戦争の時代

はじめに

 私が小学校に入った前年、昭和6年(1931)9月満州事変が始まった。事変はたちまち上海に飛び火した。上海郊外の戦闘で、砲兵部隊が敵の鉄条網を爆破して歩兵の突撃路を開くことになった。このために,爆薬筒を持って敵弾の中を匍匐前進した3人の砲兵が、爆薬筒の爆発と共に戦死した。この事件は「肉弾三勇士の歌」と題する軍国歌謡となって全国に広まった。”廟行鎮の敵の陣 我の友隊すでに攻む 折から凍る如月の 22日の午前5時 ”の歌詞は歌人の与謝野鉄幹の作であった。われわれ小学1年生は唱歌の時間にこの歌を習って何時も歌った。この歌の流行は軍国時代の幕開けを象徴する現象であった。

 満州事変も上海事変もやがて終息し、世の中には束の間の平和が訪れた。しかし  昭和8年(1933)、日本は国際連盟を脱退、さらに翌昭和9年(1934)にはワシントン海軍軍縮条約を廃棄して、世の中には戦争のきな臭い匂いが立ち込めてきた。このような不穏な国際情勢の中、昭和12年(1937)7月、支那事変が勃発、さらに大東亜戦争に発展した。結局、昭和20年(1945)8月の敗戦に至るまでの8年間の戦争の時代がここに始まった。

 支那事変が始まってからしばらくすると、毎日のように出征兵士を乗せた臨時列車がわが村の小駅を通過するようになった。村の主婦たちは白エプロン姿で国防婦人会のたすきを掛け、駅のプラットホームに立ち茶菓の接待をした。小学生も出征兵士に慰問文を手渡すことが奨励され、私も数回駅頭に立った。あるとき慰問文を手渡した兵隊さんから返事が来た。彼は出征兵士ではなく、動員事務を担当する下士官であった。その返事には、そのことの言い訳と将来立派な兵隊になるよう一生懸命勉強しなさいというようなことが書いてあった。その時私は小学5年生であった。

 昭和15年(1940)は神武天皇が即位してから2600年目に当たるというので、国を挙げて2600年式典が行われた。その中の行事の一つとして、神武天皇御東征のみぎり乗船したという船に模して建造された木造帆船が建国の地宮崎から大阪までを帆走した。中学2年生の私たちは海岸の松林に並んで学校沖の瀬戸内海を通過するこの船を見送った。この年1月、米国は一方的に日米通商航海条約を破棄した。

 昭和16年(1941)になると主食の米は配給制になり、庶民の生活は次第に窮屈になってきた。7月にわが陸軍の南部仏印(今のベトナム南部)進駐が始まった。これに対する報復として、米政府は石油の対日全面禁輸に踏み切った。艦艇、飛行機の燃料たる石油を、全面的に米国に依存していたわが海軍は、たちまち存亡の危機に立たされた。もともと海軍は米国を怒らせて石油禁輸の切り札を使われることを恐れていたが、この頃になると対米強硬の南進論が部内の主流を占めるにいたっていた。米国の強硬態度を下算していたのだった。

 石油の代替輸入ソースとして政府は蘭印(今のインドネシア)と交渉を始めた。もとより米英陣営に属するオランダが日本のいうことを聞くはずもなかった。政府はさらに野村、来栖両特使を派遣して米政府と鋭意交渉するところがあったがこれも失敗に帰した。この年の12月、日本はついに米英蘭に対して戦端を開いた。戦争の将来に不安を持っていた国民も緒戦の大勝に大いに安堵した。翌年6月のミッドウエー海戦では、わが海軍は虎の子の空母4隻を失うという大敗北を喫したが、敗北の実情は国民には知らされなかった。そのために国内には緒戦の勝利の記憶が消えず、米英取るに足らず、米英打つべしの好戦的空気が瀰漫していた。

海軍兵学校(1)

海軍兵学校は何処にあったか

 海軍兵学校は海軍兵科将校を養成する学校である。戦前は米国のアナポリス、英国のダートマスとともに世界三大兵学校としてその名は広く知られていた。その創立は明治2年(1869)であるが明治21年(1888)東京築地から広島湾のど真ん中、江田島に移った。繁華輻輳の帝都を避けて生徒は学問と実技の習得に集中できるというのが移転の理由であった。江田島湾内の水深は20メートルと深からず浅からず、軍艦の錨泊に適していた。又当時の小規模な聯合艦隊は全艦、江田島湾内に収容できるというのも魅力であった。しかし本土との交通といえば呉から小用までの連絡船と広島市の外港、宇品港から切串までの連絡船しかない。呉線が広島から呉を経由し糸崎まで開通したのは昭和9年(1934)であった。文字通りの文化果つる僻陬の地であった。
 ラフカディオ・ハーンといえばこの当時わが国に来たお雇外国人教師の一人であった。最初は島根県松江の中学で英語の教師をしていたがのちに東京帝大で英文学を教えた。詩人であり又世界的に著名な作家でもあった。日本に帰化して小泉八雲と称した。このハーンこと小泉八雲はいたく海軍兵学校への就職を希望していた。高給であるという、詩人にふさわしくない形而下的な理由からであった。このことを彼は随筆の中で書いている。当時ヨーロッパ文明の吸収に忙しかったわが国は、高給を出して外国人教師を募った。江田島のような辺鄙な場所で勤務すればさらに僻地割り増しがついたであろう。ハーンのごとき外国人が極東のはずれの野蛮国にはるばるやって来るのは金儲けのためであった。
 現在では呉から音戸大橋、早瀬大橋を経由すれば車で1時間で旧兵学校に着ける。宇品港からでも高速艇で25分に過ぎない。左図で海上自衛隊の表示があるのが兵学校の所在場所であった。現在は海上自衛隊が第一術科学校と幹部候補生学校として使用している。前者は術科教育と研究を行う。後者は防衛大学校出身者のうちの海上自衛隊配属者と、一般大学出身者からの入校者で構成される。彼らに海上自衛隊幹部としての専門教育を実施するのがこの学校の役目である。すなはち戦前の海軍兵学校に相当するのがこの学校ということになる。

採用試験

 昭和17年(1942)8月上旬、全国53の試験場において海軍兵学校の採用試験が実施された。この戦争の立役者が海軍であったため、この年の海兵(海軍兵学校を略して世間一般では海兵といった)応募者は、12,000人という空前の規模に達した。私の中学の海兵志望者は呉市の海兵団で受験した。学術試験の前に身体検査が行われる。軍の学校であるから当然健康が重視される。とくに海兵では両眼視力1.0が厳格に適用される。熱烈な海兵志望者であっても視力が制限に達しないため応募をあきらめた者が無数にいた。この身体検査に合格した者だけが学術試験を受けられる。学術試験の科目と日程は次表のとおりである。

 海軍兵学校の採用試験は身体検査が厳格であるばかりか学術試験のやり方も独特なものであった。勝ち残り方式というか生き残り方式というか、初日の数学(第一)5問のうち正解がないものは爾後の試験を受けられない。試験が終わって1時間半ぐらいで当日の結果が発表される。全受験者の受験番号が掲示板に貼り出されるが、不合格者の番号には斜線が引かれている。第一日目に四分の一ぐらいの不合格者が出たであろうか。翌日の数学(第二)5問の試験で正解のないものは午後からの試験を受けられないのですごすごと帰っていった。この数学の2回の試験で大体受験生の数は三分の一ぐらいになってしまった。私はもともと数学は得意科目でなかったが、このときは2回とも3題は解けた。

 こうして毎日、受験生は減っていき最終日の口頭試験に残ったのは4,50名であったろうか。口頭試験の試験官は3名であった。私の担当は文官であった。姓名を申告して試験官机の前の椅子に腰掛けると、メモ用紙が手渡された。用紙には珊瑚海海戦云々の短文が印刷されていた。珊瑚海海戦というのはその年の5月上旬、ニューギニア北方の珊瑚海で戦われた日米空母同士の最初の海戦であった。結果は1勝1敗の引き分けというところであったが、わが方の勝利として報道された。口頭試験の最初の問題はこの海戦についての受験者の意見を求めるものであった。そのメモを読みかけるや急に目の前が白くなり私は何もわからなくなった。気が付いたところは医務室のベッドの上であった。脳貧血のため失神し、何一つ応答することなく試験場から運び出されたことを知った。生き残り採用試験でここまで生き残ってきたが、これですべてパーになったなと思った。しかし、まだ4年生だから来年があると落ち込みはしなかった。このとき私の次の順番で口頭試験を受ける受験生は、私と同じ中学の5年生木谷であった。木谷の戦後の述懐である。試験の行われた武道場の片隅で皆と一緒に順番を待っていたところ、突然どたっという音と共に私が椅子から転がり落ちているのが見えた。直ぐに2,3人の兵隊さんが駆けつけ、私は負ぶわれて試験場を出た。後で皆と、かわいそうにあいつもこれで駄目になったな、と語り合った。因みにこの5年生木谷は視力が1.0に達しないため、最初から海兵はあきらめて海軍機関学校に応募していた。幸い彼は合格した。

 私は呉市で酒の販売業を営む叔母一家に止宿してこの採用試験を受けた。毎朝叔母に弁当を作ってもらって試験会場に通った。暑さと緊張のため私は食欲がなく弁当に手をつけることが出来ない。食べないで持って帰れば叔母が心配するだろう。私は弁当を便所に捨てて何食わぬ顔で毎日叔母の家に帰った。しかし試験の最終日に至りついに緊張の糸が切れた。最終日の午後は被服や靴の採寸が行われ、生き残りの数十名はほとんど合格者の気分であった。私は口頭試験を受けていないのに、何故かこの最終残留者の仲間に入っていた。その夜は私より3歳年上の従兄に連れられて映画を見に行った。当時は中学生は特別の場合のほか映画館に入ることを禁止されていた。映画館に出入りするところを教護聯盟の監視員に見つかり、母校に通知されると停学・謹慎などの処分を受けた。この場合は従兄のシャツやズボンを借りていたのでその心配はなかったが心中びくびくものであった。

 私は口頭試験での失態を誰にも話さなかった。しかし9月に入って憲兵が近所の家々を尋ねて、我が家の評判を聞き回って行ったとのニュースが入った。海軍は兵学校採用試験の最終残留者の家庭状況の調査を陸軍に依頼していた。家庭状況に難のある者は兵学校に入校させないというのが伝統的な海軍の方針であった。わが家の状況はどうか。父は頑固一徹、曲がったことの嫌いな堅物であった。当時皆に押されて隣組の組長をつとめていた。何処を叩かれてもほこりの立たない善良な庶民であった。私はあきらめていながら一縷の望みを持った。11月1日、日曜日の午前中「カイヘイゴウカク」の電報が来た。後に偶然の機会に自分の考課表を目にした。それによると私の採用試験の綜合成績は合格者1028名中の299番であった。

海軍兵学校(2)

 私たち約千名の合格者は昭和17年(1942)12月1日、憧れの海軍兵学校に入校した。軍の学校であるから規律は厳重で、旧制高校のように自由や放縦は許されないと覚悟はしていた。しかしそれは聞きしに勝るものであった。とくに新入生徒は時間に追われて一日中走り回っていなければならず、自由な時間のないのが一番こたえた。 これを耐え難いとして脱走するものも後を絶たなかった。私の場合は兵学校の裏門を出て、連絡船と汽車を乗り継ぎ1時間半ぐらいで家に帰れるので、脱走の誘惑は強いものがあった。しかし脱走すれば免生徒(退校のこと)になることは確実で、家族や郷党の期待を裏切ることになる。あれを思いこれを考えて脱走の誘惑を断ち切るのに1ヵ月半位を要した。私たち新入生徒の大方は小学校以来の軍国少年であった。ジャーナリズムが軍国主義を鼓吹し、世態人情がそれに追随する状況では、多感な少年たちの多くが軍人となって国家のために尽くそうと考えるのは当然の成り行きであった。通常子供たちの目に触れる軍人は陸軍の兵隊さんであった。勢い子供たちの軍国主義は陸軍軍国主義というべきものであった。それは石を枕に寝、泥水をすすって行軍することをいとはないイメージと不可分に結びついていた。私たちは海軍兵学校に入ってまず海軍と陸軍のものの考え方、大袈裟にいえば両者の文化の違いに強烈な違和感を覚えた。

生徒館

 赤煉瓦の生徒館は、明治26年(1893)に竣工した。赤煉瓦は英国からの輸入品である。1個の値段は50銭もしたという。日露戦争の軍神、広瀬中佐も大東亜戦争の聯合艦隊司令長官、山本五十六大将も皆この生徒館で起居した。生徒が昔から倶楽部や巡航の際愛唱した巡航節に次の一節がある。

” あの鼻回れば生徒館が見えるヨ
 赤い煉瓦にゃ鬼が住むヨ”
 鬼とは勿論怖い一号生徒(最上級生徒をこういった)のことである。土曜日午後からの帆走巡航では羽目をはずした無礼講を楽しんだが、日曜日午後、津久茂水道を抜けて江田内(江田島湾のこと)に入ると赤煉瓦の生徒館が見えてくる。そのとたんに緊張する三号生徒(新入生徒をこういった)の気持ちをこの歌はよくあらわしている。
 左にちょっと見えるクリーム色の建物は昭和13年(1938)に建てられた西生徒館である。時局の緊迫に伴い生徒数も次第に増えていき、赤煉瓦の生徒館だけでは間に合わなくなったのである。この生徒館は最近建て替えられ、4階建てとなった。しかし外観上これまでのイメージを損なわないように配慮されている。もともと海上自衛隊は赤煉瓦の生徒館も一緒に建て替えたかったが広島県の反対にあって取りやめたとか。宮島以外にこれといった観光資源のない広島県はこの江田島の旧海軍兵学校に大いに期待しているようである。

教育参考館

 教育参考館は生徒の精神教育に資するため昭和11年(1936)に建てられた。イオニア式列柱の玄関を入るとロビーがありその奥に2階に上がる階段がある。2階正面にはネルソン提督と東郷元帥の遺髪がそれぞれ容器に入って安置してある。生徒はこれに最敬礼をしてから中の資料や戦死者銘牌などを拝観する。まず明治43年(1910)、事故により沈没して乗組員13名とともに殉職した第六号潜水艇の艇長佐久間大尉の遺書が目に入る。遺書は次のように始まる。「小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申シ訳ナシ サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ・・・・」。次に彼は将来の潜水艇の発展のために事故の経緯を詳記する。最後の文面は次のとおりである。「謹シンデ陛下ニ申ス 我ガ部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ワン事ヲ 我ガ念頭ニ懸カルモノコレアルノミ」。佐久間艇長は海軍軍人の鑑とされ、生徒がもっとも尊敬する先輩の一人であった。日曜日の軍歌演習でも第六潜水艇の歌は生徒の愛唱する歌の一つであった。その1節は次のとおり。

  阿多田の島の沖にして
  艇(ふね)諸共に沈みたる
  第六潜水艇員の
  雄雄しき最後を見よや人

 阿多田島とは上の案内図で宮島の南方、西能美島(江田島とは地続き) の西方に位置する島で、案内図では島の輪郭だけが示され島名が記されていない。島の左の×印が第六潜水艇の遭難地点である。 この佐久間艇長の遺書は米国の著名な新聞記者ハンソン・ボールドウインを感激させ、戦後しばらくの間ワシントンの米国立公文書館の玄関ロビーにその英訳が掲出されていた。
 そのほか戦死者の遺品や遺書が展示されている。10数年前、戦死者の遺書の前で泣き崩れている若い女性の姿を見たことがある。身内の人でもあったろうか。 この教育参考館は江田島観光の目玉である。観光客は正門(われわれの時代には正門は江田内に面した表桟橋であった。今の正門を裏門と称した)の受付で登録すれば1日に数回、海上自衛隊の若い士官が無料で構内を案内してくれる。所要時間は1時間半。なおネルソンと東郷元帥の遺髪は今は置いてない。

戦艦大和主砲砲弾
 左の写真は戦艦大和の主砲砲弾である。教育参考館の玄関左脇においてある。上の教育参考館の写真でも小さく見えている。高さ:1.95m 直径::46cm 重量:1.5トン 最大射程距離:42km。戦艦大和の46糎主砲は当時から現在まで軍艦の大砲としては世界最大のものである。この砲弾が砲口を飛び出して高空を飛翔する時には鉛筆程度の大きさに見える。戦艦大和は僚艦の武蔵とともに世界的な大艦巨砲時代の最後を飾る巨艦であったが、その巨体と巨砲を有効に活用することなく海底の藻屑と化した。戦艦大和の最後については後に言及する。
特殊潜航艇
 右の写真は大東亜戦争の開戦劈頭,ハワイ真珠湾を奇襲した5隻の特殊潜航艇(2人乗り)のうちの1隻である。教育参考館の玄関に向かって左外壁に沿って展示されている。この特殊潜航艇は湾外で親潜水艦から放され自力で湾内に侵入して敵艦を魚雷攻撃する。武運つたなく湾外で沈没したものを戦後、米海軍が引き上げて日本側に返還したものである。同型の特殊潜航艇が昭和17年(1942)5月、6月、シドニーとマダガスカルのディエゴスワレズ軍港を攻撃した。山本長官は当初、生還を期し得ないこの小型潜水艇の採用を拒否したが、攻撃終了後親潜水艦に収容する段取りをさせた上で使用を許可した。しかし防潜網の展張など警戒厳重な軍港に潜入して、有効な攻撃をした後に脱出するのは常識的に見て不可能なことであった。すなはちこの特殊潜航艇はこのたびの戦争で日本海軍が使用した最初の特攻兵器であった。戦争の発展とともに、この特殊潜航艇は大型化されて蛟龍と称し、局地防禦に投入されるようになった。

寝言

 午後9時半(夏は10時)就寝して当直監事の巡検が終わると、一号生徒が三号生徒に語りかける。昼間は怖い鬼の一号がこのときばかりは思い切りくだけた話をしてくれる。この話の中に海軍の常識や伝統、言い伝えなどがあって、三号は談笑の間にひとりでに海軍の文化に馴染むことになる。これを寝言といって兵学校では重要な下級生教育の手段とされてきた。寝言をユーモアをまじえて面白おかしく語ることの出来る一号は、下級生から敬愛された。私たちが兵学校に入って最初に聞いた寝言は次の和歌であった。

 スマートで目先が利いて几帳面負けじ魂これぞ船乗り

 スマートで目先が利くとはどういうことか。英語でsmartとは狡知に長けた敏捷さや抜け目のなさを表すことが多いが,ここでのスマートは勿論そういうことではない。容姿が端正で態度動作がきびきびして無駄がなく、見た目にも美しいことをいう。そういえば生徒館のいたるところに等身大の鏡があり、生徒は鏡に自分の姿を写して服装や容姿に問題はないか点検することを奨励された。泥水すすり草を食む陸軍のイメージとは大変な違いである。目先が利くとはたとえば荒天が予想される場合、前もって露天甲板の救助艇をロープで固縛することなどを意味する。几帳面とは整理整頓が上手であるとか、上司の命令を確実に履行して報告をきちんとするなどをいう。起床動作を急ぐあまり毛布の整頓が悪い場合、見回りの週番生徒に毛布を崩される。毛布を崩されたものは自習止め後週番生徒室に集められて修正されることもある。修正されるとは兵学校用語で殴られることの美称である。負けじ魂とは文字通りの意味で、毎週土曜日の午後の兵学校名物棒倒しで、三号は思い切り日頃の鬱憤を晴らすことが出来る。このときばかりは上級生であれ誰であれ殴っても差し支えない。
 この写真は戦争中の昭和18年(1943)7月刊行された真継不二夫(故人)の報道写真集『海軍兵学校』からとった。真継は昭和17年6月から3ヶ月間,江田島で生徒たちと起居をともにしながらこの写真集を完成させた。以下に掲げる写真の多くはこの写真集から借用した。

普通学

 海軍兵学校は海軍将校を養成する学校であるから、砲術とか水雷とかもっぱら軍事学を教える学校と思われていたがそうではない。入校して最初に習った国語では,教科書の開巻第一ページに万葉集の歌が10数首並んでいた。その冒頭の和歌は次の歌であった。

 あさ裳よし紀人ともしも亦打山行き来と見らむ紀人ともしも

 「あさモよしキヒトともしもマツチヤマユきクとミらむキヒトともしも」と読む。一首は姿かたちの美しい待乳山を、奈良の都に往復のたびに眺められる紀の国の人は羨ましいなあというほどの意味であろう。現在から見れば何ということもない歌であるが、当時万葉集といえばたとえば 「あられ降る鹿島の神に祈りつつすめらみいくさに我は来にしを」 などという,勇ましい防人(サキモリ)の歌しか知らなかった軍国少年にとっては、相当な文化的ショックであった。英語はたしかコンラッドの『Kidnapped』(誘拐されて)という小説の訳読であった。生徒には研究社の英英辞典が与えられていた。当時、世の中では、英米と戦っているのだから英語は敵性語だとして排撃される傾向にあった。時の兵学校長井上成美中将は英語の出来ない海軍士官など考えられないとして、海軍省教育局中枢の英語授業時間短縮の方針に断固反対していた。軍務局長在職当時は米内大臣、山本次官とコンビを組んでドイツ、イタリアとの提携に反対し続けた。昭和19年(1944)、米内大臣に請われて海軍次官として転出し終戦運動に尽力した。

 数学、物理、化学はかなりやらされた。とくに数学や物理は軍事学の基礎になるので特別に力を入れていた。数学では球面三角や公算を、物理では流体力学などを習った。帝国大学の理工学部の水準を目指すものとされていた。入校当初は普通学の比重が高く、卒業が近くなるにつれて軍事学が増える。

一日の日課

 兵学校の一日は夏は5時半、冬は6時、総員起こしのラッパとともに始まる。7時朝食、午前中、2時限の授業、午後1時から1時限、終わって武道、体操などの訓練がある。夕食は5時で6時から自習時間が始まる。9時の自習止めまでの間に15分の自習中休みがある。このときには各自校庭に出て大声で号令練習をおこなう。「出港用意,錨を揚げ」とか「合戦準備、夜戦に備え」とか口々に唱える。この号令は江田島の山々にこだまして、島の人々に一日の終わりを告げる。「巡検用意」の号令で夏は9時半就寝となる。7月1日から8月31日までの酷暑日課中は当直監事の巡検終了後30分間、校庭または生徒館屋上での納涼が許される。冬は10時就寝となるがその後は上に述べた寝言にうつるわけである。土曜日は午前中2時限の授業、午後は自習室、寝室の大掃除、終わって棒倒し。日曜日は江田島の島内に限って外出が許される。生徒は大抵民家に依託した倶楽部に立ち寄り、お菓子や蜜柑に舌鼓を打ち浩然の気を養う。5時帰校、夕食後全校生徒が円陣を作って行進しながら軍歌演習、夜は自習。これで兵学校の1週間の日課が終わる。
 昭和7年(1932)から3年間、兵学校で英語を教えた英人セシル・ブロックは帰国後『江田島』という本を著した。原著は『ETAJIMA-THE DARTMOUTH OF JAPAN-』 という。DARTMOUTH (ダートマス)は英国の海軍兵学校の所在地である。著者はこの中で、たしかに彼らは優秀な若者、素晴らしい青年、国の守りとなるべき日本一の健児たちであると賞讃を惜しまないが同時にあまりの授業科目の多さ、訓練の厳格さに驚きを隠さない。余裕のない生活では自己反省の暇もなく、友人同士のディベートによって人格を陶冶することも期待できない。卒業する頃にはおおむね疲れ果てているのではないかと批判も忘れない。
軍歌演習

 日曜日の夕方、外出から帰ると夕食の後全校生徒2千数百名が校庭に円陣を作って軍歌演習を行う。生徒隊軍歌係の一号生徒の指揮の下、内輪は時計回り、外輪は反時計回りに軍歌を高唱しつつ行進をする。生徒は左手に軍歌帳を持ち、これを高く掲げて行進する。左の写真はその模様を示す。内輪と外輪の間を陣列を離れて歩いているのは週番生徒である。左下方の黒ズボン、白上着の人物は当直監事である。生徒は校内では特別の式典など以外は夏も冬も白地の事業服であるが教官は夏は白い第二種軍装、冬は紺の第一種軍装である。ただし6月中旬から7月初めにかけての梅雨期にはズボンは紺の冬服,上着は白い夏服という特別の服装になる。当直監事の服装から、写真家の真継は昭和17年6月の終わりごろこの写真を写したことがわかる。

 生徒が好んで歌ったのは江田島健児の歌、軍艦マーチ、佐久間艇長、上村かみむら将軍などであった。上村彦之丞中将は日露戦争のとき第二艦隊司令長官として主としてロシアのウラジオ艦隊の制圧を担当した。ウラジオストックを基地とするロシアの艦隊はこの上村艦隊の監視の目をかいくぐり、日本海や東京湾口に出没して通商破壊戦に従事し赫々たる戦果を挙げていた。ウラジオ艦隊が戦果を挙げるたびに日本国民は上村将軍を無能、卑怯とののしった。明治37年(1904)6月、広島を出港して朝鮮半島に向かっていた陸軍の御用船常陸丸は対馬海峡でウラジオ艦隊に撃沈された。乗っていた陸兵千名以上が戦死し、国民の上村将軍に対する非難は頂点に達した。しかし同年8月第二艦隊はついに朝鮮、蔚山(ウルサン)沖でロシア艦隊に遭遇し、そのうちの1艦を撃沈し、他の2艦を大破逃走させた。上村将軍は闘い終わって沈没艦の乗組員を救助したが、これが報道されてわが国に対する世界の評価を高めた。国民の非難に堪え、忍苦数ヶ月、ついに目的を果たした同将軍は兵学校生徒の敬愛する先輩の一人であった。

江田島健児の歌


一.澎湃寄する海原の   大濤砕け散るところ
   常磐の松の翠濃き   秀麗の国秋津洲
   有史悠々数千載     皇謨仰げば彌高し
二.玲瓏聳ゆる東海の   芙蓉の峰を仰ぎては
   神州男子の熱血に   わが胸さらに躍るかな
   ああ光栄の国柱     護らで止まじ身を捨てて
三.古鷹山下水清く     松籟の音冴ゆる時
   明け放れ行く能美島の 影紫にかすむ時
   進取尚武の旗挙げて  送り迎へん四っの年
四.短艇海に浮かべては  鉄腕櫂も撓むかな
   銃剣とりて下り立てば  軍容粛々声もなし
   いざ蓋世の気を負ひて 不抜の意気を鍛はばや
五.見よ西欧に咲き誇る   文化の影に憂いあり
   太平洋を顧みよ     東亜の空に雲暗し
   今にして我勉めずば   護国の任を誰か負ふ
六.嗚呼江田島の健男児  時到りなば雲喚びて
   天翔け行かん蛟龍の  池に潜むにも似たるかな
   斃れて後に止まんとは  我が真心の叫びなれ

上村将軍


一.荒波吠ゆる風の日も   大潮咽ぶ雨の夜も
   對馬の沖を守りつつ   心を砕く人や誰れ
   天運時をかさずして    君幾度かそしられし
   ああ浮薄なる人の声   君睡れりと言わば言え
   夕日の影の沈むとき   星の光の冴ゆるとき
   君海原を打ち眺め     忍ぶ無限の感如何に
二.時しも8月14日      東雲白む波の上
   煤煙薄くたなびきて    遥かに敵の影見えぬ
   勇みに勇める丈夫が   脾肉は躍り骨はなる
   見よやマストの旗の色   湧き立つ血にも似たるかな
   砲声天に轟きて      硝煙空に渦まけば
   あかねさす日も打ち煙り 荒るる潮の音高し
三.蔚山沖の雲晴れて    勝ち誇りたる追撃に
   艦隊勇み帰るとき     身を沈め行くリューリック
   恨みは深き敵なれど   捨てなば死せん彼らなり
   英雄の腸ちぎれけん   救助と君は叫びけり
   おりしも起こる軍楽の   響きと共に長しへに
   高きは君のいさほなり   匂ふは君の誉なり

注:上の2曲のメロディは 「天翔艦隊」より拝借しました。


棒倒し
 兵学校名物棒倒しは毎週土曜日午後、大掃除後、校庭で行われる部対抗の行事である。数個分隊が集まって1部を形成する。われわれの時代は全校で64個分隊があり、これらが8個部に分かれていた。左の写真Aはこれから闘いが始まる緊張した場面である。画面左にトップに旗のついた棒を守って、人間が2層に重なっている。これは防御隊の本隊である。その右手立ち姿の男たちは防御隊の前衛である。背景の生徒館の手前にたむろする大群は攻撃隊である。この写真の右手50メートルの向こうに、敵軍がこれと同じ隊形でわが方を睨んでいる。

 戦闘開始のラッパとともに両軍の攻撃隊は相手の防御陣地に殺到する。急所に対する攻撃以外は殴っても蹴っても自由、もちろん一号生徒、二号生徒、三号生徒の区別はない。右の写真Bは戦闘の状況を示す。上端に旗の付いた棒を早く倒したほうが勝ちである。一方の旗が45度にも傾くと審判官の指示で戦闘止めのラッパが鳴り響いて両軍の攻撃隊はそれぞれの陣地に引き上げる。勝ったほうの部が万歳を唱えて戦闘が終了する。審判官の脇には看護兵が酸素吸入器や簡単な治療用具を用意して待機しているが、鼻血が出たぐらいでは誰もその世話にはならない。棒倒し競技の際、生徒が着ているのは棒倒服と称する専用の服である。 厚手の木綿で出来ていてボタンも襟もなく容易に破れない。




年中行事


厳冬訓練:
 1月上旬、冬期休暇が終わって帰ってくると翌週から厳冬訓練が始まる。因みに冬期休暇は戦局の逼迫により、昭和17年以降中止となった。厳冬訓練は朝5時起床,カンテラを灯しての短艇訓練から始まる。冬季の5時といえば外はまだ真の闇である。闇の中を艇指揮の叱咤の声,櫂の立てる波の音が響く中をカンテラの灯りが縦横に行き交う有様はなかなか幻想的である。しかし三号生徒は必死に漕いでいるので感傷に浸っている余裕などない。硬い艇座のために尻は破れて血まみれとなり、ひどいときにはズボンの表までも染み出してくる。翌日は武道である。かくて短艇訓練と武道を交互に繰り返しつつ2週間の訓練日程を終わる。
兎狩り:
 1月下旬には本土側の地御前(ジゴゼン)の丘陵地帯で兎狩りが行われる。全校生徒2500名に教官を加えた多数が参加して、何と獲物は兎3羽であった。終わると捕獲指揮官の中佐教官から、その昔の源頼朝の富士の裾野の巻き狩りに比べた大袈裟な講評があった。次いで宮島の紅葉谷公園で昼食の後、機動艇で江田島に帰った。この兎狩りに文官の教官はフロックコートにシルクハットという出で立ちで参加していた。思うにこれは英国貴族の狐狩りの模倣であったのだろう。英国との戦争中にこのような悠長な趣味的行事は如何なものかということで、昭和18年(1943)を最後に伝統の兎狩りは中止となった。

乗艦実習:
 兵学校は海軍の学校だから生徒は軍艦生活に馴染むことを求められる。そのため年に数回の乗艦実習が行われる。乗艦実習は日露戦争当時の旧式重巡、磐手,八雲からなる練習艦隊で行う。学年によって実習の内容、期間はことなる。われわれのクラスは卒業直前、練習艦隊で大阪まで行き、大阪から電車で伊勢神宮参拝をした。瀬戸内海航行中は勿論昼夜の別なく訓練が行われる。愛媛県今治沖の来島海峡は潮流の早いことで有名である。最盛期には8ノットの流速がある。鈍足の練習艦隊は青息吐息である。昔、固唾を呑んで通ったこの海峡も、今は来島海峡大橋の上から、高見の見物で俯瞰することができる。香川県の多度津沖を通るときには、海の神様である琴平神社にお賽銭を上げる。醤油樽のあいたものに現金をつめて、「軍艦磐手」 と書いた旗を立てて海に流す。これを拾った漁師は、縁起がいいとしてこれを琴平神社に届けることになっている。昔からの海軍のしきたりである。

 以上はしかし海軍初期の話だという。昭和になってからは、醤油の空き樽を洗い清めたものに 「奉納 一、金拾円也 大日本軍艦金剛」 と墨書した半紙を納め、海水が入らないように鏡をしっかり閉めて、その上に木の角柱を立て、御幣を麻糸で縛って海に流したという。神社側はこれを受け取ると、お礼状と金拾円也の領収書を金剛宛に送ってくる。金剛はそれと引替えに、その金額を郵便為替で送金するという段取りになる。瀬戸内海で流したこの醤油樽が,海流によっては米国西岸まで届くことがあるという。折角の寄進を確実に届けるために、こんな複雑な手続きになったようだ。金額の10円というのは,当時の物価水準から見て相当の額である。金剛は戦艦だから乗組員は2千人ぐらいいる。駆逐艦や海防艦は300人とか170人という規模である。金額も乗組員人数に従って小額になったはずである。(以上は海軍経理学校第22期、岡田貞寛氏が、昭和13年、海軍主計少尉として戦艦金剛に乗っていた当時の話しである。同氏の 『海軍思い出すまま』 から採った)。
 
来島海峡大橋上から見た来島海峡の渦潮 正面は小島 左画面外に来島
平成11年10月26日夕刻写す






宮島遠漕:
 5月にはいると短艇週間が始まり、毎日午後の訓練時間は短艇の漕ぎ方の訓練となる。海軍の短艇は競争用のボートとは異なり、胴体が膨らんでいて容易に転覆しない。救助艇としての役目を持っているから当然のことである。定員は14名であるが45名まで載せることが出来る。そのためになかなかスピードが出ない。艇座は六つあり、その左右に艇員一人づつが座って合計12人で櫂を漕ぐ。艇尾の左舷には艇長が座って舵をとり、右舷には艇指揮が座って全般の指揮をし号令をかけたり、励ましの言葉をかけたりする。艇長、艇指揮は一号生徒である。宮島遠漕は短艇週間の悼尾を飾る重要行事である。分隊間の競争で、優勝分隊のクルーにはメダルが授与されるので各分隊の力の入れようも半端ではない。江田内から宮島までの10マイル(約18キロ)を2時間あまりで漕破する。終わって厳島神社に参拝したり土産物屋を冷やかしたり、写真を撮ったりするのは、この苦しい宮島遠漕のなかの楽しみでもあった。大鳥居に短艇を舫い、一号生徒は鳥居に小便をかけた。大鳥居に小便をすると戦死しないというジンクスがあるという。しかし一号生徒の願いもむなしく大方死んでしまった。上の案内図で山陽本線宮島口駅の前方海上の三点印が厳島神社大鳥居の場所である。

遠泳:
遠泳の終盤、津久茂水道をかわして兵学校へ

 7月1日から酷暑日課が始まる。これから9月上旬酷暑日課の終わるまでは、午後の授業はなく、訓練はすべて水泳である。山国の海なし県から来た生徒の中には泳げないものが少なくない。彼らは赤帽をかぶせられて水泳をいちから始める。赤帽にとっては酷暑日課中は地獄の期間である。私は水泳は得意であったので、兵学校の水泳訓練など訓練の名に値しない遊びの時間であった。時には浮き身でいい気持ちで寝入ってしまい、近くを走る機動艇の波を顔にかぶって跳ね起きるというようなこともあった。 酷暑日課のハイライトは8月中旬の遠泳である。これは級別に分けて行われ、初心者の組は兵学校の対岸の飛渡瀬(ヒトノセ)から学校までの3,4キロを泳ぐ、私のような最上級者は宮島の直ぐ東にある小那沙美島の砂浜の海岸から泳ぎ始める。兵学校までの距離は8マイル(約15キロ)である。上に掲げた案内図のほぼ中央に那沙美島というのがある。この島の北方1キロぐらいのところに島名の記入してない小島がある。これが小那沙美島という無人島である。当日は朝4時起床、機動艇でこの島まで運ばれて日の出と同時に泳ぎ始める。朝飯と昼飯は伴走の通船につかまりながら握り飯と漬物を頬張る。江田島の入口、津久茂水道では途中で潮流が逆になるのでさすがに苦しい。やっと学校までたどり着いたのは午後7時過ぎ、夕闇が迫る頃であった。水上機を引き上げるコンクリートのスロープから上がるのだが、半日以上も平泳ぎを続けたため立てない。いざりながら飲んだ飴湯のおいしかったことも忘れられない。

夏期休暇:
いざ故郷へ(夏期休暇)於小用桟橋
 苦しい訓練と学業に明け暮れる生徒生活にあって休暇は最大の楽しみである。しかし戦局の悪化に伴って兵学校も短縮教程となり、昭和17年(1942)以来冬期休暇は中止となった。7月下旬から8月上旬にかけての10日間の夏期休暇だけは残った。 生徒は家族への土産の江田島羊羹をトランクに詰めて小用峠を越え、船で呉に渡り、呉駅からは上り下りの臨時列車で故郷に向かう。私は当日呉の親戚に一泊して、従兄と繁華街である中通りの映画館に出かけた。「歌う狸御殿」というミュージカル映画と「小太刀を使う女」という時代物を見た。兵学校でも土曜日夕方、参考館の講堂で時々映画が上映された。今も覚えているのは桂小五郎とか近藤勇の出てくる「維新の曲」というのやドイツ映画の「世界に告ぐ」などである。この映画はボーア戦争における英国と英国人の暴虐を告発した宣伝映画であった。劇中、肥満した英国紳士がデラックスなレストランで傍にうずくまる愛犬に分厚いビーフ・ステーキを投げ与える場面があった。貧しい南アフリカの現地人の生活の描写の後だから観客に与える効果も大きい。憎憎しい英国紳士の風貌まで今に忘れがたい。しかし娑婆 (兵学校では一般社会のことを娑婆と称した。娑婆気満々などといって、三号生徒は一号生徒からぶん殴られた) の映画館でリラックスして見る映画はまた格別であった。翌朝郷里の村に帰り、畳の上に寝そべって、昨日までの兵学校に比べあまりの生活の落差に夢を見ているのではないかと思うほどであった。



 休暇で故郷に帰ると近所や親類への挨拶回りのほか母校訪問という欠かせない行事が待っている。陸軍士官学校の生徒も休暇で母校訪問をするが、カーキ色の軍服に牛蒡剣といういでたちである。兵学校生徒は目のさめるように白い麻の夏服に短剣を吊った姿である。両者の人気には格段の差がある。まず在校生たちの好奇と羨望の眼差しの中を教員室に入る。時には講堂で全校生徒を前に講演を求められる。 私の場合、4年生の1学期で中学を中途退学したので、同級生はまだ5年生として在校している。放課後、仲のよかった仲間たちと写真を取り合った、これはその中の一枚である。この夏服のことを海軍では第二種軍装といった。麻製なので直ぐ皺になるのには往生した。

原村演習:
 戦前、今の東広島市に陸軍の広大な演習地があった。所在地の名前から原村演習場といった。兵学校は毎年10月、ここを陸軍から借りて約1週間の陸戦演習を行った。海軍といえども陸戦隊を持っており、場合によっては陸軍と同じ戦闘をしなければならない。さてこそ兵学校でも小銃射撃、銃剣術、匍匐前進など陸軍の真似事をした。しかしこれらの訓練は箱庭のなかのままごとのようなもので、どうしても山野を走り回る実戦に近い訓練が必要とされた。まず陸戦服に身を固めて小銃と機銃(陸軍の機関銃のことを海軍では機銃といった。重機関銃は重機、軽機関銃は軽機である)で武装した全校生徒は広島駅から臨時列車で八本松駅までいき演習場まで行軍をする。そこで毎日さまざまな状況を想定した訓練が行われる。訓練の最終日は原村から呉まで追撃退却戦が行われる。全校生徒を退却組と追撃組の二手に分け、呉までの20数キロを完全武装のままほとんど駆け足で走りぬく。私たちの分隊は退却組に属し、しかも後衛の重機小隊であった。後衛は本隊の退却をスムースにさせる任務を負わされている。時々立ち止まって重機を据え、攻撃軍の先鋒を掃射しなければならない。或いは街道沿いの丘陵の松林の中を重機を銃身と架台に分解して運び、攻撃軍を側射する。道路上を駆け足で敗走するだけで大変なのに,道なき山中を重い重機を担いで走る、その苦しさは言語に絶する。午後3時、焼山の頂上から呉港を見下ろしたときには、やれやれ帰ったかと全身の力が抜けた。因みにこの原村演習場は戦後、一部は陸上自衛隊の演習地として残されたが、一部はゴルフ場となり、日本女子オープンなどがやられている。

弥山(みせん)登山競技:
 弥山は宮島の主峰である。海抜529メートル。この峰の頂上へ向かって、麓の大元公園から駆け上がるのである。分隊競技で分隊員全員のタイムの平均がもっとも少ない分隊が優勝してメダルが授与される。競技の2週間ぐらい前から生徒館の階段を使って脚力を鍛える。熱心な分隊は日曜日外出時、古鷹山(392メートル)に登って実戦的な練習をする。古鷹山は生徒館の写真の背景に見える山で、生徒は折にふれてこの山に登る。弥山登山道の要所要所と頂上ゴールには看護兵が酸素吸入器を用意して万一に備えている。優勝者の記録は19分30秒前後である。 競技は苦しいが頂上から俯瞰する瀬戸内海の眺めは絶景である。小那沙美島、大那沙美島が足下に見え、はるか東方に江田島がかすんでいる。競技が終わると大元公園で昼飯を食べ、機動艇で江田島に帰る。現在はこの山の副峰の頂上までケーブルカーがついているがわれわれが昔駆け上がった主峰に比べると100メートルは低いだろう。
弥山山頂より江田島を望む

写真説明:
 手前右大那沙美島 その上能美島 その上江田島 手前左小那沙美島 その上似ノ島 その上本土の山並み。大那沙美島の下方宮島の小半島の手前に白く見えているのは包ガ浦。昔はカネガ浦と称する兵学校の幕営地であったが、今はツツミガ浦とよんで海水浴場になっている。

卒業

 われわれのクラスは卒業の1年前から艦船班と航空班に二分されそれぞれの職種の専門的な教育を受けた。航空班の半数300名は卒業前数ヶ月前から霞ヶ浦航空隊に派遣されて搭乗員教育を受けた。平時であれば卒業してから2,3年して本人の希望と適性によって専門が決まるのだが,戦局の逼迫はそのような悠長なことを許さないのであった。私は航空適性検査の評価が芳しくなかったので艦船班となった。
 昭和20年(1945)3月、われわれのクラスの卒業式が校庭の千代田艦橋前で挙行された。千代田艦橋というのは日本海海戦の緒戦で、敵艦隊の動静を正確に通報してわが方大勝の端緒となった第三艦隊麾下の一艦、千代田の艦橋である。同艦が老齢化して廃艦になるときにその艦橋を兵学校が譲り受けて校庭に移築し、号令台とか訓辞台として使用してきた。卒業式は本来卒業生の父兄も参列して大講堂で行われるのであるが生徒数が急増して大講堂に収容しきれなくなったのであった。父兄の参列も2年前から禁止されてきた。私の卒業成績は卒業生1024名中の401番であった。
 式後卒業生は生徒館前に堵列する下級生に見送られながら、表桟橋から機動艇で各配置に送られる。機動艇の上で見送りの人垣に帽子を振りながら、果たして今年の年末まで生きておられるだろうかと考えたものであった。

 この写真は昭和20年(1945)3月、卒業の直前に撮影した。これが両親に見せるわが子の最後の姿だなあと思いながら手紙の封をした。2月25日には卒業前の身体検査があった。そのときの諸元は次のとおりであった(カッコ内は現在)。
身  長: 169.5cm(165.0cm)
体  重:  56.0kg ( 60.5kg)
胸  囲:  87.0cm ( 91.0cm)
肺活量: 4100立方糎(4350立方糎)
視  力:
   左 1.5(0.7)
   右 1.5(0.6)
 身長が著しく縮んでいるのが気がかりである。逆に肺活量は増えている。これは現在毎日泳いでいることによるものだろう。事実、生徒の中にも沖縄出身の漁師の倅など8000立方糎もあった。肺活量ついでに付け加えると、男性ソプラノ歌手として著名な岡本知高は13000あると先日テレビでしゃべっていた。
  

航空母艦葛城

伊予灘にて公試運転中の空母葛城

着任

 兵学校卒業式の当日午後、同期生24名とともに呉に停泊中の空母葛城に着任した。人数が多いのはまだ一人前の海軍将校ではなく、少尉候補生として将校教育を受けるためである。各艦では士官室士官の少佐クラスが候補生指導官となる。わが葛城では、砲術長の田崎正三少佐(海兵63期)が候補生指導官に任命された。葛城は満載排水量20,200トンの中型空母で、前年に竣工した新鋭艦である。わが国の大型空母に多いいわゆるアイランド型である。空母は艦上機を搭載して発着艦させる軍艦であるから、飛行甲板は障害物のないフラットであることが望ましい。しかし操艦上、艦隊行動上は艦橋がなるべく高い位置にあることが便利がよい。そこで艦体の前部右舷に塔を立ち上げてその上部に艦橋を置く。遠距離から見るとその塔が島のように見えることからアイランド型の名前がついた。搭載機数は57機といわれていたが、勿論機種によって搭載可能数は変わってくる。搭載機の発着艦のときに出せる最高速力は32ノット (時速約60キロ) であった。その年の3月には硫黄島に米軍が上陸し、4月には沖縄に上陸するという戦局であったから、葛城も竣工はしたもののゆっくり艦上機の発着訓練などする余裕はない。呉沖の三つ子島と称する小島に係留して、網や材木で偽装工事の最中であった。当時は戦艦大和の沖縄への特攻出撃が決まっており、これが成功すれば葛城に噴射推進の特攻機 「桜花」 を積んで後に続くことになっていた。そのために艦内では毎日黎明・薄暮訓練が行われて乗組員の士気は旺盛であった。
 4月6日、大和は第二水雷戦隊の巡洋艦、駆逐艦数隻に護衛されて沖縄を目指して出撃した。しかし翌日午後、九州南方において米機の攻撃により撃沈された。満載排水量72,809トン、46センチ主砲9門を搭載した世界最大最強の戦艦も航空攻撃にはかなわなかった。乗組員3,300人のうち護衛駆逐艦に拾い上げられて生還したものは269人に過ぎなかった。 これより先、徳山を出撃する直前、大和に配属されていたわがクラスの候補生数十名は艦を降ろされた。一緒に連れて行ってくれるよう有賀艦長に嘆願したが許されなかったという。候補生はいまだ教育期間中であるから実戦参加は無理だし又適当でないという艦隊首脳部の判断であった。もし一緒に出撃していたらほとんどの者は生きて帰れなかったろう。
戦艦大和



甲板士官かんぱんしかん(1)

 空母葛城の乗組員は約1、100名であった。乗組員は砲術、通信、航海、内務、機関、医務、主計の7科のいずれかに所属する。私は内務科の分隊士として配属され 甲板士官を拝命した。内務科は艦内の防火防水を担当する。爆弾が当たって火災が起きればこれを消し、魚雷が命中して海水が艦内に侵入すれば、海水侵入区画を局限するなどの仕事をする。葛城は航空母艦であるので揮発性の高い航空ガソリンを積んでいる。防火にはとくに万全の処置が必要となる。分隊士というのは分隊長の下で分隊員を指揮監督する役目である。甲板士官というのは艦内雑務を取り仕切る。たとえば内火艇をダビットから上げ下ろしするときとか甲板掃除のときなどに、下士官兵を集めて適切な指揮命令で仕事のスムースな遂行を図る。役目の性質上、下士官や兵隊さんの生活や心理に通暁していることが要求される。又艦内の構造や設備に対する広い知識も必要である。航海中の航海士、停泊中の甲板士官は青年将校の花形職種とされていた。私は着任当初、航海士であったが、大和の特攻攻撃失敗のため出撃の機会を失ってからは甲板士官となった。甲板士官は又艦内の軍紀風紀の維持をまかされており、長さ4、50センチの甲板棒を手に四六時中艦内を巡視する。だらしない格好の兵隊を叱ったり、危険な行為をやっている者を摘発する。一種の艦内警察のような仕事をする。下士官兵にとってはもっとも煙たい上官であるが一方、もっとも接触の多い上官でもある。

甲板士官(2)

 その年の6月になると沖縄は米軍の手に帰し、いよいよ本土決戦も間じかとなる。徴兵検査で乙種や丙種とされて兵役を免れていた人たちも召集され、葛城にも新兵として乗艦してきた。年齢は30代半ばを過ぎ中には私の父親ぐらいの見かけのものもいる。彼らは一応海兵団で数ヶ月の教育を受けてやってきたのであるが、要員というよりも足手纏といったほうがよい。しかし彼ら新兵は娑婆でB29の空襲の洗礼を受けている。自宅が焼けないまでも東京、大阪など大都市が空襲で廃墟と化したのを見たり聞いたりしている。必勝の信念や倒れて後やむという抽象的な観念などは持っていない。ある日、午後3時、煙草盆出せの休憩時間に、いつものとおり艦内巡視をして、中甲板休憩所付近を通った。煙草を吸いながら雑談をしている新兵の群れのなかから誰かが 「分隊士!」 と大声で呼び止める。内務分隊の私の部下であった。およそ兵隊が艦内で士官に、自分で声をかけるなどそれまでの海軍では考えられないことであった。とくに相手は怖い甲板士官である。私 「何か?」、新兵 「分隊士はこの戦争に日本が勝つと思いますか?」。私は予想もしない質問にぐっと詰まる。余計なことを考えないで隊務に一生懸命励めと一喝してもよかったのだが、相手の新兵のあまりになれなれしい態度につい釣り込まれる。私 「戦争の行くへは勝ち負けだけでは決まらない。本土決戦で米軍に大損害を与えれば引き分けということもある。われわれのこれからの頑張りにかかっている」。 何とかその場を誤魔化したが、これらの新兵はこれまでの海軍にはいない全く新しい兵隊であることを感じた。

空襲

 7月24日、28日の2日にわたって土佐沖の米機動部隊から飛び立った艦上機は呉軍港を襲った。その頃はすでに戦争も末期で、米艦隊は本土周辺を自由に遊弋して艦砲射撃も艦上機の発進も思いのままであった。葛城には米戦闘爆撃機の反跳弾が命中し、飛行機格納庫内で爆発したため飛行甲板が約25メートル幅でひっくり返ってしまった。反跳弾というのは一旦海中に落ちると海面の表面張力と爆弾自体の速力で再び跳び上がり、目標物に命中するという特殊爆弾である。航空母艦のように飛行甲板が艦体より出っぱっている目標に対して有効であるとされる。この反跳弾の爆発のため20数名の戦死者が出た。艦橋で防火や注排水の指揮に当たっていた副長の泉福次郎大佐(50期)も弾片を胸に受けて即死した。この両日の艦上機の空襲で呉港に在泊していた戦艦伊勢、日向などの艦艇はいずれも沈没・座礁など大被害を受けた。あまりの戦死者の多さに呉の火葬場が間に合わないため、三つ子島の海岸に穴を掘り、棺桶を並べて重油をかけ荼毘に付した。

 この反跳弾は私の受け持ち区域である前部格納庫で爆発した。その時私は格納庫と前部通路を仕切る隔壁の通路側に隔壁を背にして,床机(ショウギ)に腰をかけてゲートルを巻いていた。私の頭の上には葛城神社が祭ってある。大和の葛城神社からお守りをいただいてきて、家庭用の神棚に納めて、これを隔壁の上部にビスで固定した簡単なものである。しかし私は何となく神様のご利益(ゴリヤク)があるような気がして戦闘の場合の私の定位置としていた。足元には分隊士付の白水一等兵曹が匍匐の姿勢で、頭だけ私のほうを向けてしきりに低い姿勢になるように注意してくれていた。この白水兵曹は実戦経験のない私のために戦闘中とくにつけられた補佐役であった。突然、大音響とともにあたりが真っ白くなり、私は気を失った。「分隊士!分隊士!」 と呼びかける部下の声を夢うつつの中のように聞いて目が覚めると、身体の上には隔壁の鋼鈑や部屋仕切りの板などが積み重なっていて身動きできない。やっとそれらのものが取り除かれて自由の身となる。頭部の裂傷からしきりに血が滴り落ちて目に入るので、かねて用意の手拭で鉢巻をした。このとき 「艦長室火災」 と怒鳴る部下の声に我に返って、扉の吹き飛ばされた艦長室の室内を見ると、もうもうたる白煙の中に赤い炎が見える。たちまちホースが延ばされ、二つの筒口から高圧の海水が艦長室めがけて噴出する。艦長室の火災を消しとめ、爆発の後始末をするとその下から白水兵曹の死体が発見された。彼はデッキの上に腹這いの姿勢であったが、爆風で吹き飛ばされて、下甲板からの通路口に当たるハッチコーミングに頭をぶっつけて即死の状態であった。高い姿勢で危険なはずの私は生き残り、低い姿勢で安全なはずの彼は死んだ。戦場の生と死はまさに皮膜の間にあった。

 闘い終わって、内務科のヴェテラン下士官と火災現場の艦長室を点検した。鋼製のベッドや衣服箪笥はへ し曲がり、中の第二種軍装、短剣、靴などは原形をとどめないほどに濡れそぼち、室内に散乱して目も当てられない。火災の痕跡は何処にもなく、結局、ベッドに吊ってあったピンクの蚊帳に、枕もとの電気スタンドの光線が反映して炎のように見えたことが判明した。新米少尉の誤判断によってひと財産を失った艦長の宮嵜俊男大佐(48期)は翌日、内火艇を仕立てて呉水交社に赴き、身の回り品一切を調達せねばならなかった。

終戦

 8月6日には広島に原子爆弾が落とされた。午前8時過ぎ私は中甲板で20数名の分隊員を指揮して防火訓練を行っていた。一瞬閃光が走った。直ぐに訓練を中止し飛行甲板に出てみると広島のあたりにきのこ雲が盛り上がってきた。火薬庫の爆発とは様相が違うので、情報収集のため公用使が呉鎮守府と広島に出された。結局新型爆弾ということが判明したのは深夜であった。
 これより先、7月1日深夜、B29の爆撃で呉市と、戦艦大和を建造した呉工廠は廃墟と化した。海軍部内では最下級将校 (7月15日で海軍少尉に任官していた) であった私たちにも戦争はいよいよ最終段階に差し掛かっていることがひしひしと感じられた。

 8月15日の朝、艦内放送で、正午に天皇陛下の放送があるから服装を正して拝聴するようにとの当直将校の達しがあった。士官室で聞いたのかガンルーム (士官次室ともいった。青年士官の公室である) で聞いたのか今となっては思い出せない。抑揚のある特殊な語り口であることはわかったが雑音がひどくて内容はさっぱりわからなかった。このなかでわずかに「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び・・」という言葉は聞き取れた。これは本土決戦を前にして国民の奮起を求める放送であるとするのが艦内多数の意見であった。ところが短波放送を傍受している通信科筋からは日本は降伏したのだという説も流れた。そういえばこの2、3日、B29の空襲も米艦上機の来襲もなかった。艦内の不安はひどくなるばかりであった。これもしかし呉鎮守府を訪れた艦長が長官じきじきに降伏したことを知らされてその夜のうちに疑問は氷解した。ただこれからどうなるのかということは艦長以下誰にもわからず、艦内の不安は高まった。。それから2、3日後、葛城の近くの海面に米軍の小型飛行艇が着水した。中から出てきた人物は映写機らしきものでしきりに葛城を写している。降伏したとはいえいまだ米軍に対する激しい敵意が存在するはずの敵軍港に、無武装の飛行艇でよくやってきたなと感心した。そのうちに砲術科の1下士官が軍刀片手にボート桟橋に向かっていくのが見えた。その後から数名の下士官が追いすがって彼を取り押さえた。にっくき米軍に大和魂を見せてやるつもりであったとその下士官は後で語ったという。そういう小トラブルはあったが、葛城の終戦処理はおおむね順調に推移した。8月の末には艦内に備蓄していた物資、米や缶詰、被服などを呉市役所に引き渡した。又下士官兵のうちの希望者は復員させた。私は副長代理の先任将校と交渉して、通船と97式受信機という高性能のラジオを貰いうけ、残務整理が一段落したところで通船を漕いで故郷の村に帰ることにしていた。途中で3、4泊もすれば村に着くはずであった。当時はこういう下級将校の無鉄砲な願いも容認されるような海軍部内の雰囲気であった。

 戦争が終わったので海外にいる日本人数百万人は軍人といはず、民間人といはず日本に連れ戻さなければならない。私たち艦艇乗り組みの青年士官は復員が許可されず、この海外日本人の復員事業に従事することとされた。葛城はスクラップにされることが決まったので私は9月15日、巡洋艦八雲に転勤することになった。これで 「私の大東亜戦争」 は終わった。後に葛城は当初のスクラップ予定が中止となり復員輸送に従事した。飛行甲板と格納庫に蚕棚を作って一度に数千人の引揚者を運んだという。

 

松村清行

兵学校志望の動機

松村清行 昭和18年5月 17歳
 松村清行は長崎の産である。長崎中学の四年生から昭和17年(1942)12月、海軍兵学校に入校した。私と同期、すなわち第七四期生であった。私たちは同じ分隊(第五六分隊)に配属された。わが分隊は一号生徒10名、二号生徒14名、三号生徒16名、 合計40名で構成されていた。分隊生活は学校当局の決めた日課表の中で、一号生徒の指導する自治によって運営されていた。分隊員は自習室、寝室を同じくし、食卓もまた同じであった。こんなこともあった。入校して間もなく、西も東もわからない三号生徒はよくヘマをする。そうすると連帯責任である。一列に並んで一号生徒の修正を受ける。修正とは鉄拳制裁の美称である。皆意気消沈してベッドに入ると、対番の二号生徒が巡検後,そっと起きだしてきて、毛布を肩に掛かるように直してくれる。三号生徒はベッドの中で涙を流すのであった。対番というのは三号生徒を個人的に面倒を見る上級生のことで、一号、二号生徒はそれぞれ1ないし2名の三号生徒を受け持って生活指導をする。勿論、学業、訓練は文武の教官と教官を補佐する専門の下士官が当たった。

 松村は中学四年終了で入ってきており、それに小柄であったので、何となく痛々しい感じを受けたものだ。細胞学の権威、岡田善雄氏は, われわれより1年後に入校したのであるが同じく四年終了組みであった。新聞紙上の随筆で、当時を回顧して 「いろんなことに、やっとついていった」 と述懐している。実際、この年代の少年の体格の伸びは著しく、1年違うと兄と弟ほど違う。私も四年終了であったが、高等科一年をやってきただけに、松村との体格の差は大きかった。

 彼は本来文科系統の人間であった。叔父二人がそれぞれ海陸の将校であったため、彼らの影響を受けて兵学校に志したものであったろう。叔父のうち弟のほうは、陸軍士官学校を卒業してパイロットとなったものの昭和16年(1941)、陸軍の仏印(現在のベトナム)進駐の際、乗機が山腹に衝突して殉職した。上の叔父は兵学校第六三期で、航空に進み、大東亜戦争開戦時は、航空母艦 飛龍 乗組みの九七艦攻のパイロットであった。松村平太(ヒラタ)といった。 艦攻とは艦上攻撃機の略称である。雷撃、爆撃、偵察何でもござれの三人乗りの大型艦上機である。雷撃機と俗称された。真珠湾攻撃では戦艦ウェスト・バージニアに魚雷を命中させたという。この叔父の実戦譚が松村に海兵受験を決意させた最後の引き金であった。というのは彼は進路の選定に当たって、高等学校の文科系に行くことにこだわっていたのであった。余談であるがこの叔父は先年亡くなられた。

江田島生活あれこれ

    生徒は夏は5時半、冬は6時、起床ラッパとともに飛び起きて毛布を一枚づつたたみ、ベッドの一端に整然と重ねる。寝間着を事業服に着替えた後、駆け足で自習室を飛び出して洗面所に急ぐ。起床ラッパが鳴ってから寝室を飛び出すまでの標準所要時間は2分30秒である。これを超過すると監視の一号生徒から怒鳴られる。急ぐあまり毛布の重ね方が悪いと後から巡視する週番生徒に毛布を崩される。毛布を崩されたものは自習中休みに週番生徒室に集まれとお達しがある。ここでたいてい2、3発殴られる。洗面後は練兵場で、分隊ごとに海軍体操を一号生徒の号令のもとで行う。夏冬とも上半身は裸である。

課業行進 課業整列
西生徒館の前をラッパに合わせて講堂へ 東西両生徒館に面して整列

(写真は真継不二夫氏撮影)



 午前8時に生徒館前の練兵場に教班ごとに整列して、講堂まで行進する。10分位はかかったであろうか。足を高く上げる、いわゆる歩調は取らないが、「早足行進ラッパ」   に合わせて歩くのは、背の低いものにとってはかなりの負担である。彼は自分史の中で海兵受験の身体検査では制限身長すれすれで合格したと書いている。松村は受験当時16歳であった。16歳の制限身長は149センチである。私は17歳で制限身長は 152センチ、実際には165センチあったので身長を心配することはなかった。生徒が左小脇に抱えているのは教科書や学用品を入れたバッグである。なまってべグと称した。左上腕に2本の赤線の入った腕章をつけているのは週番生徒である。病気や怪我で訓練を免除されたものは左上腕に緑色の腕章をつける。これを青マークと称した。 非行があって懲罰を喰らったものは、懲罰期間終了まで帽子の日覆いを外させられる。これらの、一般生徒と服装の異なるものは行進では何時も最後尾につく。余談であるが日曜、祝祭日に午後5時の帰校時間に遅れたものは,退校という最も厳しい処分を受ける。退校のことを生徒は免生または免生徒といっておそれた。

 このほか分隊に割り当てられた短艇の整備、自習室、寝室の掃除その他雑務はすべて三号生徒の仕事である。これらの雑務を総称して隊務といった。三号生徒は学課や訓練が終わっても隊務のためユックリ休息する暇はなかった。

海軍兵学校の「寝言」

 海軍兵学校では午後6時から9時または9時半までが自習時間である。夏は10時、冬は9時半に 「巡検ラッパ」 が吹奏される。生徒が毛布にくるまって寝た頃、当直監事が週番生徒を従えて各寝室を巡回して、異状がないかを確認して回る。巡検の一行が寝室を出ると、待ちかねたように一号生徒(最上級生徒)の誰かが三号生徒(最下級生徒)に語りかけてくる。昼間は命令口調か叱責口調の一号生徒が、このときばかりは、仲間同士のような、あるいは頼もしい兄貴のような砕けた調子で話しかける。7月から9月までの酷暑日課中は当直監事の巡検後30分間、納涼が許される。場所は生徒館屋上、中庭および練兵場である。30分経過すると「納涼ヤメ」のラッパとともに皆寝室に帰ってベッドに入る。「寝言」 はそれから始まる。

 以下は私の同期、同分隊の三号生徒であった松村清行が彼の自分史 『私説十九年』 に書いた、ある夜の 「寝言」 の場面である。

 ”――― 江田湾の真夏の夜はベタ凪となる。
 生徒館は海岸に在るが 矢張りいずこも同じ寝苦しい。
 八月になると 巡検終了後 「納涼」 が許され 白い寝衣のままで屋上や練兵場を散歩することができる。
 「面倒臭い」
 と不精者は例え暑く とも其のまま寝てしまうが 一号生徒など納涼の時には昼間の専制君主とは違って 砕けた世間話や 怪談のひとくさりなどモノしてくれるので 心和むひと時となるのだった。
 30分で 「納涼ヤメ」 の喇叭とともに またベッドへ潜り込むのであるが 或る日ベッドの中から松山一号生徒が声をかけた。
 「三号ッ 納涼の感想はどうだ ――― 」
 「 ―― ?」
 みんな黙って様子を窺っている。
 未だ眠りに付いた者はいないよう。
 「納涼の感想を俳句に作ってみろッ」
 松山生徒。
 「 ―― !」
 「三号ッ 谷から始める。谷ッ!」
 窓外はとっくに夜の帳は降り 波の音は聞こえない。
 「谷ィ ―― 」
 「ハッ ―― 」
 寝たまま暗闇から答える。
 皆 難しいことになったナ 弱ったナ と考え込んでいる様子。
 ―― 暫くして
 「出来たかァ?」
 と催促の声。
 「ハイッ 出来ましたッ」
 「ホホゥ ヨーシ やってみろ」
 谷はユックリ俳句らしい抑揚をつけて 詠んだ。
 「納涼や 夜空に輝く星のかず」
 「ン 一般的だが マァ最初としてはヨロシイ」
 「次ぎッ!」
 「 ―― 」
 「次は誰ダ?」
 「奥村でアリマス」
 「奥村か 貴様やってみろ」
 「ハイ エート ―― 」
 「エートは要らんッ ヨケイなこと言うナ カカレィ」
 「ハイッ 江田内の 風なき夜の 暑さかな」
 「何だか聞いたことのあるような文句だナ  マァいいだろう  マッタク暑いナ  ヨーシ次ぎッ」
 「納涼の 夜空に思う 前線を」
 「―― ナルホド 最前線の将兵に思いを馳せようというわけか。今のは誰だ?」
 「岡島であります」
 「岡島か ヨロシイ」
 「三号ッ みんな仲々うまいじゃァないか」
 ほかの一号が混ぜっ返す。
 「ヨーシ 次ぎッ」
 「 ―― 」
 ――― 沈思黙考 数秒経過。
 「次は誰だァ 返事をしろィ 先任順だ。 眠ったのかァ?」
 「 ―― ハィ」
 「ハィじゃァわからん 誰だッ 姓名申告」
 「ハィッ 坂口富夫」
 「坂口か やってみろ 出来んのかァ?」
 「ハァ ―― 」
 「早くしろゥ こういうのは即興でサッサとやるんだ 自分の感想を素直に出せばいいんだ」
 「ハィ」
 「 ―― 出来たか?」
 「納涼は ―― 」
 「納涼がそれからどうしたィ 早くしろゥ」
 「納涼は ―― マダやらんから ―― ワカラナイ」
 「 ―― ナニィ?」
 「納涼は まだやらんから 分からない」
 句になるように 調子をつけて唱えあげた。
 「ナニーィ ―― ???」
 ―― 暗い中でかみ殺していた笑いを 誰かがプット噴き出した。
 同時にあちこちからゲラゲラ哄笑が沸き 静寂だった寝室が一時 賑やかになる。
 そういえば 坂口はいつも納涼には出ないで サッサと眠ってしまう方だったのである。
 俳句を命じられて 坂口は夜具の中で進退谷まっていた。
 そして窮余の一策 ―― 。
 「坂口ッ 貴様は納涼に出たことァ無いのか?」
 「ハィ 一度もないのであります」
 「ナンヤ 無風流な奴やナ そんならそうと早く言え」
 「だから そう言ったんだよナァ 坂口」
 ほかの一号が弁護してくれる。
 松山生徒は苦笑しながら
 「今夜の俳句は坂口の川柳を以て最優秀とする。 もういい。 おしまい。 皆モウ寝ろゥ」”
 厳しい戒律だらけの毎日の中で こんな弾みで感情の交流が芽生えていった。諧謔居士坂口は戦後東大法学部を出 川崎汽船に入社 外国で活躍した。

 文才豊な松村の筆で、昭和18年(1943)8月のある夜、西生徒館3階の第五六分隊寝室の状況が活写されている。松村は、多分、自分史が公表されることを慮ってか、登場する人物はすべて仮名である。実名にすれば次のようになる。

  松山一号生徒     岩本修
  谷三号生徒       中野慶治
  奥村           山田勉
  岡嶋           池末時夫
  坂口富夫        岡野幸郎

 松山一号生徒こと岩本修は東京の日本中学出身である。当時のわが国にはテレビは勿論なく、ラジオの普及も十分ではなかった。我が家にラジオが入ったのは昭和16年、大東亜戦争の始まる直前であった。こういうマスコミュニケーションの状況では、都市部と地方の文化格差は大きくならざるをえない。東京出身者は田舎中学出身者に比べて、何となく文化の雰囲気を見につけていた。「寝言」 で三号生徒に俳句を作らせるという発想は、東京出身者ならではのものであった。

 私は、私より前の三人が岩本生徒と応答している間、気が気ではなかった。 五・七・五の文句が頭に浮かばないのだ。やっと私の前の池末の順番になって、「納涼は まだやらんから わからない」 を思いついたものの、これが岩本生徒の期待にこたえるものでないことは言うまでもない。「何だそれは! 一号がやさしくすれば付け上がって娑婆気を出す。もうすぐ二号になろうというのに、いまだにそんなことでは、兵学校の将来が思いやられる。草履を履いて廊下に出ろ!」 そこで二、三発殴られるのではなかろうか。清水の舞台から飛び降りるというのは大袈裟だが、私としてはおっかなびっくりであった。切羽詰ってひねり出した一句が、上々の首尾であったことに安堵して、 私はすぐ寝入ったに違いない。私の句は川柳といっても、単なる日常会話の一片にすぎない。わざわざ記憶する努力をしなくても、覚えられる。事件があってから何十年もたって、自分史を書く 時点で松村はこれを思い出した。聞いている者にとっても強烈な印象があったのだろう。

 正岡子規の母堂にこういうエピソードがある。或る年の彼岸の入りに、子規が寒い寒いとこぼしたのであろうか。母堂が 「毎年よ 彼岸の入りに寒いのは」 と語ったという。その母堂の言葉が、たくまずして五・七・五の俳句になっていることに子規は感心している。もうひとつ例を挙げよう。東京都と神奈川県の境界線をなして流れる多摩川の、東京側の土手に、戦前は次のような制札が立てられていた。

     この土手に上るべからず 警視庁

 これもまた五・七・五である。私は昭和23年(1948)4月に上京したのであるが、その頃もまだこの立て札がのこっていたような気がする。日本語の会話用語、法律用語、官庁用語などのなかには俳句調、和歌調が随所にみられる。今から千数百年前の奈良時代、労働歌、祝祭歌として歌われていた歌謡の歌詞と韻律は、もとは日常会話の一部であったのであろう。それが次第にかたちをなして、あるいは人為的に形作られて、五・七・五・七・七 となったのが、和歌の起源ではあるまいか。俳句の淵源は勿論和歌である。 こんなことを昭和18年の兵学校生徒時代、考えたわけではない。 当夜の 「寝言」 のことなどすっかり忘れていた。 この松村の自分史によって、60数年ぶりに思い出させてもらったのであった。

陸奥爆沈

短艇ダビット

 昭和18年(1943)6月8日、正午過ぎ、週末に行われる短艇点検に備えて、われわれ三号生徒は昼食もそこそこに、校域の西端にあるポンドに浮かべた受け持ち短艇の整備をやっていた。短艇は普通、海岸のダビットに吊るしておくのであるが、短艇点検にそなえた整備のため、あらかじめポンドに回航してある。短艇には12本の櫂の外いろいろな用具が付いている。軍艦旗、同支柱、アカ汲み(艇内に溜まる海水を汲み出す手桶のこと)、ホーサー類、爪竿、錨、帆走用具、羅針儀、カンテラなどなど一週間ぐらいの航海に支障のないような道具が付属している。これらの用具のすべてが何時も短艇内に置いてあるわけではない。櫂、舵、舵柄などが常備されていることは勿論だが、帆走用具などはその都度倉庫から持ち出すわけだ。短艇本体とともに、これらの道具が完全な状態で整備してあるかどうかを、分隊監事がチェックするのが、年2回行われる短艇点検の目的である。

 二号生徒の短艇係補佐の指揮の下で,櫂の櫂座に当たる部分のスパニヤン(油を染ませて強靭にした麻紐)を巻きなおす作業に取り掛かり始めた途端、南々西方向、西能美島(ニシノミジマ)の真道山(シンドウヤマ)の遥か彼方にあたって爆発音が起こった。スワ火薬庫の爆発か。三号生徒の石井健二が高瀬短艇係補佐に 「何ごとか様子を聞いてきます」 とことわって、生徒館のほうに駆けていった。われわれ三号生徒は、一号生徒からも教官からも、周囲に異状の気配があった場合,当直であろうと非番であろうと、直ちに原因を調べて対策を講ずるのが兵科将校の務めだと耳にたこのできるほど教え込まれてきた。今まさにその状況が現れたのだ。上の写真の右上方に水平になっている2本の砲身は、戦艦陸奥の改装前の40サンチ主砲である。写真は『海軍兵学校出身者名簿 別冊』から借用した。

戦艦 陸奥
 この爆発音は柱島はしらじま泊地に碇泊していた戦艦陸奥の火薬庫の爆発によるものであった。艦体は、爆発した第三砲塔(40サンチ主砲二連装砲塔)直下の弾火薬庫から艦尾にかけて砕け散り、一瞬にして沈んだ。しばらくの間、艦首部分が水面上に顔を出していたという。陸奥は基準排水量 39,050トン、垂線間長 221メートル、最大幅 34メートル、吃水 9.49メートル 、16インチ砲 (口径40サンチ) 8門、 速力26.7ノット,戦艦大和・武蔵が出来上がるまでは世界最強最速の戦艦であった。同型艦の長門とともに日本海軍の象徴とされた軍艦であった。事件は直ちに軍機事項とされた。軍機とは海軍の最高機密である。兵学校の生徒が知りうるはずはない。当直教員室に様子を聞きに行った石井三号生徒はむなしく帰ってきた。陸奥乗組員のうち生き残ったものは呉沖の三ッ子島に隔離された。三ッ子島には沈没艦船の乗組員を収容する設備があった。秘密保持が主目的であったが、怪我人を治療する病院の施設もあった。憲兵と警察が総動員されて、事件を知った周囲の島々の人々に厳重な緘口令が布かれた。私がこの事件を知ったのは兵学校卒業後のことであった。上の写真は福井静夫著『写真集 日本の軍艦』(株式会社ベストセラーズ)から借用した。陸奥は日本海軍を象徴する戦艦であったが真横から撮った美麗な写真がない。この写真は爆発のあった第三砲塔がはっきり見えるので借用した。

   柱島泊地というのは広島湾の南端に位置する屋代島とその北方7キロメートルの柱島との間にはさまれた海域を言う。 私たちが爆発音を聞いた場所からわずかに直線距離で25キロメートルほどしか離れていない(右の地図参照)。機動艇で行けば3時間ばかりの航程である。島々に囲まれていて周囲からの視認の困難な場所である。水深は40~50メートルと大艦の錨泊に適している。当時陸奥は旗艦ブイに繋留していた。このブイには海軍省との間の直通電話も付いていた。東西に細長い屋代島(やしろじま)は広島湾と伊予灘を画している。この島の安下庄(あげのしょう)の南方の伊予灘は瀬戸内海で数少ない聯合艦隊の演習地であった。私たちは兵学校時代、ここに停泊する重巡利根で乗艦実習をやった。日頃乗りなれている練習艦隊の磐手、八雲などの旧式巡洋艦と違って、最近の海戦に参加した新鋭艦ということで、ことさらに緊張したものであった。

 平成5年(1993)3月21日、私は広島県廿日市市(はつかいちし)対厳山 (旧大野町。 厳島の対岸) に住む甥の 戸田泰隆親子の案内で、屋代島の陸奥記念館を訪れた。江田島の海上自衛隊幹部候補生学校の卒業式に、来賓として参列した帰途であった。戦争中、屋代島と呼んでいた島は今では大島となっており、本土との間は大島大橋で繋がっていた。記念館には沈没した陸奥から引き上げられたさまざまの物が無秩序に並べられていた。管理する人は誰もおらず、スピーカーからはテープの浪花節が絶え間なく流れていた。内容はこの記念館を建設した地元の有力者の功績を顕彰するものであった。屋外には引き上げられた陸奥の12.7サンチ高角砲が据えつけられていた。広々とした海景のなかにあっては、それは人差し指を立てたほどにも見えず、記念館の内容・外観にふさわしい小さな置物であった。

 下の写真は記念館高地を切り開いて作った公園から眺めた柱島泊地である。柱島はここから海上7キロメートル、まさに指呼の間である。丁度50年前6月8日の正午過ぎ濃霧の中、ここで1、121名の海軍軍人が一瞬にして命を落としたのである。この死者の中には当日見学のために陸奥を訪れていた飛行予科練習生139名が含まれている。まったく不運というほかはない。桜花爛漫、風も波もなくおだやかな春の瀬戸内海のたたずまいのなかでは、到底想像もできない惨劇であった。

 生存者は353名であったが、これら幸運な人々にも過酷な運命が待っていた。M査問委員会が爆沈の原因を解明した直後の昭和18年(1943)8月、彼らは戦艦長門、扶桑に収容されて、カロリン諸島の主島トラック島の第41警備隊に送られた。内地出撃に当たって 「お前たちは二度と内地の土を踏めると思うな」 といわれたという。陸奥爆沈の事実を秘匿するために海軍当局が取った苦肉の策であった。 やがて彼らはマーシャル諸島、ギルバート諸島、マリアナ諸島の島々の警備隊に配属された。これらの島々の多くは米軍上陸によって玉砕してしまったので、終戦で無事に内地に帰ったものは60名位であった。吉村昭の 『陸奥爆沈』(新潮社)によると、M査問委員会は、あらゆる角度から調査を行ったが、決定的な原因を突き止めることができなかった。そこに一下士官の不審な行動が明らかになったのである。報告書は爆発の原因について、「爆発ハ人為的ナモノデナイトイウ確証ノナイ以上ハ、人為的ナモノトイイ得ルガ・・・・」 と歯切れの悪いものになっているという。吉村は、盗癖のある砲術科の一下士官が、逮捕されて軍法会議にかけられることを恐れて、勝手知った火薬庫に忍び込み、装薬缶に火をつけて,艦諸共自殺を図った可能性があると示唆している。(この「陸奥爆沈」の項の、最後のパラグラフのエピソードは、吉村昭の『陸奥爆沈』によった)。

 陸奥爆沈の三日前、6月5日には先の聯合艦隊司令長官山本元帥の国葬があったばかりである。山本長官はこの年、4月18日、前線視察に赴く 途中,乗機の 一式陸上攻撃機がブーゲンビル島上空で米機に撃墜され、戦死したのであった。日本海軍は、生ける象徴、山本聯合艦隊司令長官と攻める象徴、戦艦陸奥を、わずか二ヶ月足らずの間にともに失ったのであった。 海軍首脳部は戦争の前途に対し、不吉な予感を持ったに違いない。
陸奥公園から柱島を望む

分隊編成替え

 海軍兵学校は長いあいだ四年制を続けてきた。採用人員も昭和に入ってからは毎年百数十名であった。 ところが、支那事変(昭和12年‐1937‐勃発)の進展とともに青年将校が不足するようになる。この傾向は大東亜戦争の開始とともにさらに深刻になる。そこで兵学校生徒の増員が図られる。 第六九期(昭和13年‐1938‐入校)の採用人員350人が450人になり、600人になり、650人になり、900人となり、わが第七四期では遂に千人に達した。前年の採用人員350人が、一挙に600人になった第七一期(昭和14年入校)などは、入校後、一号生徒から 「貴様たちは大量生産・粗製濫造のクズだ」 と難癖をつけられて、たびたび殴られたと戦後のクラス会誌でコボしている。

 採用人員を増やすとともに就学年数の短縮が図られた。 われわれの一号生徒であった第七二期は本来、昭和18年(1943)11月に卒業のところ、2ヶ月繰り上げて9月15日に卒業していった。一期上の第七三期では7ヶ月繰り上げて、昭和19年(1944)3月卒業、われわれの期も同じく7ヶ月繰り上げの昭和20年(1945)3月卒業であった。一号生徒卒業後の進級時には、各分隊の各学年の構成員が一新される。これを分隊編成替えといった。昭和18年の分隊編成替えで私は珍しく松村と同じ分隊に割り当てられた。三号生徒時代の一年間を一緒にすごし、また二号生徒時代も一緒になったのだ。わずか2年数ヶ月の兵学校生活のうち、2年間を同じ自習室・寝室で暮らすというのは珍しいことであった。

 昭和19年9月15日、われわれ同期生が第三学年になる新しい分隊編成が発表された。ここで私と松村は入校以来始めて、袂を分かつことになった。松村は本校にとどまり、私は10月1日に開校される大原分校に行くことになった。大原分校は江田島島内であるが、本校からは北に2キロの距離がある。ここに山を削り、畑をならし、海を埋めて、4千人の生徒を収容できる施設を作るという。われわれのひとつ下のクラスから、毎年の採用人員は3千5百人規模になったのである。 開校日の10月1日には、未だ半分の2千人しか収容できない。松村と私は手分けして、三号時代同分隊であったクラスメートに檄を飛ばして、記念写真を撮ることを企てた。結局、集まったのは言いだしっぺのわれわれ2名のほかは、味方(アジカタ)正治と田阪澄夫の合計4名に過ぎなかった。右の写真の場所は生徒館の中庭である。前列向かって左、私、右、味方、後列左、松村、右、田阪。服装は白地の事業服、生徒は生徒館内では夏冬ともこの格好である。ただし、夕食後は第一種軍装(紺)に着替える。 右胸にはネームプレートをつけている。一号は黒ぶち、二号は凹型半黒ぶち、三号はふちなしという区別があった。この写真の4名は勿論皆黒ぶちである。 三号時代のおどおどとして頼りない容姿・態度は一掃され、精悍な一号生徒の貫禄が付いている。 この写真の味方は翌年卒業後は松村と同じ回天に配属される。 戦後日本航空に入り、昭和50年(1975)ジャカルタ勤務中、客死した。 松村は戦後は大日本インキ化学工業に入り、専務取締役まで栄進したが平成10年(1998)肺繊維症で亡くなった。田阪は郷里の広島県大崎下島の御手洗(ミタライ)で歯科医院を開業、平成12年(2000)大腸癌で亡くなった。歌人の河野愛子に次の歌がある。

  君は死に君も死に君も死にゆきて二月くれぐれに声ぞ聞こゆる

 私は河野愛子のように、二月の日の暮れ方にいつも君たちの声を聞くことはない。ただ昔のアルバムをめくるたびに、江田島で、汗と涙を流した戦いの日々を、懐かしく思い出すのである。

人間魚雷回天

 人間が魚雷のなかに入って、潜望鏡で目標を確かめつつブッつかるというのが特攻兵器、回天であった。はじめて実戦に使用されたのは昭和19年(1944)11 月、マリアナ諸島のウルシー泊地に碇泊する米艦船に対してであった。海軍はもともと自殺兵器の採用は認めていなかった。開戦劈頭、真珠湾を攻撃した二人乗りの特殊潜航艇も最初は採用を拒否された。攻撃終了後、港外の所定の場所で待つ親潜水艦に収容する段取りをつけてから、兵器として採用された。乗組員は勿論のこと、これを許可した海軍首脳部も、攻撃終了後無事、搭乗員を収容できると思ったものはいない。これは自殺兵器ではないという気休めのための段取りにすぎなかった。回天に至っては、自殺兵器そのものであって、気休めの段取りなどの入り込む余地は一切ない。攻撃に成功すれば操縦者は敵艦とともに砕け散るのである。失敗すれば自爆装置のスイッチを押すことになっていた。相次ぐ敗戦で再起不能に陥った聯合艦隊は、搭乗員の安全を顧慮する余裕を失っていた。飛行機による特攻が始まったのがこの年の10月25日であった。


   上図で下部ハッチは親潜水艦に繋がっている。搭乗員は親潜水艦から下部ハッチを開けて魚雷に入ると、自らの意思で出ることはできない。上部ハッチは水中では水圧のため開けることはできない。訓練のとき、水上で出入りするだけである。搭乗員席の背もたれより後部推進器までが九三魚雷である。九三魚雷は直径61センチである。これでは操縦員がなかに入って操縦することはできない。直径1メートルの魚雷前部を新たに呉工廠で造って、九三魚雷にかぶせたものがすなはち回天一型である。爆薬量は九三魚雷の0.43トンに対し、これは3倍以上の1.55トンである。ひとたび命中すれば戦艦といえども沈没は免れない。実物は現在、靖国神社の遊就館(ユウシュウカン)に展示してある。 上の断面図は鳥巣建之助 『人間魚雷』(新潮社)から、右の性能表は松村清行 『私説十九年』 から借用した。

 九三魚雷というのはガソリンを酸素で燃焼させて推進器を回す、わが海軍独自の兵器である。ガソリンの燃焼に空気を使用しないため気泡が出ない。普通、魚雷の標的となった艦船は気泡によって魚雷が向かってくるのを知り、舵を切って魚雷に首向して、回避するのである。わが九三魚雷は無航跡であるため、いくら見張りを厳重にしても発見することができない。画期的な魚雷であった。

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表桟橋
 昭和20年(1945)3月30日、われわれ第七四期生約千名は兵学校を卒業して、それぞれの任地に出発した。 大講堂から東西両生徒館の前に堵列して見送る下級生に、挙手の会釈を返しながら卒業生は表桟橋まで行進する。表桟橋からは機動艇でそれぞれの任地に出発するのである。 私はこの行進の途中、半年前に別れた松村に会った。というのは前年10月から、私は新しく 開校した大原分校にいたからであった。卒業式は江田島の本校で行われるので、われわれ分校の一号生徒は本校に集まったのである。松村は開口一番 「回天に行くことになった」 といった。 私 「希望したのか」。 松村 「特攻を希望した。どうせ行くなら飛行機の特攻の方が良かった」。 私 「俺は空母の葛城だ。いずれ皆特攻だよ」。 いずれ皆特攻だといったものの、これから特攻基地に向かうのと、水上艦艇に向かうのとでは状況は天地の差だ。私はいうべき言葉も見つからないまま、別々の機動艇でそれぞれの任地に運ばれて行った。

 松村ら回天組42名は徳山湾の大津島に赴任して、そこでオリエンテーリングを受けた後、各地の特攻基地に配属された。松村が行ったのは大分県の大神(オオガ)嵐部隊であった。私は同期24名とともに呉沖の三ッ子島に繋留する空母葛城に赴任した。 卒業後、特攻基地に向かったものは、回天42名、蛟龍98名、海龍30名、震洋13名、合計183名にのぼった(後にこの特攻戦隊に配属された若干名もこの数字に含めた)。回天については上に詳述したので、以下にはその他の特攻兵器について略記したい。この頃の蛟龍は開戦当初、真珠湾を奇襲した初期の特殊潜航艇にく らべて、大幅に性能が改善されていた。大型化されて排水量は59トンもあり、5人乗り、行動日数5日間、局地防禦を主目的とした小型潜水艦であった。蛟龍組は倉橋島の大浦崎にある訓練基地に向かった。海龍は2本の魚雷を抱えていく ほか、自らも爆装して目標艦に突っ込むという2人乗りの潜水艇である。訓練基地は横須賀、三浦半島の油壺にあった。一度も実戦配置につかないうちに終戦となった。震洋は爆装した高速内火艇である。訓練基地は九州の川棚にあった。すでに本土や南西諸島、比島など各地に実戦配備されていた。作家の島尾敏雄(故人)は第三期予備学生出身の海軍中尉であったが、奄美諸島の加計呂麻島(カケロマジマ)の震洋隊隊長として終戦を迎えた。このときの体験を書いた彼の作品 『出孤島記』、『出発は遂に訪れず』(いずれも新潮社) はベストセラーとなった。

 これらの特攻兵器は特攻の性質上、乗組員の安全に対する配慮はほとんどされていない。艇が敵艦に突っ込むまでの安全があればいいのだ。終戦までの半年足らずの間に、わがクラスメートで殉職したものは回天1名、蛟龍5名、海龍1名を数えた。訓練が死と隣り合わせの危険な兵器であった。松村も空母、海鷹(カイヨウ)を標的艦とする襲撃訓練で危うく死にそうになった。艇が襲撃行動に入ってすぐに、原因不明の上下動を繰り返して 次第に振幅が増幅されていった。回天搭乗員がおそれるイルカ運動が始まったのだ。操縦のコントロールが利かなくなるのである。艇は何度も海底をこすったという。直ちにエンジンを停止して、前部釣合いタンク、駆水頭部の海水をブローする。駆水頭部とは実戦では火薬を詰める部分に、訓練では海水を詰めるところからこの名称がある。艇は垂直となり頭部を海面上に出し、直立して浮遊しながら救出を待つのである。松村艇は事故が起きてから1時間半後に救助艇に発見されて、九死に一生を得た。

 その頃,戦勢は急速に我に非となり、回天を攻撃海面に運ぶ親潜水艦が次々に未帰還となった。わがクラスメートに出撃の機会の来ないまま8月15日の終戦となる。8月24日夜、大神(オオガ)基地では翌日の下士官・兵の復員をひかえて、お別れパーティーが催された。お別れ会は荒れることもなく無事に終わった。 皆が寝静まった8月25日の未明、わがクラスの松尾秀輔は練兵場の真ん中で手榴弾で自決した。熱血漢の松尾は敗戦の現実に耐えられなかったのである。松村は松尾の自決の模様を自分史 『私説十九年』 に次のように書き残した。

 ”・・・両手が手首から無くなっていて,指骨だけが扇子の竹桟のように 末広に開いている。  左胸部が、そこだけ見事に抉り取られ、肺腑はスッ飛んで、肋骨が露出し ている。  血潮はあまり流れておらず、顔、肩、胴,足などには何の損傷もない。  表情は瞑目していて平和。  無残! といった感じは全くない。   明らかに手榴弾を心臓の傍で発火させた結果だろう。  (多分)本人の計算どおりの見事な、天晴れな自決であった。  そういえば松尾が四、五日前  「自決するには手榴弾に限るヨ。一番簡単だヨ」。  と嘯きながら、何処からか手に入れたそれを二つ、私に見せてく れたことがあった。感度の鈍い私は、それを聞き流していたのであった。”

 残務整理が終わって松村が長崎の自宅に帰ったのは9月中旬であった。彼は原子爆弾で破壊された郷里長崎の街に衝撃を受けた。その後彼は大日本インキ化学工業㈱に就職し、栄進して専務取締役になった。  平成10年4月、前々年に受けた肺癌手術の予後が悪く、亡くなった。享年 71 歳であった。5月1日、東久留米市の浄牧院で行われた告別式には、海軍関係者だけでも80人も集まった。90歳の老齢にもかかわらず、車椅子で会葬した大日本インキの創業者、川村勝己氏は、声涙ともに下る長い弔辞を読んだ。

 ”この一篇は二人の倅へ向け綴ってみたものである” と始まる松村の自分史 『私説十九年』 は次の言葉で結ばれている。

  ”私の人生は十九歳の夏まででおしまい。アトは単なる蛇足に過ぎない”

 (2006. 3.25)

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