。封印列車という言葉そのものが私の歴史趣味、歴史の裏話趣味を刺激して、試験当日も頭の中に残っていた。答案は上に書いたような整然としたものではなかったが、ともかく的は外れていなかった。余談であるがこの封印列車がレーニンを乗せてロシアに向かった丁度10年前、日露戦争中の1904年(明治37年)、わが国のスパイ、陸軍大佐、明石元次郎はスイスのジュネーブでレーニンと接触していた。明石は共産主義者レーニンをロシアに送り込んで、ロシア国内の反戦、反政府運動の火に油を注ぎ、ロシアの対日戦争継続の意図を挫折させようとした。レーニンは明石の提供した多額の資金を持ってロシア国内に潜入して、明石の期待に応えた。ロシアが満州において十分な戦力を残しながら、しかも日本の継戦能力が底をついていることを知りながら、あえてアメリカ大統領の講和の提案に応じたのは、この国内不安が最大の要因であった。ドイツのこのときの封印列車は10年前の明石の故事に学んだものだろう。というのは日露講和後、ドイツ皇帝ウイルヘルム二世は「明石の働きは大山巌の満州軍20万の戦果に匹敵する」と言ったという。

 記憶に残る最後の設問は 「二律背反」 という言葉であった。二つの命題が矛盾しているのに、そのどちらにも十分な理由がある時にこの言葉を使う。たとえば日本の湖や池のブラックバス駆除の問題である。環境保護派の主張する理由はブラックバスが在来の小魚を食い荒らして絶滅させるという。一方、ブラックバス派は釣り産業と庶民の趣味の保護を主張する。簡単に二者択一というわけにいかない。いずれは政治的に解決されるのであるが、世の中にはこの手の二律背反の例に事欠かない。出題者の意図はこんな下世話な話を書かせることではなく、ドイツの哲学者カントの用法などに言及させることであったろう。何となく聞いたことのあるような言葉ではあったが、その哲学的な用法はもちろんのこと世俗的な用法すらもついに頭に浮かばず、この設問は何も書かないで白紙で出した。そのほか2、3の小問題があったがもはや忘れてしまった。

 試験結果の発表は丁度役所の年度末繁忙期にあたり見に行くことができない。前年、法学部に入った海軍の友人に頼んで見てきてもらって数日後やっと合格が判明した。合格となっても特に嬉しいともなんとも思わなかった。当然のこととも思えたしまた僥倖とも思えた。戦後一貫して切望していた東京での進学が果たされたのだから、喜んでしかるべきであるが、合格したら合格したで困難な問題が待ち構えていた。

大学生活

正門から銀杏並木をとおして安田講堂をのぞむ


 安田講堂は大正14年(1925)、安田財閥の創設者安田善次郎の寄付によって建造された。昭和43年(1968)、44年の東大紛争において、全共闘の学生がこれを占拠し警官隊と攻防戦を演じて一躍天下に名を知られるようになった。この紛争によって内部は破壊されてしばらくは放置されていたがその後修復、現在は建造物文化財に指定されている。東大の顔ともいうべき存在である。なお、昭和44年の入試はこの紛争のため中止となった。

東大総長南原繁:

 入学式は昭和24年(1949)4月上旬の或る日の午前中、安田講堂で行われた。私は上司に断ってこれに出席した。入学式では南原繁(ナンバラシゲル)総長の荘重な演説があった。内容はすべて忘れてしまったが、南原総長は戦後すでに3年間、総長稼業を続けており、演壇に立ってから巻紙の草稿を読んで退席するまで悠揚迫らず,小男にもかかわらず堂々たる貫禄であった。私たち新入生は演説の内容よりもむしろその雰囲気に圧倒された。彼は戦争中から東大の政治学の教授であった。戦争中の昭和17年(1942)に岩波書店から出した 『国家と宗教』 はプラトンやカントの国家観を述べてナチスの世界観に及んでいる。当時の同盟国ドイツの政治体制を批判しているにもかかわらず極右学者の論難の対象にならなかったのは、その批判があくまで学問的、宗教的であったためだろう。彼の著書のほとんどにいえることであるが読者を扇動し、読者に迎合し、読者を高揚させるような要素が何処にもない。これが戦争末期の法学部長、引き続き戦後の東大総長を2期にわたって勤められた主な理由であろう。

 昭和27年(1952)4月、自由諸国との間に講和条約が締結され、戦後7年にわたった占領体制が終わり、わが国は主権を回復した。南原総長はこの対日講和条約にからんで早くから全面講和を主張していた。全面講和というのは日本と戦ったすべての国と包括的に講和をしようという立場である。当時ソ連をリーダーとする共産諸国とアメリカを旗振りとする自由諸国は先鋭に対立して国際的な冷戦の状態にあった。我が政府はもちろん自由諸国との単独講和を進めていた。冷戦下で全面講和を主張するのは無期限に戦争状態を継続せよというに等しいというのが政府の主張であった。一方、左翼学者や社会主義に親近感を持つジャーナリズムが全面講和を主張して南原氏はその理論的リーダーに祭り上げられていた。南原氏のわが国言論界に対する影響力の大きさから政府は困惑して、吉田茂首相は彼を曲学阿世と難しい言葉を使って罵倒した。学ヲ曲ゲテ世ニオモネルというのだから学者に対する批判としては最大級のものであった。今から振り返れば政府のすすめた単独講和がよかったことは明らかなのだが当時は国論を二分して論戦が繰りひろげられた。

          (上の写真は『国史大辞典』吉川弘文館から借用した。)

政治学科と法律学科:

 この年法学部に入った学生は約650人であった。彼らは本人の希望によって政治学科か法律学科のいずれかに属することになる。大まかにい えば政治学科は官僚養成コースであり、法律学科は裁判官,検事、弁護士等の法曹人養成コースである。私は躊躇することなく政治学科を選んだ。私たち元将校は公職追放令によって官途を閉ざされているので卒業しても官吏にはなれない。それにもかかわらず政治学科を選んだ理由は何となくやさしそうだからであった。アルバイトで生活費を稼ぎながら通学しなけれはならない身にとっては、単位のとり易い科が優先される。それはともかく大学に通学するためには海上保安庁を辞めなければならない。しかし今すぐに辞めて官舎を出されたら数ヶ月を出ずして路頭に迷わなければならない。多少の蓄えは有り、それに辞めるとなれば多少の退職金は出るだろう。それらを合わせても東京で1年間ぐらい生活するのがやっとであろう。生まれて初めての二者択一を迫られて懊悩の日が続いた。

 4月に入ってからは毎日曜日、首都圏に住む友人知己を訪ねて、新しい住居と有利なアルバイト先に関する情報の収集に努めた。闇企業で一儲けして愛人を囲っているとの噂のある一友人を池袋近くの下宿屋に訪ねた。彼は俺のやっている仕事はお前には向かないという。どうも斬った張ったの非合法な仕事のようであった。帰り際に 「座して食らわば山をも空なし」 という俚諺を口ずさんで、一日も早くまともな職を探せと忠告してくれたものであった。あるとき役所の上司の紹介状を持って五反田の高台に住む元外交官を訪ねた。新築の、当時としては立派な新居の応接室で、高価そうなガウンを羽織って現れた元外務省高官は、外交官になるためには英語が必要だとか、自らの大使時代の自慢話をするだけで、当面の私の生活に必要な情報や知識は与えられなかった。週末、足を棒にして歩き回っても何も得られないのが常であった。骨折り損のくたびれ儲けであった。

退職

 親切な上司の計らいで仕事の暇なときには学校に行ってもよいことになった。1週間に1、2回は講義に出られるようになったが他の職員の手前、何時までもそんなことをしているわけにいかない。秋になると私の交代要員がやってきた。そして私には申し継ぎを終えて年末で退職するよう勧告された。しかし同時に今住んでいる驪山荘に家賃据え置きのまま当分住んでよいことになった。当時も今も公務員宿舎の家賃は市価に比べてはるかに安く、これで私は何とか東大を卒業できる経済的な目安が立った。退職金は約5万円であった。昭和17年(1942)12月、海軍に入り、昭和24年(1949)12月末に海上保安庁を退職したので国家に対するご奉公の期間も丁度7年間であった。この5万円にはそれに対する慰労の意味があった。当時の私の月給は約5000円で、1箇月の生活費も丁度それぐらいであった。退職金の5万円は東京での1年間の生活費に相当する。その年の10月からは育英資金として月額2100円が入ることになって経済的な見通しはますますよくなった。これならアルバイトをしなくても大学を卒業できるのではないかと思えるようになった。

 しかし好事魔多しという。昭和24年の秋口から何となく身体がだるく、微熱も出るようになった。大学の診療所で左肺浸潤の宣告を受けた。上京以来の粗悪な食生活と過労が原因である。私は翌昭和25年(1950)春先から故郷の家で静養することにした。学業を放棄するのは残念だが健康には代えられない。しかし家にいる間は親掛かりで生活費はゼロとなる。経済的に余裕が生ずるのは歓迎すべきことであった。家でぶらぶらしているときに近所の子供の勉強を見てやることになった。ひとりは男子高校生の英語、もう一人は女子中学生の数学であった。私はそう長く家にいるわけではない。健康が回復次第上京する。私の生徒に個々の問題の解法を教えてもあまり役には立つまい。それよりも勉強に対する興味を喚起したほうがよいと考えた。男子高校生にはヨーロッパ中世、近世の歴史を面白おかしく解説して、たとえばディッケンズの 『二都物語』 やスタンダールの 『赤と黒』 などを読むように勧めた。女子中学生にはなるべく易しい問題を出して、それを自分の力で解く喜びを味あわせるようにした。思い起こせば私が中学に入る際、受け持ちの先生が受験準備として入学試験の数ヶ月前から新しい国語教科書の講義をしてくれた。私たちが小学校で習った国語教科書はいわゆる 『はなはと教科書』 であったが、中学の入学試験は新しい 『さくら教科書』 基準であった。同級生のもう一人の受験生とともに放課後1時間か1時間半位、森閑とした教室で毎日暗くなるまで教わった。幸い私は合格したので親に言いつけられて先生の自宅にお礼の品物を持っていった。確か半ダースの靴下の入った化粧箱であった。田舎の家庭教師代というのは大体そんなものであった。

講義

民法:我妻栄教授
 自宅での半年の療養で体調は完全に回復した。私は夏休み明けの9月から東京に帰り、本格的に通学することになった。これから仕事との時間配分などに苦労することなく勉強ができると張り切ったが授業の実情は私を失望させることが多かった。先ず法学部の必須学科ともいうべき実定法の授業が面白くない。実定法とは制定されて現に効力を有する法律のことで、憲法、民法、行政法などをいう。その中で我妻栄教授の民法は面白いほうであった。我妻教授は不自由な身体を松葉杖に託して、その頃では珍しく自家用車を自ら運転しての通学であった。 「信玄公旗掛松(ハタカケマツ)事件」 などという講義があった。中央線を敷設したため機関車の煤煙によって武田信玄公ゆかりの松が枯れた。松の所有者は国を相手に損害賠償訴訟をおこした。大審院は、国の正当な権利の行使といえども、与えた損害が社会通念上認められる範囲を超えた場合には、損害賠償の責任ありとした。公害裁判の原点ともいえるこの判決は大正8年(1919)のものであるが今に至るもしばしば援用される。

 我妻先生は東大の看板学部ともいうべき法学部の、そのまた看板教授であった。彼の民法講義は法学部25番教室で行われた。5百人は収容できようかという広い教室がいつも満席になった。熱心な学生は教室の扉が開けられるや、数冊のノートを抱えて教室内に突進し、教壇の最前列の机の上にそのノートを一冊づつ配っていく。自分と友人のための席取りである。そういう席取係が数十名はいたであろうか。まるでデパートの正月の福袋を狙って,開店と同時に店内になだれ込む主婦のようであった。もっとも当時は正月の福袋などという現象はなかったが。いずれにせよこれが最高学府の学生のやることかと心中軽蔑したものであった。熱心な学生は一つでも優の数を増やして一流官庁に就職したい、そのためにはなりふりをかまってはいられないというところであった。私のように時間通りに登校する不熱心な学生はいつも2階席の後部壁際の席であった。講義はスピーカー付であったが私の席では耳の後ろに手の平をあてがって聞き耳を立てなければ聞きとれない。我妻栄著岩波版 『民法』 は全部で5冊もあった。ご本人は何十年も前に亡くなられたというのに、今なお版を重ねて一流書店の棚を飾る民法の古典である。

刑法:木村亀二教授
 1816年7月、軍艦メデューズ号を旗艦とするフランス艦隊は僚艦3隻とともに仏領セネガルに向かっていた。植民地勤務の官僚や陸兵、移民を送り届けるのが航海の主目的であった。艦隊は途中, 航路を誤りメデューズ号はアフリカ西海岸の岩礁に乗り上げて大破沈没した。司令官や幕僚それに高級士官はいち早く艦を見捨て搭載の小型帆船で陸地に向かった。乗組員のほか乗客百数十名は、中には女性も含まれていたが、大きな救命筏に乗って漂流を始めた。10数日後に僚艦に助けられたときには、筏の上には10数名しか残っておらず、そこらあたりに人肉が散乱していた。残った10数名は死んだ者や、弱って筏上で殺された者の肉を食らって生き長らえていたのであった。生き残ったものは当然殺人罪や死体損壊罪で処罰されるはずであるがそのような措置がとられた記録は残っていない。このような異常な状況のもとにあっては普通の人に常識ある行動を期待するのは不可能というのが主たる理由である。期待可能性の理論という。この事件はフランスの朝野を震撼させた。フランス・ロマン派の画家ジェリコーはこの事件を題材に「メデューズ号の筏」という大作を描いた。帆を張った筏の上では半裸の男が上着を振って僚艦に合図を送っている。その足元には瀕死の漂流者たちが、あるものは仰向けに倒れ、あるものはうつぶせになり、あるもはのはすでに友人のひざの上で息絶えている。生々しく陰惨な画である。今、ドラクロアの「キオス島の虐殺」などと並んでルーブル美術館に掲げられている。木村教授はエピソードをまじえながらこの「期待可能性の法理論」を説明した。

 木村教授は東北大学法学部の教授で東大へは出張授業であった。たしか秋に1週間ぐらい毎日, 集中講義があった。教壇上の先生は地味な三つ揃いの背広を着て村夫子然(ソンプウシゼン)たる風貌であった。しかし聖書や内外の古典を引用しつつ縦横に論ずる態度はすこぶる魅力的であった。もともと刑法の法理論の中には,上に述べた期待可能性理論もそうであるがわれわれ学生の人生観をゆさぶり動かすものがあった。刑罰の本質を論ずる応報刑主義と教育刑主義の対立などその尤(ユウ)なるものであろう。刑法とは悪事を犯したものに対する罰を規定したものであるから、その刑罰は如何にあるべきかは古来刑法学の主要な課題の一つであった。応報刑主義とは簡単にいえば同害報復論である。「殺した者は殺されるべきであり、強姦した者は去勢されるべきである」というカントの主張はこの派の考え方の極端な表現である。それでは教育刑主義はどうか。この派は刑罰の目的は悪事を犯した者を社会的に立ち直らせることにあるとする。刑罰は教育でなければならないというのである。近代国家はおおむね教育刑主義の原則に立つもののようである。トルコがヨーロッパ連合(EU)加盟交渉に先立って、死刑廃止を要請されているのもその一例であろう。わが国は死刑を認めているが、だからといってわが刑法が応報刑主義に立つものとはいえない。残虐な殺人事件を考えてみるがいい。被害者と被害者の身寄りの者の無念の感情に癒しを与えるのも刑罰のもう一つの目的でなくてはならない。木村教授はわが憲法は教育刑を原則とすると主張される。

国際法:横田喜三郎教授
 東大に入って先ず驚いたのは御茶ノ水駅と東大を結ぶシャットルバスの停留所の大きな張り紙や立看板である。それには 「平和の死刑執行人横田喜三郎」 と大書してある。横田教授は当時法学部長であった。また授業料値上げが当時、学生の反対にあっていた。ある日の午後、法学部25番教室で学生大会が開かれ、この問題が討議されることになった。横田法学部長が出席して学校当局の方針を説明するというので私も出席した。教室の最前列の席を占めた一部の学生は教授が教室に入ってくるや、平和の死刑執行人云々のキャッチフレーズを連呼して気勢を上げる。最初から教授の話を聞く耳は持たないという態度である。それでも教授はマイクを使って授業料値上げの必要な理由と反対のためのストライキが不可である理由を諄々と説く。最前列の学生のあるものは机の上に立ち上がって、教授を指差しながらありとあらゆる罵声を浴びせかける。まことに見るのも聞くのも耐えがたい状景であった。一部の学生は学生というよりも学生服を着たごろつきといったところであった。一方の教授はどうかというと学生の怒号が一段落するたびに自らの主張を繰り返してあくことがない。その態度は冷静で、話し振りは終始静かである。ただ顔面神経痛でもあるのか頬の肉がぴくぴく動くのが2階席からも見える。教授の話の中には 「君たちの言うことにも一理ある」 とかあるいは 「君たちの言うことももっともだが」 などの妥協的な言葉はひと言もない。ただ言い方を替えながら学校当局の主張を述べるだけであった。私は大勢の無頼漢学生にののしられながら毅然たる姿勢を崩さない教授の態度に感心した。責任者たるものはかくあるべきだと心中深く感ずるところがあった。

 横田教授は昭和6年(1931)の満州事変に反対の論陣を張って陸軍や右翼に睨まれていた。戦時の反戦教授ということで戦後はわが世の春を謳歌する立場であった。東大法学部長の地位は居心地の良い職であったろう。私は彼に期待していたので実際彼の講義に出席して大いに失望した。講義が面白くないのである。彼は留学時代、ドイツの法学者ハンス・ケルゼンに師事した。ケルゼンは純粋法学の大家であった。純粋法学というのは法文や法理念を論理的に演繹して実際の問題の解釈や解決に当たろうというものである。法の解釈や適用が現実の政策や利害で曲げられることを拒否する。これに対して法の解釈は人々の営みや社会の現実の中から導き出されるとする法社会学がある。彼の講義はAはBである、BはCである、故にAはCである式の単純な三段論法によって展開される。国際条約の条文が実際問題に如何に適用されたかなど実例を挙げながら説明すれば興味津々であろうが、そうではなかった。彼の著書と同様、彼の講義も無味乾燥そのものであった。私の国際法の試験答案に優をくれたのであまり悪口は言いたくないが、教師としての横田氏に高い評価を与えることはできない。

政治史:岡義武教授
 東大の教授連の中で文章のうまさにおいて岡義武教授の右に出るものはいない。当時そうであったし現在もそうであろう。大体学者の文章は文章のうまさよりもむしろその論理の組み立て方や結論の出し方が問題にされる。最小限の文章で読者を説得し、読者を納得させねばならない。 文章の過剰も文章の不足もよくない。必要にして十分な文章で自己の見解を表明する。いきおい、学者の文章は無味乾燥に陥りやすい。一方作家の文章について見よう。強調する場面では過剰に文章を重ねるし、読者の空想を刺激する場面では必要と思われる表現も抑制する。このような文章作法によって作家は読者を感動させる。岡教授の著書、『近代日本の政治家』 とか 『国際政治史』 とかはこの文章表現の繁簡よろしきをえて、読む人に読書の楽しみを満喫させてくれる。しかも内容たるや事実の精緻な積み重ねと、その適切な評価で構成されていて高い学門的水準を維持している。彼の文章は学者の論文を作家の文章表現で行ったといってもあえて言い過ぎではない。

 戦記作家の児島襄(故人)は東大で岡教授の門下生であった。彼は自著を語って、学者の態度で調べ作家の文章で書くと言っている。まさに岡教授の文章作法そのものである。彼の処女作品 『太平洋戦争』上、下は諸種の出版文化賞を獲得した。東大時代の一日、彼は自らの針路について教授に相談したという。彼は大学に残って助手、助教授、教授という針路を夢見ていたのだ。岡教授は先ず、君のうちには資産があるかと聞く。ないと答えると資産のない者は学者になるべきではないと言う。研究室の本だけでは学者として大成しないと言う。それで児島は大学に残るのをあきらめて作家の道に進んだとのことである。如何に自分の門下生に対してであっても,資産の有無を聞いて、資産がなければ成功しないというのはなかなか言いにくいものであろう。シレッとしてこれを言い切るところに岡教授の真骨頂がある。教壇でも彼は明治の元勲を俎上に上げ、穏やかな表現で辛辣な批評をした。

講義管見
 私はどの教授のゼミにも入らなかった。入りたくなかったわけではないが、東大に入学した昭和24年(1949)中は海上保安庁保安局掃海課の職員として勤務していた。親切な上司の特別なはからいはあったが講義に出られる機会はめったになく、ましてゼミなどに出られるはずはない。翌昭和25年(1950)の前半は、病気療養のため郷里にいたので、これまた学校には出なかった。大学の3年間を通算して丁度半分ぐらい学校に出たことになろうか。先に述べた4人の先生と、南原総長についてはその風貌態度から教壇での講義の口ぶりまで思い出すことができるが、他の諸先生については極めて怪しい。商法の鈴木竹雄教授はダンディだったな、東畑精一教授の農業政策は漫談調のところもあって面白かったなというぐらいのところである。後の諸先生についてはお顔はもちろんのこと講義の内容の片鱗すら覚えていない。
 私は舞出(マイデ)長五郎教授のお名前を復員輸送時代の読書を通じて知っており、この高名な経済学者の授業に親しく出席できる幸運に喜んでいた。 ところが実際の彼の経済原論の講義を聞いてたちまち失望した。岩波書店から出している自著の 『理論経済学概要』 をつっかえつっかえ読むだけであった。私はこの本をすでに一度読んで、著者の文才の豊かさに感心していただけに失望もまた大きかった。最初1、2回教室で講義を聞いただけであとは図書館で読書することにした。

 社会政策の大河内一男教授は後に昭和30年代東大総長になった。ある年の卒業演説で卒業生に 「君たちは太った豚になるよりは痩せたソクラテスになれ」 と訓示して、ジャーナリズムに揶揄された。私に優をくれた数少ない先生の一人だが今は風貌も思い出せない。
 法理学(法哲学)の尾高朝雄氏はその軽妙洒脱な話芸によって法学部の人気教授であった。1、2回彼の講義を聞いたが私の肌には合わなかった。選択科目であったことでもありあえて単位をとらなかった。彼が昭和30年(1955)に有斐閣から出版した 『法の究極に在るもの』 は法律学者の本には珍しくベストセラーになった。彼は法の究極に在るものを法を作り、法を動かすことのできる政治であるとする。彼は法律や哲学の古典から美辞警句を引用しながら華麗な議論を展開する。カントの 「蛇のように明なれ、しかし鳩のように偽りあることなかれ」 とか、ヘーゲルの 「ここに薔薇がある、ここで踊れ」 とか 「ミネルバの梟は黄昏に飛び立つ」などなど。ヘーゲルの国家論を紹介するに当たっては、そのヘーゲルが引用しているナポレオンの言葉さえもち出す。「フランス共和国は承認を必要としないこと、あたかも太陽が承認される必要がないのと同様である。」  尾高教授は昭和31年(1946)、歯医者で治療中、ペニシリンショックで急逝された。

卒業

東大総長矢内原忠雄

 昭和26年(1951)12月、南原氏は矢内原(ヤナイバラ)忠雄経済学部長に総長職を譲った。矢内原氏は戦前、経済学部教授として植民政策の講座を持っていた。彼は講義や著書、論文でわが国の植民地経営のあり方を批判して、かねて軍部や政府筋に睨まれていた。たまたま雑誌に発表した論文に不敬な箇所があるという理由で詰め腹を切らされて東大を追われた。長与又郎総長時代のことである。昭和12年12月2日、満員の法経7番教室で行われた彼の最終講義では、すすり泣きの声も漏れたと蛯名賢造は 彼の著『海軍予備学生』 に書いている。

 昭和27年3月28日のわれわれ昭和24年入学組の卒業式では矢内原新総長が卒業演説を行った。卒業式の演壇に上がる新総長の態度はあくまで誠実,真摯、謙虚で、南原前総長に感じられた一種の虚勢というかけれんみのようなものは一切感じられなかった。私は例によって演説の中身はみんな忘れてしまった。当日の朝日新聞夕刊によると、「へびのごとく賢く、はとのごとく単純なれ」 とはなむけの言葉を贈ったという。敬虔なクリスチャン総長の片鱗がうかがえる。ついでに付け加えると新卒業生は2719名(うち女子学生33名)で、当日の卒業式には約2千名の父兄が参列したという。そういえば講堂の中は学問の場にふさわしくない派手な雰囲気であった。

 総長という呼び方であるが、昭和30年代に入った何時頃からかジャーナリズムは学長という名を使い出した。なんでも総長とはあまりに権威主義的だということらしい。東大では今でも正式名称はもとより通常の呼称も総長である。旧帝国大学系の大学ではおおむね総長名が今も使われている。私学でも総長を名乗るところは珍しくない。学長とは新聞が勝手に使っている名称である。そういえば暴力団のボスを総長と称するグループもあるやに聞く。

         (右の写真は『国史大辞典』 吉川弘文館から借用した)

成績

公務員試験

 昭和26年10月初旬、第4回国家公務員採用試験が行われた。私たち旧将校は公職追放令によって官途を閉ざされており、仮に試験に合格しても国家公務員にはなれない。しかし何ごとも経験と思って受験した。受験したのは6級職の行政と法律の2種であった。昨年(平成16年)、故郷の家の解体に際して納戸を整理中、卒業証書や学生票(科目別に成績を記載した通信簿のようなもの)とともに昭和26年11月8日付、人事院事務総長名の合格通知書4通が出てきた。粗悪なB5判用紙に印刷されており、半世紀の歳月を経てすでに茶色に変色しているが十分に判読可能である。内容は次のとおりである。

                  通知書

 あなたは今回実施した第4回国家公務員採用試験の結果11月6日づけをもって下記採用候補者名簿に登載されました。

     6級職      行政     中央名簿

 あなたの大体の席次は

 被登載者505人中の340番で、官庁からの採用申込に応じて、成績順に提示されます。

 なお採用候補者名簿の有効期間は原則として1年です。
                                           以上

 私は受験に際して何の準備もしていなかった。その意味では上の成績は私の実力である。試験は私の苦手とするマークシート方式であったことも成績の不振に拍車をかけた。この成績では到底一流官庁からはお呼びがかからない。案の定, 口頭試問の招請状が来たのは労働省からであった。もちろん私は出席しなかった。上の通知書で中央名簿というのは中央官庁採用候補者名簿のことである。通知書の2枚目は法律職の試験結果である。被登載者376人中の367番であった。合格したとはいえ最下位グループなので何処からもお呼びはかからなかった。

 次の2枚は地方官庁(県庁)採用候補者名簿の席次である。私は広島県出身なので地方官庁に就職する場合は中国地方の県庁にするはずだから、受験の際、中国地方の欄にチェックを入れておいた。したがって名簿は中国名簿である。先ず行政職は55人中の15番、法律職は40人中の16番である。卒業して私企業に入社し、名古屋で勤務中に山口県庁の外郭団体から招請状が来たが当然無視した。試験が何処で行われたか、試験問題の内容はどんなであったか全く覚えていない。しかし筆記試験に先立って受験者全員が指紋を取られた。これで窃盗、強盗、殺人など指紋が重要証拠となる犯罪には手を染められないなと思ったものだ。それにしても合格者からの指紋採取はともかく、全受験者からの採取はひどいと不満であった。

卒業成績

 卒業成績を語ることにはあまり気が進まないのであるが、小中学校の成績がよかったことを声を大にして語っておきながら、大学の成績を語らないのは片手落ちのそしりを免れない。先ず必修科目13科目のうちで優を取ったのは政治史(岡義武)、外交史(林健太郎)、国際法第二部(横田喜三郎)の3科目であった。選択科目9科目のうち優は社会政策(大河内一男)、労働法(石川吉右衛門)、刑法(木村亀二)、商法第二部(鈴木竹雄)の4科目であった。単位をとった全22科目のうち優が7科目というのは劣等生もいいところである。これには理由があって、仕事とか病気とかいろいろあげられるが卒業してすでに50数年もたって、試験成績不振の理由をあげつらっても詮無いことである。要するに少年時代の田舎秀才が全国区に進出して馬脚を現したというのが真相である。

 この写真は卒業の前月、安田講堂を背景に友人に撮ってもらったものである。帽子はその友人から借りた。私は学生服も学生帽も持たなかった。普通なら大学を卒業する年齢で私は大学に入ったのだ。いい大人が制服制帽に身を包んで、おもちゃの兵隊よろしく、嬉々として通学する気にはなれなかった。冬は海軍時代の紺の第一種軍装、夏は開襟シャツで通した。大学生活の3年間、私は一切、家からの仕送りを受けなかった。貯金と育英資金の月額2100円で3年間の東京生活を乗り切れる予定であった。しかしインフレの亢進は予想以上のスピードで進み、最後の授業料の支払いができない。授業料滞納の学生には卒業証書を渡さないというのでやむなく家に泣き付いた。家からは直ぐに2000円の郵便為替を送ってきた。その手紙に、折り返し学生服を着た写真を送れといってきた。いわば仕送りのかたといういわくつきのものである。私の学生時代、帰郷の服装は何時も背広であった。両親は、実物であれ写真であれ倅の学生服姿を見たことがない。私が東大生であることに若干の疑いを持っていた節がある。 (2005. 1.10)

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